21-4 冬至祭と君の名は
この世界での暦や度量衡は、現代日本に共通するものが多い。
偶然の一致なのか、乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の創作者の意図なのか、あるいは自分の記憶を自分が理解できる単位や言語に無意識に置き換えているのか。理由は分からないが、一年は三六五日でめぐり、同じ大きさの太陽と月があり、月はおよそ二十八日で満ち欠けする。恐らく世界は球状の星で、季節があるということは地軸に傾きがあり──まあ、だいたいが、地球と同じだった。
フェアウェル王国──あるいは近隣諸国を含めた一帯、大地の神テラノスにちなみテラノリアと呼ばれている地域は、太陽神ヘレニアと月神セレニアの二柱を最高神と奉るアストリア教を信仰している。中でもフェアウェル王国は開祖がヘレニアの子孫であると謳われ、代々国王となる者はヘリオスのミドルネームを継承している。アストリア教の主な祭事は太陽の進行に関連付けられていて、特に夏至と冬至は重大な宗教儀式が行われる。一日の日照時間が一番短くなる冬至の日、力が弱まったヘレニアを助けるために、信者は大きな焚火に、棒やろうそくなどに灯した火を一人ずつくべていく。その時、太陽を表す赤い服に、雪を表すフチ飾りをした服を着るのが古くからの習わしであった──
「……まあ、どう見ても、サンタコスですわね」
茶色の落ち着いたワンピースに赤と白のコートを羽織ったアンジェが話しかけると、ルナはニヤリと笑って肩をすくめて見せた。
「おかげでプレイヤー様は攻略対象と楽しくクリスマスデート満喫ってか」
ルナは私服だとほぼほぼ男装の麗人と化すためジャケットと細身のパンツに黒いコート、マフラーだけが冬至祭カラーだ。いつもの伊達眼鏡はユウトの頃の名残だそうで、鼻に何か乗っていると懐かしい感じがする、というだけで度のない眼鏡をかけつづけているらしい。
先日アンジェとリリアンが訪れたフェアウェル大神殿は、今日は多くの参拝者が訪れていて、みな願掛けをしながら中央広場の大きな焚火に自分の火をくべていく。参拝は早朝から日没まで途切れることなく続き、日没後は大祭壇の前で大神官がヘレニアから神託を受け取るための儀式が執り行われる予定だった。セレネス・シャイアンの再降臨を告げる神託が降りたのが二十年前、今年の冬至祭でセレネス・シャイアンが明らかになると告げられたのが昨年。大祭壇の神託──セレネス・シャイアンを一目見ようと訪れる人は、あとからあとから増すばかりだった。空は藍に染まり始めた夕暮れ。間もなく神託の儀式が始まろうという頃合いだ。セルヴェール家とシュタインハルト家のそれぞれの家族も参拝に来ているが、アンジェとルナに限らず、子供達はばらけてそれぞれの友人と行動していた。
先日は馬車で登った長い上り坂にはたくさんの出店が並んでいる。子供達は目を輝かせて屋台のきらきらしいおもちゃや食べ物を覗き込み、大人もどこか嬉しそうに見物しながら神殿を目指す。アンジェとルナは途中でリリアンにも会ったのだが、あの父親が一緒でじろりと二人のことを見て来たので、また後で、と言って距離を置いた。フェリクスとイザベラは神殿の中で行われている長い長い祈祷に出席しなければならないらしく、一度は外の祭りを見てみたいとぼやいていた。その他、クラスメイトやらお菓子クラブメンバーやらエリオットやら、アカデミーで親しい面々とは大体顔を合わせた。
今日は多少行儀が悪くても許される。夕食代わりに揚げ菓子を買い、小さな子供が売り歩いていた雪だるまのブローチを買ってやり、ゆるやかな人ごみに流されるように歩いているうちに、大神殿前の広場に到着した。先日は石畳の広いだけの広場だったが、今は中央に巨大な金属製の釜が置かれ、そこに家一軒はあろうかという巨大な炎があかあかと燃えていた。
