7-8 【幕間】ルナとグレース
グレース・レイシャ・アスペンウッド伯爵令嬢は、フェアウェルローズ・アカデミー入学早々、恭しく差し出されたカードを見て戦慄した。
──グレース・レイシャ・アスペンウッド様
大切なお話がありますので、今日のお昼にカフェテリアにいらしてくださいませ。
アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール
「…………」
「お返事を伺うようにと仰せつかっております」
フェアウェルローズ・アカデミーの校舎正面入り口前。まだ勝手が分からずキョロキョロしながら登校してきたグレースに、セルヴェール公爵令嬢の御者だと言う小柄な老人が声をかけ、小さなカードを渡してきた。老人はグレースがまじまじと文面を眺めるのをたっぷりと待った後、とても遠慮がちに呟き、グレースは慌てて何度も頷いてみせる。
「え、ええ、承知いたしましたと、お伝えください」
「ありがとう存じます」
しどろもどろに答えたグレースに、御者は帽子を胸に当てて深々と頭を下げると、軽い足取りで御者控室の方に去っていった。
「…………」
グレースは呆然とその背中を見送るしか出来ない。
アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール──セルヴェール公爵令嬢といえば、容姿端麗、温柔敦厚、聡明叡智にして次期国王フェリクスの婚約者に他ならない。その公爵令嬢が、何かものすごくかしこまって自分を呼び出している。
「……何だろう……?」
全くもって心当たりがない。自分で言うのもなんだが、黒髪黒目、背は高くも低くもなく、顔立ちも平凡。オシャレに疎くて髪は三つ編み、コルセットをすれば細く見えなくもないくらいの体型も、どこにでもいる十四歳の少女と大差ない。そんな自分に、誰もが知る公爵令嬢が何の用だろう? 首を傾げながらカードをポケットにしまいクラスルームに行く。クラスメイトとぎこちない会話をしていると予鈴が鳴り、本鈴が鳴り、担任の教師がやって来た。オリエンテーション期間なので授業はないが、その代わりにアカデミーの仕組みやらカリキュラムやらの説明が山ほどある。スカラバディについての説明があり、仮決めの表が黒板に張り出されてそれを見に行くと、自分の名前のところに先ほどのカードの署名と同じ名前があった。
(ああ……そういうことか)
胸の中に膨らみかけていた何かが、ぺしゃんこに潰れて萎びていくのが分かる。そうだよ、王子殿下の婚約者様なんて、有名で華やかな人が私なんかに用事があるはずがない。スカラバディはまだ仮決めだから、きっと誰かと交替して欲しいと言われるんだ。仲間外れにされるわけじゃなし、それで別に拗ねたり僻んだりする気はない。アカデミーで一番楽しみなのは図書館で素晴らしい本を見つけることだから、誰がバディでも大した違いはない。だけど、こんな私に対面して話そうとしてくれるなんて、律儀な方だな。ぼんやり考えているうちにあっという間に昼休みになり、グレースはカフェテリアへと向かった。
人が集まり始めているカフェテリアで、セルヴェール公爵令嬢は一際目立っていた。ただテーブルに座っているだけなのだが、横顔が美しいとグレースは思った。目鼻立ちが整っているのもそうだが、青い瞳が光を宿して、瞬きの度にきらきらと輝く。その青と対照的な、燃えるような赤い巻毛が背中に流れ、えんじ色のリボンを結んでいるのも、ただそれだけなのに豪奢な羽織を纏っているように見える。凛と伸ばした背筋、肩から腰にかけての、とても一つ歳上なだけとは思えない大人びた曲線。
(……綺麗な人だな)
あんな風に美しく生まれて、セレネス・シャイアン候補と言われ、王子殿下の寵愛も一身に受けて。きっと自分のように、目がもう少し大きかったらとか、もう少し手足がスラリとしていたらとか、友人知人との会話で失敗しなかったらとか、そんなことで悩んだりはしないんだろうな。そんな人が、昼休みが始まってすぐなのに、もうカフェテリアにいて、自分を待っていてくれた。本当に律儀な人。そんなことを考えて声をかけるのをためらっていると、公爵令嬢は辺りを見回し、グレースをその青い瞳でしっかりと捉えた。
「アスペンウッドさん、こちらですわ」
怒鳴ったり叫んだりするわけでもないのに、よく通る声だった。自分の周囲がざわりとどよめくのが分かる。グレースはたじろいだが、きゅっと唇を噛み、勇気を振り絞って公爵令嬢が待つテーブルへと歩み寄った。
「大変お待たせいたしました、セルヴェール様」
「ご機嫌よう、わたくしたちもちょうど席に着いたところですのよ。貴女の分のお茶と昼食も頼みましたから、ここでご一緒に待ちましょう」
「はあ……」
テーブルには公爵令嬢しかいない。わたくしたち、と言ったのが気にかかったが、グレースは追及する気にはなれず、言われるがままに席につく。
「素敵な黒髪の、知的な眼差しの方だとベルツから聞いていましたの。一目見てすぐにアスペンウッドさんだと分かりましたわ」
「はあ……」
