9『灰猫亭のナイスミドル』
夕暮れの都市ナータは、汗と安酒の匂いがした。
異世界もののテンプレなら、串焼きやステーキといった香ばしい肉の匂いが漂ってくるのだろうが、現実は残酷だ。
この世界において、肉はあくまでスープに旨味をつけるための調味料兼、ささやかな具材でしかない。
塩漬けの豚肉やベーコンを野菜スープの出汁として少量使うのが関の山で、それすら庶民には週に数回ありつけるかどうかだ。
「唐揚げ……カツ丼……ハンバーグ……ああ……」
ぎゅぅぅぅぅ、と情けない音を立てて腹の虫が鳴る。異世界に転移して以来、空腹とはすっかり気心の知れた親友になってしまった。
「カグヤ……。気持ちはわかるけど、諦めるしかないよ」
いつもなら腹の音をからかってくるリリィでさえ、今回ばかりは力なく肩を落としている。
「都市より、農村で生活したほうがいいんじゃないか? アブ姉の魔法があれば水には困らないんだし、農業と家畜の飼育で暮らしてさ」
俺がペチャンコの腹を撫でながらぼやくと、アブ姉は腕を組みながら現実的な答えを返してきた。
「そうはいっても、土地を借りなければなりませんし、そうなると高い税金を納める必要がありますから……」
「クソ……。便利な魔道具でもあれば辺境に引きこもって生きていけるのに。この世界、魔道具なんてないし魔法も万能じゃないし」
俺たちは人間よりずっと長く生きる。百年後、二百年後に近代化するのを待つしかないのだろうか。
網膜を焼くような夕日に目を細めながら、人ひとりがやっと通れるような細い路地へと足を踏み入れる。
やがて見えてきた、灰色の猫が描かれた看板。ここがお目当ての『灰猫亭』だろう。人口二千人程度の寂れたこの街で、数少ない宿泊施設の一つだ。
カラン、と木製の扉に備え付けられたベルを鳴らして中へ入る。
「いらっしゃい。ちょっと待っててくれ」
俺たちを出迎えたのは、ナイスミドルといった雰囲気の男性だった。着ているものは質素だが、ほどよく膨らんだ筋肉と高い身長が彼を妙にオシャレに見せている。
やっぱり男は筋肉だよな、と一人で頷きかけて――俺は今の自分が美少女の姿であることを思い出した。ナイスミドルになるという俺の密かな夢は、すでに物理的に打ち砕かれているのだ。
「すまねぇな。この前、店員が一人辞めちまって忙しいんだ」
ナイスミドルは申し訳なさそうにニカッと笑った。
辞めた店員というのは、もしかすると門番から嫌がらせを受けていたという女性店員のことだろうか。ちらりとリリィを見ると、彼女も同じことを考えたのか、少しだけ眉間に皺を寄せていた。
「お食事付きで泊まらせていただけないでしょうか? 部屋は三人同室で」
アブ姉が丁寧な口調で交渉する。
「構わねぇよ。朝夕二食で銀貨三枚だ」
アブ姉はひとまず五日分、銀貨十五枚を支払って鍵を受け取った。
案内された部屋は三階にあるようで、狭く軋む階段をゆっくりと登っていく。鬼人の底なしの体力をもってしても、空腹の前には無力だった。
「……ふぅ。ここですね」
アブ姉が息を切らしながら部屋の扉を開ける。
狭い部屋に、簡素なベッドが一つ。本当にそれだけだった。
現代日本のように便利な照明やクーラーがあるわけもなく、蝋燭や薪は自分で用意しなければならない。まぁ、灯りも風もアブ姉の魔法で何とかならなくはないが、一番の問題は……。
「三人でベッド一つ……」
リリィの絶望に満ちた声が響く。
「ま、まぁ……安宿だし仕方ないじゃん」
フォローを入れた俺を、リリィが冷めた目で見つめてきた。
「……まぁ、カグヤが女になったからいいか。いくら血が繋がってるとはいえ、男子高校生の弟と一つのベッドで寝るのは嫌だったけど」
「辛辣」
まぁ確かに、俺としても気まずいが。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされた。
扉を開けると、そこには先ほどのナイスミドルが立っていた。驚いたことに、彼はその逞しい腕で、木枠のベッドを丸ごと一つ抱え上げている。
「嬢ちゃんたち。三人でベッド一つはきついだろ。どうせ泊まる客なんてめったに来ないし、隣の部屋のベッドを使いな」
そう言って、店主は軽々と俺たちの部屋にベッドを運び込んでくれた。
「いい人だね……」
リリィがぽつりと呟く。アブ姉は深く頭を下げた。
飢えと疲労で荒みきっていた俺たちの心に、店主の不器用な善意が温かいスープのように深く染み込んでいった。
門番のようなクズもいれば、ナイスミドルな店主のようないい人もいる。
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