「ヘレニア様の炎はこちら。ご寄進は──」
臨時の寄進台があちこちに設置され、神官たちが、卵より一回り大きい程度の炎をたくさん配っている。炎と言っても昔のようなろうそくや棒ではなく魔法で加工された安全なもので、透明な膜の中でさほど熱くなく燃えている。そのまま手で持つことが出来て、膜を触ると柔らかな手応えで押し返される。人ごみの中で事故が起きないようにと考え出された魔法だった。アンジェとルナも寄進箱に札一枚を入れて炎を受領し、潰れないように両掌で包みながら焚火の方に歩み寄った。
「……すごい炎ね」
「さすがに熱いな」
近くに行くと、ぱちぱちと何かが爆ぜる音も聞こえる。むき出しの頬が火傷しそうなほどに熱い。アンジェとルナは手にした炎を焚火に向かってそっと押し出すと、小さな炎はシャボン玉のように大きな炎まで漂っていき、熱気が上る勢いに捕まってふわりと上に飛んだ。そのまましばらく振り回され、ぱちんと弾けると、大きな炎の一部となって見えなくなってしまった。小さな炎がどこまで上がるかで願掛けが叶うかどうかが決まると言われているので、皆自分の炎の行方を真剣に追っている。
「結構上がりましたわ」
「私のはその辺で割れちまったな」
「まあ、残念ね」
「なに、占いはいい時だけ信じればいいんだ」
「そうね」
ルナがさっさと炎から離れてしまったので、アンジェもその後に続き、大神殿の大祭壇ホールを目指す。宵が深くなり、魔法ランプの皓々とした灯りが、聖像やステンドグラスを幻想的にきらめかせる。ああ、そういえばクリスマスデートのスチルでもこんな風にきらきらしていたな。攻略対象ルートの時は、セレネス・シャイアンと発表された後がデート本番だった。悪役令嬢は自分がセレネス・シャイアンでないことに呆然としていたけど、その後はどうしたのだろう?
中央の祭壇、信者席より一段高くなった講話ステージにも大きな釜の中で炎が燃えている。その奥にはヘレニア神の象徴である金色の板が放射状に何枚も重ねられたものと、ヘレニアの偶像が祀られていた。火をくべられた祭壇の周りでは、既に神官が何かの祝詞を唱え始めている。その神官の中にはクラウスの姿もあった。彼のように首都住まいで、自分が管轄する神殿を持たない者は、こうして儀式の手伝いをすることになっているのだ。
ホール内も八割方は参拝人で埋まっている、といったところか。ルナとアンジェがあまり混んでいないところを探していると、不意に目の前に筋骨隆々とした男が現れて二人の行く手を塞いだ。
「失礼、セルヴェール嬢。殿下がお呼びです。シュタインハルト嬢も」
よく見知った、フェリクスの護衛官だった。アンジェとルナが顔を見合わせたところで、おや、と護衛官は首を傾げる。
「スウィート嬢はご一緒ではないのですか?」
「リリアンさんは、お父様とご一緒にいらっしゃるようですわ」
「そうですか。ではまずお二人をご案内いたします」
護衛官はさして気にした様子もなく、二人の前に立って歩き出した。大柄な彼が人ごみを掻き分けて前へ前へと進む。とうとう最前列まで来ると、関係者席として入場が制限されていたエリアの、更に一番前の席に案内された。周囲を見ると、フェアウェルローズに在籍していないセレネス・シャイアン候補も同じように座らされている。
「おかげさまで特等席だな、候補様」
「そうね……」
