2『家族の絆は尊く強い』
第一章完結(第10話)まで一気に投稿します。
「ふえっ!? もう出勤時間ですか!?」
アブ姉が素っ頓狂な声を上げて飛び起きる。
「アブ姉、魔物だ! 支援を頼む!」
叫びながら刀を薙ぐ。技術も何もない、力任せの横薙ぎ。けれど鋭い風切り音だけは本物で、突進してきた魔物がピタリと足を止めた。
冷たい瞳が俺を見据える。瞳孔には満月。喉の奥からは、腹に響く重低音。
アブ姉の火の玉が灯り、真夜中の森が浮かび上がる。
「大きな熊さん?」
「アブ姉、あれにさん付けしないで」
リリィの声に、俺も全力で同意した。
地球では実物を見たことがない。それでも、目の前の存在が「普通の熊」でないことくらいはわかる。一回りどころか二回りは大きい。月光すら吸い込んでしまいそうな漆黒の体毛。胴体だけなら、美しいとさえ形容できたかもしれない。
でも、顔を見ると話が変わる。
頬には十字の傷跡。充血した眼。垂れる涎。口がハムハムと動いている。まるで『早く喰わせろ』と言うように。
「鬼人ってのは、そんなに美味そうに見えるのか」
刀を体の横に引きながら呟く。
俺に剣術の心得はない。数日前まで高校生だったのだから当然だ。持っているのは鬼人の身体能力だけ。
でも、今はそれだけでいい。
相手は図体のデカい熊だ。スピードも小回りも期待できない。なら、大振りの一閃で攻守両立できる。問題は一つ――あの熊が俺より力で上回っているかどうかだ。
盛り上がった肩。無駄を削ぎ落とした四肢。俺より遥かに大きい体格。
――それは、ないよな?
「カグヤ! 来る!」
リリィの声より早く、熊が動いた。
さっきまで静止していたのが嘘みたいだ。弾丸じみた速度で間合いへ飛び込んでくる。
「はぁッ!」
腹の底から声を絞り出し、全力で横薙ぎを放つ。刃が熊の右肩を捉えた。血が噴く。熊が不快そうな声を漏らす。
――浅い。
致命傷じゃない。あの瞬間、筋肉を固めていた。分厚い肉が、刃を受け止めたのだ。
考える間もなく、体当たりが来た。
腹が凹む。内臓がひしゃげる。口の中が鉄錆の味で満ちて、血の塊がこぼれ落ちた。
「カグヤ!!」
アブ姉とリリィの声が、遠ざかる。
衝撃で吹き飛んだ体が、背中から木に叩きつけられる。
「……痛ぇな。クソ」
以前の俺なら泣き叫んでいたはずだ。鬼人になってからは痛みへの耐性がついたらしく、恨み言一つで立ち上がれる。
「カグヤッ!」
涙を溜めたリリィが駆け寄ってきた。心配させるつもりはなかったのに。白い光が手のひらから溢れ、腹に添えられると――痛みがすっと引いていく。
「ありがと。それじゃ」
「待って」
前線へ戻ろうとした俺の腕を、リリィが掴む。前線ではアブ姉が巨大な火の玉を浮かせ、熊の動きを封じていた。
「カグヤが……カグヤが死んでしまいました……ぐすっ」
ポロポロと涙をこぼすアブ姉。いや、死んでないから!
「早く戻らないとアブ姉が」
「アブ姉は大丈夫。カグヤ、落ち着いて」
リリィが俺の目を真っすぐに見る。
「カグヤの攻撃は、あの熊に通用しない。これはいい?」
「……ああ」
拳を握りしめながら答える。今の俺では、あの筋肉を一撃で断ち切れない。
「有効なのはアブ姉の炎。でも、巨大な火の玉はゆっくりとしか動かせないから、簡単に避けられる」
「だから俺が熊を」
リリィが一歩踏み込んで、俺を黙らせる。
「私たちは家族。一人で戦う必要なんてない」
――ハッとした。
地球では姉貴たちに頼りっぱなしだったから、せめてこの異世界では役に立ちたいと焦っていた。でも、怪我して心配させたら意味がない。
「今からカグヤに結界を張る。アブ姉の炎でも、十秒くらいなら耐えられるはず」
「……つまり、俺が熊の足止めをして、俺ごとアブ姉の炎を浴びせるってことか」
「うん。炎が落ちたらすぐに逃げて。あと呼吸に気を付けて。鬼人も酸素がないと死ぬと思うから」
「わかった」
サムズアップして、駆け出す。
アブ姉を通り過ぎるとき「カグヤ! 生きていたのですか!?」と叫ばれた。
「生きてるよ! アブ姉! 俺ごと熊を焼いてくれ!」
「ふぇっ!? カグヤはドMだったのですか!?」
「違ぇよ! リリィに結界を張ってもらったから俺には効かない! 熊の足止めは俺がやる、とどめは任せた!」
言い切ると同時に、地面の石を拾って熊の目へ投げつける。熊が鬱陶しそうに顔を逸らした。
「筋肉は断ち切れなくても――目玉は別だよなぁ!」
間合いを取りながら、目だけを狙って突きを連打する。卑怯だとはわかってる。でも先に襲ってきたのはそっちだ。
熊は必死に頭を振り続ける。高速で動く顔が残像になって、いくつもあるように見えた。
背後でアブ姉が火の玉を動かし始めたのか、地面を照らす光がじわじわと強まっていく。結界のおかげで肌は守られている。でも体の内側までは無理らしく、熱を帯びた空気を吸うたびに肺が焼けるように熱い。
「グゥゥゥ」
熊が困ったような声を上げた。俺の突きを避けるのに手一杯で、足を動かすことができていない。炎が、熊の体毛に触れる。
次の瞬間――視界が赤に染まった。
「グガァァァァァ!」
熊の絶叫が轟く。
炎の痛みに熊の意識が逸れた一瞬。俺の刀が、熊の目に突き刺さった。
柄から手を離して、全速力で炎の海を抜ける。
「た……助かった」
真夜中の冷気が肌を撫でる。生きてる。俺たち三人で、倒した。
「カグヤ。大丈夫?」
リリィが駆け寄り、すかさず回復魔法をかけてくれる。普段は毒舌なのに、こういうときだけ素直だ。
「カグヤが生きててよかったですぅ!」
アブ姉が抱きついてくる。涙が滝になっていた。本当に死んだと思っていたらしい。
「……アブ姉、息が苦しい」
「すみません。って、なんだか私も息が苦しいような……」
「私も」
焦げた匂い。立ち込める煙。
「ヤバい! アブ姉、消火! 消火! 山火事になってる!」
アブ姉の肩をゆすると、そっと目を逸らされた。
「す、すみません……もう魔力が」
……まずい。このままでは森が全焼する。
「カグヤ、まだ動ける?」
パニックの中、リリィだけが静かだった。
「動けるけど」
「火が燃えるには燃料が要る。燃えるものをなくせば、自然と消える。周りの木を全部引っこ抜いて」
……それ、絶対しんどいやつじゃん。
「早く」
「わかったよぉ!」
引っこ抜いては投げる。引っこ抜いては投げる。それを一時間繰り返して、ようやく炎は鎮まった。
リリィがこのパーティーの頭脳です。
有能だけどポンコツなアブ姉と、思春期男子に挟まれた苦労人。
読んでいただきありがとうございました!