公爵令嬢はにこやかに微笑みかけ、グレースは意味もなくドギマギしながら適当な相槌を打つしかできない。ああ、私、今、ものすごく感じ悪いんじゃないだろうか。せっかく話しかけてくださっているのに……。
「時にアスペンウッドさん、スカラバディの仮決めについて、ご覧になりまして?」
「あ……はい。午前中に張り出されたのを見ました」
「そう……では、仮決めがわたくしであることもご覧になりましたのね?」
「……はい」
グレースが頷くと、公爵令嬢はきゅっと顔を歪めて視線を落とした。
「今日お呼び立てしましたのは……わたくし、仮決めを辞退させていただきたくて、お願いに上がりましたの」
「ああ……はい、何となくそんな気はしてました」
「……そう?」
「はい」
「……そう……」
公爵令嬢は眉根を寄せて悲しげな顔になり、じっとグレースの瞳を見つめる。
「貴女のことをよく存じ上げもしないのに、辞退だなんてお願いして、厚かましいとお思いになるでしょう……わたくしの単なる我儘で、貴女の何かが至らないですとか、そういうことではありませんのよ」
「……お気遣いありがとうございます」
一生懸命言い訳を並べる様子も、顔の表情やら指先の動きやら、いちいち洗練されていて美しいな。いつも読む物語に出てくる姫君たちは、きっと公爵令嬢のような立ち居振る舞いをするんだろう。グレースがそんなことを考えていると、俄かに公爵令嬢は顔を輝かせる。
「それで……今日は、お詫びをお伝えするのもですけれど、貴女のスカラバディになる方をご紹介しようと思いますのよ」
「よう、アンタがアスペンウッドか」
背後からの声にグレースが振り返ると、そこには背の高い人物がトレイに食べ物を山盛りにして立っていた。
「……男の人?」
座って見上げると唖然とするほど背が高い。呆然と呟いたグレースを見て、その人物はクックッと笑いながらトレイをテーブルに置く。
「生憎、私は女だよ。アンタのスカラバディだからな」
ニヤリと笑って見せた笑顔は、皮肉気なようにも、どこか面白がっているようにも見える。切れ長の瞳がメガネの奥で優しそうに細められ、左の目の際のホクロが妙に印象に残る。
「ルナ、ちょっと買いすぎでなくて?」
「この後剣術部に付き合うからな、稽古の後は腹が減るんだよ」
グレースと同じ直毛だが、高く一つに結ったグレーの髪が、背中で束になってゆらゆらと揺れている。ゆったりと立っているが、引き締まった肢体の力強さは隠しきれていない。胸の辺りの緩やかなカーブがなかったら、本当に女性かどうか分からなかったかもしれない。
「それならいいけれど……残すのはダメよ」
「赤ちゃんのくせにママみたいなこと言ってるな」
「もう……わたくしをからかっていないで、ちゃんとアスペンウッドさんにご挨拶なさって?」
「へいへい」
グレーの髪の背の高い彼女は、公爵令嬢とグレースの間の席に座ると、少し首を傾げ、余裕綽々に──物語に出てくる英雄のように、泰然と微笑んで見せた。
「アンタのスカラバディになる、ルネティオット・シズカ・シュタインハルトだ」
少し低い声は、身体中に染み渡るよう。
「よろしくな」
握手を求めて差し出された手を握ろうと、自分の手を持ち上げようとして、グレースは自分の手が震えていることに気がついた。震えに気がつくと、次は心臓の鼓動が異様に早いことに気がつく。頬が熱い。喉が引き攣って声が出ない。視界が潤んで顔が爆発しそう──本当に女の人? この人が私のスカラバディ? 何かの王子様の間違いじゃないの?
「あ……の……」
「ルネティオットは、わたくしと昨年クラスが同じでしたの。口調は粗野ですけれど、行動力があって頼りがいがありますのよ。アスペンウッドさんにもよくしてくださることでしょう」
「おうおう、もっと褒めてくれ」
セルヴェール公爵令嬢が何か話しているのが聞こえるが、全然耳に入ってこない。中性的な、いやだからこそとても艶やかなまなざしが、なんてことない自分を捉えて微笑んでいる。この人のお名前は、何と言っただろう? ルネティオット?
「す……」
「す?」
「素敵な、お名前、でひゅね」
口から飛び出した平凡極まりない台詞は、変なところで上ずって声がひっくり返ってしまった。その瞬間、王子にしか見えないグレーの髪の彼女は、プッと吹き出してクスクスと笑う。ああ、失敗してしまった、笑われた。恥ずかしい。うつむいたグレースを見て、公爵令嬢が気色ばんで声を荒げる。
「ルナ! 失礼でしょう!」
「しょうがないだろう、可愛いんだから」
「かっ……!?」
「そういう問題じゃなくてよ!」
可愛い? この人は今可愛いと言った。誰が可愛いって?
灰色の瞳が、真っ赤な顔で呆然としているグレースを見て、柔らかく弧を描く。
「……アンタさえ嫌じゃなければ、是非とも私のスカラバディになってもらえると嬉しいんだが……お心のうちはいかがかな、アスペンウッド──いや、グレース嬢」
物語に出てくる、ちょっと口は悪いけど、どこまでも優しい英雄。
まさしくそれを体現したかのようなルナの微笑みに、グレースは耳から湯気が噴出したような気がして──
「きゃあ、大変、アスペンウッドさん!」
「おっと、いかん、やりすぎたか」
そのまま、目を回してひっくり返ったのだった。