他の候補たちは、自分こそがセレネス・シャイアンだと期待に頬を染めていた。あるいは緊張で震えて友人やら親兄弟に励まされている。セレネス・シャイアンは、神託によって誰なのかが明らかになると、大神官、王族と共に儀式に参加する。ヘレニア神の加護を受けることでその神性をより強固なものにすると共に、セレネス・シャイアンのお披露目の意味も過分に含んでいる。だからだろう、集まった候補の少女たちはみな華美に着飾っていた。アンジェももっと豪華な服にしたらと家族に言われたし、フェリクスは「十六人の天使たち」のコレクションからティアラを付け、大ぶりのネックレスとイヤリングを付けてほしいと熱望した。アンジェは自分ではないのかもしれないから、と言い訳にもならない言い訳をし、暗い色味のワンピース、リリアンとお揃いのリボンとブローチ、それからコレクションの中でもささやかなネックレスとイヤリングを身に着けていた。ロケット部分を新調したペンダントは、更に服の下にこっそり身に着けている。
人がたくさんいて、目の前に炎がごうごうと燃えていても、手足が冷えてかじかんで来る。アンジェは炎に照らされて熱い頬に指先を当てながら、背後の席を縫うように見てリリアンを探す。リリアンはあの父親と一緒に入り口近くの隅の方に座っていて護衛官と何か話していたが、ゆっくりと首を振った。父親が顔をしかめて何か話し、リリアンの顔が昏く沈む。護衛官もあからさまではないが、少しばかり眉根を寄せている。あの父親は──実の父親ではないあの男は、リリアンに何と言ったのだろう? こちらの席に来ないのは、リリアンの意志なのか、彼が止めたのか。考えたアンジェの脳裏に、先日のリリアンの涙が強烈によみがえった。
(きっと……リリアンさんがご自分で辞退なさったのね……)
「……子リスが来なくて残念か?」
「……そうね……」
ルナはニヤニヤしているが、からかいに応じられるだけの気力もない。
「隣にいたら……わたくしたち、手を握っていられたわ……」
「……まあ、隣だからって、握れるかどうかは分からんぞ」
「それは、どういう……」
アンジェの言葉を遮るように、俄かにホール内がざわめき、次いで拍手が沸き起こった。講話ステージの奥へと続く扉が開き、フェリクス、イザベラ、他の王族たち、大神官、そして国王夫妻が入場した。大神官が白地に金糸の縫い取りをした儀礼用の神官服を着ていて、王族はみな赤に白の縁取りの礼服を着ている。フェリクスは軍服風のジャケット、イザベラはたっぷりとファーが縫い付けられたドレス、国王夫妻はえんじ色の衣服の上に豪奢なマントを羽織っている。国王夫妻はステージ上に留まり、イザベラとフェリクスとその他の王族は祭壇に向かって一礼すると、ステージ端の階段を降り、アンジェ達のいる関係者席の方に近寄ってきた。セレネス・シャイアン候補たちがきゃああと歓声を挙げる。微笑みながら手を振るイザベラ(ゴリ姫モードマシマシ、とルナが呟いた)、求められて一人一人に握手をしてやるフェリクス。フェリクスはぐるりと辺りを見回し、アンジェを見つけて微笑んだが、すぐにおやと首を傾げる。
「リリアンくんは?」
「……入口の方に座っていらっしゃいますわ」
「そうか……」
フェリクスは遠くに視線を投げ、リリアンを発見したようだったが、すぐにアンジェの方を向き直って微笑んだ。
「そのイヤリングもよく似合っているよ。君のたおやかで貞淑な心根を表しているようだ」
ルナが吹き出すのも構わずに、フェリクスはアンジェの手を取って、そっとキスをした。きゃあああ、と一段と歓声が大きくなる。アンジェがセレネス・シャイアンの最有力候補と言われるのは、フェリクスからの寵愛を受けていることも大きな理由の一つだった。フェリクスはアンジェの手は離さないまま隣に座り、アンジェもそれに倣った。イザベラはいつの間にかルナの隣に座っていて、ルナが突然ぐえっと呻いた。脇腹をさすっているあたり、誰にも見えない角度から肘鉄でも食らったのだろう。
「おや、こんなところに雪だるまがいるよ。どうしたんだい?」
