第二話 七年前の記録
教会本部の応接室は、石壁が冷たく、それなのに不思議と心が落ち着いた。
屋敷の応接間にあるような緋色の天鵞絨も、金縁の鏡も、ここにはない。長椅子は黒い革で、座面は使い込まれて少しだけくぼんでいた。窓は縦長で、桟の影が床に長く落ちている。壁にかけられた銀の十字架は、磨かれているのに鈍く光って見えた。
私は両手を膝の上で重ねた。指先がほんの少し冷たい。
馬車の中で考えてきた挨拶は、扉が開いた瞬間に半分忘れた。
「お待たせいたしました、公爵令嬢」
声は思っていたより低く、静かだった。
入ってきたのは長身の男性だった。黒の聖衣に、首元には枢機卿の徽章。年齢は三十をいくつか過ぎたあたりだろうか。歩き方に音がなく、扉を閉める手つきも丁寧だった。私の前まで来ると深く礼をなさった。
「アロイス・フォン・リンデンベルクと申します。本日はお越しくださり、ありがとうございます」
「セレスティア・フォン・エルムハルトでございます」
私も立って礼を返した。視線を上げた時、彼の目と一瞬だけ合った。深い灰色の目だった。何かを思い出しかけて、私は瞬きをした。
どこかで、お会いしたことが。
確信はなかった。けれど面影が記憶の隅で揺れた。
枢機卿閣下は私のために長椅子を勧めてくださった。座って間もなく、修道服の若い修道士が銀盆に紅茶を運んできた。湯気が立ち上っている。
私の前にカップが置かれる。次に枢機卿閣下のカップが置かれた。
その時、彼が指の腹でカップの縁に軽く触れた。ほんの一秒に満たない動作だった。温度を確かめてから、修道士に向かってわずかに頷かれた。修道士はそれを当たり前のように受けて、礼をして退いた。
何のための仕草なのか、私には分からなかった。枢機卿の作法に、私が知らない決まりがあるのかもしれない。私は紅茶のカップに目を落とした。湯気が、ちょうどよい高さで揺れていた。
「公爵令嬢」
呼ばれて、私は顔を上げた。
「昨日の書状で、突然のお呼び立てとなりましたこと、まずお詫び申し上げます」
「いいえ。あの」
声を整えてから、続けた。
「あの書状の意味を、伺いに参りました」
枢機卿閣下は深く頷かれた。机の上にはすでに一冊の革表紙の書冊と、薄い書類束が置かれていた。
「お見せしたいものがございます。お差し支えなければ、こちらをご覧いただけますか」
私が頷くと、彼は書類束を私の方へ静かに滑らせた。
最初の一枚に、子供の名前がいくつも並んでいた。十二、三人ほどだろうか。年齢が添えられていた。六歳。八歳。五歳。一番下の子は二歳だった。
「七年前の冬」
枢機卿閣下の声はゆっくりだった。
「王都南端、第七孤児院で火災がございました。覚えていらっしゃいますか」
覚えていた。覚えていないはずがなかった。
あの夜、私は十五歳だった。婚約式から半年が経ったばかりで、まだ婚約者の隣に立つことに慣れず、社交の場ではいつも声が小さくなっていた。雪の夜だった。修道院から急報が届き、母の遺品の毛布をかき集めて馬車に積んだのを覚えている。あの夜から私は慈善行事を、殿下のご名代としてではなく、自分の意思で動くようになった。
「ヤン、ニーナ、エルマ、ピョートル」
枢機卿閣下が名簿の最初から子供たちの名前を読み上げていく。
「腕に火傷を負ったヤン。煤を吸って息が苦しかったニーナ。足首を捻ったエルマ。母を呼んで泣き止まなかったピョートル」
私は浅く息をした。
その夜、私が直接手当てをした子供たちだった。修道女と一緒に、明け方まで湯と布を取り替え続けた。それきり二度と思い出すこともなかった顔と名前が、私の前の紙の上に当たり前のように並んでいた。
「あなた様の手当てをお受けになった十三名は、全員、五日以内に発熱が引きました」
枢機卿閣下は次の書類を私の方へ滑らせた。
「同夜、別の修道女が手当てされた十名のうち、発熱が五日以内に引きましたのは、二名のみでございます」
私は書類の数字をしばらく読み返した。
「これは」
「同じ夜、同じ症状、同じ薬、同じ環境で、手当ての手だけが違いました」
枢機卿閣下は続けて三枚目を見せてくださった。今度は王都の各教区から集められた快復記録の写しだった。北、東、南、西、四つの貧者救護所と、二つの病者収容所と、一つの孤児院。
「七年間、七つの教区で、独立して記録が取られておりました」