「……ああ、参道で小さな男の子が売っていましたの、ご自分で作ったそうで、一生懸命売って回っていらして……いじらしくて、つい買ってしまいましたの」
「そうか。彼もとても喜んだことだろう」
フェリクスはいつも通り微笑んだので、アンジェも頷いて微笑み返した。壇上の大神官と国王夫妻は既に何かの準備に入っている。国王と王妃がそれぞれ釜の横に立ち、大神官から国王に、あかあかと火がともるたいまつが渡される。同じく王妃には、居並ぶ神官たちの中からクラウスが静かに進み出て、深々と一礼した後、王妃に松明を手渡した。国王夫妻は微笑み合い、それぞれ松明を釜の火の中に投げ入れる。神官たちの祝詞が一際激しくなるとともに、燃え盛る炎がオレンジ色から目も眩むような白金へと変わった。おおっ、と湧き上がった歓声に、ホールの窓がびりびりと揺れた。
「はじまるよ」
フェリクスが小さく囁く。
白金の炎は、意志ある生き物のようにぐるぐると渦を巻き、釜の内側へと収束していった。体積が小さくなるたびにその輝きが増し、まさしく太陽のかけらがそこに落ちているかのようだ。光は釜の内側に収まるほど収縮した後、その中央が突然にょきりと伸びあがり──人間の形になった。手、足、目鼻口、髪、彫刻家が大理石から掘り出すように、少しずつ精細な造形を得ていく。やがて光は光のまま、怖気のするような美しい女の姿となり、ゆっくりと辺りを見回した。あれほど騒がしかったホールは静まり返っている。
大神官と国王夫妻が膝をついて首を垂れる。
「古きよりフェアウェルを作り守り給いし、偉大なるヘレニア神。ご降臨、かしこみかしこみ申し上げ奉りまする」
「……大儀じゃ」
大神官の祝詞に、光の化身、王国の守護神ヘレニアはゆっくりと頷いた。金属を打ち鳴らした時のような、酷く硬質で抑揚のない声だ。ヘレニアは首をのろのろと右に向ける。それは妙にゆっくりと動き、精巧な機械が作業する様を見ているかのようだ。彫刻のようで視線がどこなのか分かりにくいが、女神は確かに国王を、関係者席にいるセレネス・シャイアン候補たちを見た。続いてゆるゆると左の方を向き、王妃とそちら側に座る候補たちを見る。
「……どこじゃ。セレニアの愛し子」
関係者席が俄かにざわめいた。微笑んでいた──アンジェが選ばれるだろうと、期待に胸を膨らませて微笑んでいたフェリクスが息を呑む。ヘレニアは顔を上げ、視線を遠くに投げ、一般参拝の席を探しているようだった。アンジェは心臓が千切れてしまいそうで、フェリクスの手を握る。神様、お願いです。あの子はそれを嫌がっているの……。
「出でよ、セレナ」
姿が見えないはずのリリアンが、びくりと体を震わせたのが分かるような気がする。
ヘレニアは何かに吊り上げられるように右手を上げ、入り口近くのただ一点を指差した。
「我が許へ出でよ、セレニアの愛し子。リリアン・セレナ・スウィート」
誰もがその瞬間、神の指差した先を──その先にいた、ストロベリーブロンドの少女を見た。椅子に座り、膝の上で両手を握り締めていた少女は小さな肩を震わせている。隣に座った父親が、この世の富をすべて手に入れたかのような顔をしている。ヘレニアの指先から真っ直ぐに光が迸り、少女を明るく照らし出すと、リリアンはゆっくりとその場に立ち上がった。
「……はい。私はここです、ヘレニア様」
無表情の顔。淡々とした口調。いつか父親が迎えに来た時と同じ、あるいはそれ以上に自分の感情を押し殺し、震える手を握り締めている少女。ヘレニアはゆっくりと微笑み、指をさしていた手を手招きの形に変え、それから両手を大きく広げて見せた。
「待ち侘びたぞ、セレナ。早う来い」
「……はい」
リリアンが参拝人の合間を縫って歩き始める。あれほど密集していた人々が一気に横によけ、リリアンのための道が開かれる。
「…………そんな……」
アンジェの傍らに座るフェリクスが呆然と呟くのが聞こえた。アンジェがフェリクスを見上げるのと、フェリクスがアンジェを見るのはほぼ同時だった。驚愕して、事実をまだ受け入れられていない王子の顔。悲しげに微笑むしかできないアンジェを見て、理解が追いついていない顔。フェリクスはアンジェの両肩を掴み、苦しそうに顔を歪め、衝動に抗えずにアンジェに口づけた。
「アンジェ……」
「フェリクス様……」
ああ、おしまいだ。きっとシナリオの通りに、貴方は私の手を離れて行ってしまう。貴方がわたくしを愛して下さったほど、わたくしは貴方を愛することが出来ただろうか? そんな悲しい目をなさらないで。わたくしはとても、幸せでした。幸せであることに気付けないほどに幸せでした。アンジェの瞳からポロリと涙が落ちる。フェリクスの指がそれを拭う。その指の温かさがそのまま胸を刺す。アンジェはもう一度フェリクスを見上げ、衝動に任せて肩に手を乗せ、愛しい王子の唇に縋った。ゆっくりと顔を離すと、フェリクスは呆然と、何か毒気が抜けたような顔をしてアンジェを見ている。それからフフッと小さく笑うと、照れくさそうに零れかけた涙を拭った。
「初めて……君から、キスしてくれたね、アンジェ」
「え……」
虚を突かれたアンジェに、フェリクスはもう一度キスをする。それから小さくため息をつくと、いつもの柔らかな笑顔を浮かべて見せた。
「行って来るよ。君の大切なあの子を、ちゃんとヘレニア様のところまで送り届けなければ」
「……行ってらっしゃいませ、フェリクス様」
「……アンジェ。愛しているよ。僕はセレネス・シャイアンではなく君を愛している、アンジェ」
「わたくしも……お慕い申し上げております、フェリクス様」
「戻ったら……また、何回でも、……キスしてくれるね」
「……はい」
うつむいてノロノロと歩いてきていたリリアンが、ようやく関係者席のあたりに辿り着いた。二人が唇を交わすのを見ていたのだろうか? フェリクスは立ち上がるとリリアンの許に歩み寄り、アンジェにしているように手を差し出す。リリアンはびくりと身体を震わせ、怯えた眼差しでフェリクスを見上げる。少し悲しげに微笑むフェリクス。首を振るリリアン。ヘリオスの炎の熱気が、じりじりと肌を焼く。リリアンはフェリクスを見て、アンジェを見て──アンジェが悲しげに笑って見せたのを見て、唇を噛みながらフェリクスの手に自分の手を乗せた。
ざわめくホールの遠くで、リリアンの父親が高笑いしているのが聞こえるような気がする。フェリクスはリリアンを伴って進み、階段を上らせ、釜の前に二人並んで立つ。グレーのコートに、手袋だけ赤と白のリリアン。真っ赤な礼服のフェリクス。リリアンの髪にはお揃いのブローチとリボンが見える。
「セレナ。久しいな。美しくなった」
「はい、ヘレニア様。ありがとうございます」
微笑む神の前で、リリアンは淡々と頭を下げる。フェリクスもリリアンも壇上にいて、アンジェが手を伸ばしても届かない。ずっと遠くにいる、わたくしの大切なものたち。わたくしから離れて行ってしまう、行かないで、どうか、ずっとわたくしの傍にいて。胸が苦しい、息が出来ない、息が出来ない……。
「……ッ!?」
気が付いた時には、アンジェの細い首は何か強烈な力で締め上げられていた。苦しい、手を動かして首元を触ろうとするが、身体が動かない、指の一本も動かすことが出来ない! なんとか目線を下に向けると、胸のあたりに黒い靄が渦巻いているのが見える。もやはどこからか湧いて出て──真っ白だったはずの雪だるまのブローチが、泥に落ちて踏みつけられたかのようにどす黒く変色していた。
(なっ……な、に……!?)