「独立して」
「神官七名が互いに連絡を取らず、それぞれの判断で記録を続けておりました。あなた様の手当てを受けられた患者の快復率は、他の介護者の手当てを受けられた患者と比べ、平均して三倍でございます」
七年。三倍。
数字は嘘をつかない、と父が幼い私に教えてくださったことがあった。帳簿の話だったと思う。あの時の父の声を、なぜか今思い出した。
私は紅茶を一口、口に含んだ。喉を通る前に、自分が手を震わせていないか確かめた。震えてはいなかった。それが、かえって不思議だった。
「あの、私の手当ては特別なものではございません。ただ、湯を温く保ち、布を頻繁に替えて」
「同じ湯、同じ布、同じ薬、と申し上げました」
枢機卿閣下の声は変わらず静かだった。私を遮るのではなく、ただ事実を置く声だった。
「同じ条件で結果が違いました。神官たちは、その理由を七年、観察してまいりました」
私は黙った。
長椅子の座面の革は、私が座っているところだけわずかに温かかった。
扉を叩く音がした。
入ってきたのは白い髭をたくわえた老聖職者だった。深い緑の聖衣に、首から下がった金の徽章。私は息を整え、立ち上がった。
大司教猊下。
絵姿でしか拝見したことのないお顔だった。それでも一目で分かるのは、お側に控えた書記の修道士の所作のせいだろうか。
大司教猊下は穏やかに礼を返し、私に座るよう促してくださった。
「公爵令嬢。長旅、お疲れでございましょう」
「いいえ、王都内ですので」
私が答えると、大司教猊下は小さく頷かれた。それから、机の上の革表紙の書冊に視線を向けられた。
「枢機卿、進めなさい」
枢機卿閣下が頷き、革表紙の書冊を私の方へ向けて開いた。古い羊皮紙が綴じられていた。文字は私の知らない古い書体だったが、一部は読めた。
「七十年前、先代聖女が遺された記録の写しでございます」
「先代聖女」
私は息を浅くした。先代聖女の存在は、教会の祈祷会で耳にしたことがあった。けれど今はもう御代を退かれ、修道院で晩年を過ごしておられると、その程度のことしか存じ上げなかった。
「先代聖女様は、生前に次代の聖女についての記述をいくつか遺されました。詳細はここでは申し上げません。お話しできるのは、ただ一つでございます」
大司教猊下が次の頁を指で示された。
「七年の沈黙ののち、銀の封蝋が彼女を呼ぶ」
私はその一節をゆっくり読んだ。
昨夜、手元に届いた書状の封蝋を思い出した。
「七年と申しますのは」
枢機卿閣下が続けられた。
「次代の聖女が、ご自身の意思で奉仕を続けられることをお確かめする観察期間でございます。教会はこの七年の間、いかなる介入も控えるよう、教義として定められております。あなた様の七年は、ずっと見守られておりました」
私は何かを言いかけて、口を閉じた。
七年の沈黙、と彼は言った。
私の七年も、ちょうどそのぐらいの長さだった。
七年、誰も助けてくださらなかった。
そう思いかけて、私は自分の中の声に驚いた。声に出してはいない。けれど胸の奥で、はっきりとそう言った人間がいた。私は紅茶のカップに目を落とした。
枢機卿閣下がわずかに身じろぎなさったように思えた。
「公爵令嬢」
「はい」
「お辛い七年でいらしたことを、教会は承知しております。介入が許されなかったことを、私はお詫び申し上げます」
大司教猊下も深く頷かれた。
謝罪を、教会の御方からいただいたのは、初めてだった。
私は何と返事をすればよいか分からなかった。「ありがとうございます」では足りない。「いいえ」では嘘になる。
紅茶のカップをわずかに右へずらした。
ずらしてから、自分が何のためにそれをしたのか、自分でも分からなかった。
書類の確認が終わり、大司教猊下が立ち上がられた。
「では、進めましょう」
枢機卿閣下も立ち、私に手を差し伸べてくださった。立ち上がる必要があるのか、私は一瞬迷った。立ち上がるべき場面なのだろうと、礼の経験が告げていた。
大聖堂の祭壇前まで、書記の修道士に案内された。
正面の祭壇には白い百合が一輪、銀の盃に挿してあった。ほかには何もない。ステンドグラスを通った光が、祭壇の前の石床に淡い青と緋色を落としていた。
「公爵令嬢、こちらへ」
私は祭壇の前へ進んだ。
大司教猊下が低く祈祷を唱え始められた。古い聖句で、私は半分も意味を取れなかった。ただ最後の一節だけは、はっきりと耳に残った。