息が出来ない、息が出来ない! 苦しさに目の奥がチカチカと明滅する。首を絞めつける力が強すぎて身体が宙に浮かび、つま先が床から離れる。苦しみにもがくこともで出来ない、苦しい、助けて、誰か! その瞬間、ぱちりと耳許で何かが弾ける音がして、リリアンがばっとこちらを振り返る──
「アンジェ様!」
リリアンの声に、フェリクスが、ルナがイザベラがアンジェの方を向く。
「アンジェ!?」
驚いたフェリクスがステージを飛び降りる、ルナが懐に忍ばせていた短刀を抜刀して切りかかるが、アンジェの身体はそのまま宙高く持ち上げられ切っ先は届かない、フェリクスは椅子を蹴って飛び上がりアンジェの足を掴んだが、アンジェの胸元から迸る黒い雷のようなものが彼を打ち、呻き声と共に落下する。きゃあああ、どこかの令嬢の悲鳴をきっかけにホールにいる者たちが驚き絶叫する。護衛官がフェリクスに駆け寄る。ヘレニアが自分と同じ高さまで持ち上げられたアンジェをじっと見る。リリアンがポケットをまさぐり、何かをアンジェに向かって投げつける──それは、アンジェがリリアンにプレゼントしたハンカチポシェットだった。
「ギャッ!!!??」
投げたハンカチがアンジェの膝辺りに触れた瞬間、胸元から悲鳴が、野太い男の悲鳴がした。急に首を絞める力が抜け、アンジェはがくりと落下する、床に当たる前にフェリクスがそれを抱きとめる。ステージ上で、クラウスと他の神官たちが国王夫妻を避難させている。アンジェは咳き込むが、手足はまだ思うように動かない。びくりびくりと激しく痙攣するようにのたうち回り、フェリクスを押しのけたかと思うと、自分の意志に反してゆらりと立ち上がった。
「あ、アンジェ!?」
「よくやった……よくやったぞルネ……褒めてつかわすぞ……!」
アンジェの口から、アンジェの声ではない声が発される。身体中を虫が這いまわるような怖気が走り、手足の自由が奪われる。思考が蕩けて、この身体を明け渡してしまいそうになる。
「逢いたかった……逢いたかったぞ、ヘレニア……!」
アンジェの身体は、壇上の炎の化身に向けて吼えた。その瞬間アンジェの身体から黒い炎が一気に噴き出し、渦を巻いて人の形となる。それはまさしく祝賀会の日、鏡の中から現れた大男。あちらこちらで悲鳴が上がる。ルナがイザベラを背に庇う。席を立ちあがって入口に殺到する人々、泣き出す子供。阿鼻叫喚の最中、黒い炎がアンジェの身体から出るのが止まると、身体が軽くなった。
「ま……ま、ラキオン!」
その場にへたり込みながらアンジェが叫ぶと、大男、古き魔物マラキオンはアンジェの方を向いてニタリと笑う。
「ルネ……余の名を呼ぶか。ならば褥で声が枯れるまで鳴かせてやろうぞ」
「なっ、なにを……!」
「アンジェ!」
フェリクスが駆け寄りアンジェを抱き寄せ、護身刀を抜いてマラキオンと対峙する。
「魔物め、よくもアンジェを……!」
「人の子の分際で、余のルネを得た気でいるか、滑稽なことよ」
「マラキオン!」
壇上でリリアンが叫ぶ、その瞬間閃光がマラキオンめがけて迸る! おどろおどろしい悲鳴を上げて身体をくねらせるマラキオン、リリアンは掌をマラキオンに向け、閃光を連続して放つ。ヘレニアがリリアンの肩に手を乗せ、耳元で何か囁いた。頷いたリリアンの髪が、ヘレニアと同じ白金に光り輝く。その光が頬を伝い、腕を伝い、光の矢となって次々とマラキオンに襲い掛かった!
「ヘレニア……ヘレニア! 余と共に来い!」
実態を失い煙のようにその姿が薄れながら、マラキオンが地を轟かせるような声で叫ぶ。
「セレニアも余の許にいるのだ……何故小汚い人間に与する!」
リリアンは追撃の手を緩めない。ヘレニアはゆっくりと身体を起こし、リリアンから手を離し、マラキオンをじっと見降ろす。
「汚いのはお前じゃ、マラキオン」
ヘレニアが口をゆっくり開ける。その奥が皓と光り、青い稲妻がマラキオンに襲い掛かる、肉の焼ける嫌なにおいがする、のたうち回るうちにマラキオンの姿が薄くなり、やがて虚空に消えてしまう。リリアンがどさりとその場に座り込むと、ヘレニアがその頭をふわりと撫でた。その瞬間、髪色がもとのストロベリーブロンドに戻る。
「よくやった、セレナ」
「あ、あ、ありが、とう、ご、ご」
リリアンが言い終わる前に、ヘレニアの姿はふっと掻き消えてしまった。大釜にあんなにも皓々と燃え盛ってた炎も一緒に消え、ホール内は急に暗くなる。あたりには何かが焦げる匂いだけが漂っており、神官たちがあちこちで慌てて魔法ランプを灯している。既に半数以上の参拝人が、大祭壇ホールを逃げ出した後だった。手前の方の席はのたうち回ったマラキオンとリリアンの閃光で破壊されてしまっていた。
「どうして、大神殿に魔物が……」
「フェリクス、さま……」
意識を失いかけているアンジェを抱き締め、フェリクスは呆然と呟く。
「アンジェ、とりあえず、君は身体を休めないといけないよ。さあ僕が連れて行くから」
「殿下。なりません」
混乱した表情のまま、それでもぐったりとしているアンジェを抱き上げようとしたフェリクスを、護衛官が制した。
「ああ、ありがとう、ヴォルフ。また動かさない方がいい状況だろうか?」
「殿下。……なりません。セルヴェール嬢をこちらに」
護衛官はフェリクスに向かって、アンジェを寄こせと手を差し出す。
「何だ?」
アンジェを抱き締めたまま、声が低くなるフェリクス。護衛官は一瞬たじろいだが臆しはせず、もう一度手を差し出した。
「セルヴェール嬢は大神殿に魔物を招き入れられました。急ぎ身柄を確保し、邪教審問にかけなければなりません。情けは無用です、殿下」
護衛官の後ろから、神官と衛兵がぞろぞろと集まってきて二人を取り囲む。
「何を……言っているんだ、ヴォルフ? アンジェだぞ……僕の婚約者の……アンジェリークだぞ!」
「承知しております、殿下……我が君」
護衛官がフェリクスににじり寄る。フェリクスは怒気も露わに、アンジェを腕に抱いてその場に立ち上がる。
「アンジェ様は邪教なんかじゃありません!」
壇上でリリアンが叫んだ。ステージを飛び降りてアンジェに駆け寄ろうとするが、衛兵がそれを引き留める。
「やめて、離して、何も知らないくせに!」
「お平らに、セレネス・シャイアン様!」
「アンジェ様は悪くない、悪いのはアンジェ様に憑りついた魔物です! 簡単なことでしょ!?」
「お平らに、どうか!」
「やめてよ!」
リリアンの小さな体では衛兵に敵うはずもない。ルナが、イザベラが、呆然とフェリクスとアンジェを見ている、二人を取り囲む護衛官を見ているしかできない。
「殿下……どうか」
「……僕が運ぶ。邪教審問だろうと何だろうと、アンジェの身の安全が保障されるまで、僕はアンジェを地につけないぞ」
フェリクスはアンジェを強く抱きしめる。
「殿下、後生です、お許しください」
「駄目だ!」
そろそろと護衛官が伸ばした手をフェリクスは払いのけ──それを合図に、近衛兵たちが背後からフェリクスに飛び掛かって腕と胴体を抑え、その腕からアンジェの身体をもぎ取った。
「ふざけるなっ……お前たち……許さんぞ! アンジェ!」
「殿下、どうか!」
アンジェは床に降ろされ、護衛官も加わって全員でフェリクスを押さえにかかった。フェリクスは身体に群がる近衛兵や護衛官を振り切り、投げ飛ばし、なんとかアンジェに近づこうとするが、次々と新手が襲い掛かり埒が明かない。
「アンジェ……アンジェ!!!!!」
「アンジェ様!!! 近くに……ミミちゃんが、落ちてます!!!」
リリアンが衛兵の間から叫ぶ。アンジェはのろのろと顔を上げる。
「どうか、ミミちゃんが……ミミちゃんが守ってくれます! アンジェ様!」
アンジェはあたりを見回した。すぐ目の前に、リリアンのハンカチポシェットが落ちているのが見える。震える腕を何とか伸ばしてそれをしっかり握る。布の中にある固い物の感触。そうだ、これはあの子の大切なお人形……。
「ミミちゃんお願い、アンジェ様を守って!!!!!!」
「アンジェ!!!!!!」
二人の悲鳴が急速に遠のいていき、アンジェの意識はそこで途切れた。