「聖女候補として、これを認証する」
それだけだった。
歌もない。冠もない。儀仗もない。私は跪きさえしなかった。ただ祭壇の前に立ち、大司教猊下の祈祷を聞き、終わったあとに礼をした。
枢機卿閣下が、後ろで、私と同じ角度で礼をなさっていた。気配で分かった。
応接室に戻った時、もう日は傾いていた。窓の桟の影が、長椅子の縁を覆い始めていた。
二杯目の紅茶が運ばれてきた。湯気は最初の時より少しだけ低かった。
「ご質問がございましたら、何なりと」
枢機卿閣下がおっしゃった。
質問はありすぎた。けれど、口から出てきたのは、自分でも予想しなかった一つだった。
「私をご存じだったのですね」
枢機卿閣下が一瞬、黙られた。
それから、ゆっくり頷かれた。
「七年前の冬、私は当時、若い司教でございました。火災のあった夜、第七孤児院の救護に駆けつけた聖職者の一人でございます」
私は息を吸った。
あの夜、修道院の馬車が雪の中を着いた時、修道女たちのほかに若い聖職者が一人いた。火傷を負った子供を抱えて、湯を運ぶ私と入れ違いに、外の井戸まで何度も走ってくれた人がいた。顔をしっかり覚えていたわけではない。ただ、何度目かに井戸から戻ってきた時、その人が私に「あなた様のお手は、温かいですね」と短く言ったのを、私は今初めて思い出した。
「あなた様が手当てなさった十三名のうち、ヤンとピョートルの最初の処置は、私が担当いたしました。あなた様の手当てに移して以降、二人は順調に回復してまいりました」
「ヤン」
私は口の中で名前を繰り返した。
「ヤンは現在十三歳でございます。教会附属の学院で、神学を学んでおります。ピョートルは十一歳。北の修道院の見習いとなっております。エルマは医学を志し、東の薬院に住み込みで」
枢機卿閣下は机の上の薄い帳面を私の方へそっと押し出された。
開くと、十三人の名前と現在の所属、最近の様子が、一人ずつ短く記されていた。最終更新は先月の日付だった。
私は頁の上に手を置いた。
紙の上に名前があった。一つずつ。生きて、育って、それぞれの場所で何かを学んでいる人の名前が。
「あなた様の祈りを、私はずっと数えておりました」
枢機卿閣下がそれだけ、低く言われた。
長椅子の革は、私が座っているところだけ、まだ温かかった。
帰りの馬車は、教会の用意した馬車だった。私のために、と枢機卿閣下がおっしゃった。屋根に教会の紋章が控えめに彫られていて、馬車の中には薄い羊毛の膝掛けが用意されていた。
公爵邸までの道は、夕暮れの中、ゆっくりと進んだ。
窓の外を、教会の塔が遠ざかっていく。塔の影が王都の家々の屋根を撫でながら、遠くへ伸びていた。私は窓に額を寄せたい衝動を、辛うじて抑えた。聖女候補として正式に認証された者が、馬車の中で窓に額を寄せるのは、たぶん、よくない。
帳面の中の十三人の名前を、心の中で一人ずつ思い返してみた。
ヤン。ニーナ。エルマ。ピョートル。
七年前のあの夜、私は確かに、その子たちに触れた。
その手が、平均の三倍。
数字には、まだ慣れない。
私は紅茶のことを思った。三十をいくつか過ぎたあろう枢機卿閣下が、給仕の修道士より先に、指先でカップの縁の温度を確かめた仕草。あれは、教会の作法なのだろうか。修道士が当たり前のように受けていたから、きっとそうなのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
公爵邸に着くと、玄関の前にマルタが立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
私は馬車から降りた。馭者が深く礼をして、馬車は静かに引き返していった。教会の紋章が夕闇に紛れて見えなくなるまで、私はその場に立っていた。
「マルタ」
「はい」
「私は、何だったのでしょう」
マルタが少しだけ目を細めた。それから何も答えなかった。
私もそれ以上聞かなかった。
玄関を入ると、執事が父の書斎へ通された一通の書簡について、控えめに告げた。差出人は王宮。封蝋は銀ではなく、緋色だった。
「明朝、王宮よりお招きがございますとのことでございます」
私は自分の指が、まだ温かいことに気づいた。
紅茶のせいかと思った。けれど紅茶を飲んだのは、もうずいぶん前のことだった。




