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21-5 冬至祭と君の名は

 大神殿の禁固室は、窓に鉄格子が嵌められていることを除けば嘆くほど劣悪な環境というわけでもなかった。祥子の感覚で言えばほどほどのビジネスホテルのシングルルームと言ったところか。ベッドがあり、薄っぺらい布団があり、机と魔法ランプと水差しが置いてある。ただそれだけの部屋だった。


(祥子の記憶がなかったら、こんなところで寝泊まりするの、と慄いていたに違いないわ……)


 幸い、フェリクスの護衛官に運ばれている最中に意識を取り戻すことが出来たので、ミミちゃんとハンカチポシェットは奪われずに済んだ。というより彼は衣服や持ち物の検査・没収などは行わず、アンジェを禁固室に案内し施錠すると、顔を洗う水とタオルや温かそうな毛布、寝間着、火鉢、ホットミルクなどをこまごまと差し入れ、何も言葉にはしなかったが、何度も頭を下げてから扉に鍵をかけて去って行った。その夜はひどい疲労感で全身の力が入らず、何も考えることが出来ずに昏々と眠った。


 翌日目が覚めても、けだるさは身体から消えていなかった。自分の内側を満たしていた何かがごっそりと沁み出してしまって、カラカラに干からびてしまったようだ。飢えにも渇きにも似た感覚は、差し入れられた簡素な食事を飲み食いしても癒えることはなかった。世話をしに来たのは護衛官ではなく、アンジェの母親と同年齢ほどに見える女性の神官だった。女性神官はアンジェと目を合わせようとせず、火鉢を取り換え、食事と手洗い用の水、タオルを置くと、逃げるようにして部屋を去ってしまった。アンジェは紙とペンを貰えないかと頼みたかったが、とても何か会話ができるような雰囲気ではなかった。


(まあ、いいでしょう)

(考え事をするのには丁度いいわ……)

(書いた内容によっては、本当に邪教扱いされてもおかしくないのだもの……)


 することもないのに、寝間着から着替える気になれなかった。アンジェはため息をつくと、念のために枕の下に隠していたハンカチポシェットからミミちゃんを取り出す。ガラス玉の瞳の、掌で包めるほどのうさぎの人形は、見覚えのあるピンクのエプロンドレスを着て、じっとアンジェを見ているようだ。


【ミミちゃんお願い、アンジェ様を守って!!!!!!】


 リリアンの悲鳴のような声が耳の奥にこびりついて残っていた。いつかのように、預かって、ではなく、ミミちゃんに人格があるかのような言い方だった。


(あの時……ミミちゃんがわたくしに当たったら、首の締め付けから解放されたのだわ……)

(ミミちゃんにも、ペンダントやブローチと同じような守りの力があるのかもしれない……)

(リリアンさんのお母様の形見なのだもの、そうした力を持っていてもおかしくないわ)


 壇上でヘレニアに話しかけられても、さして動じずに話していたリリアン。まるで昔通った学校の先生に再会でもしたかのような口ぶりだった。マラキオンに向けて閃光を放った時の、いつになく鋭い眼差し。あんなふうに魔法を使えるなんて知らなかった。魔物が現れても泣いて逃げるのではなく、立ち向かう力と胆力があることを知らなかった……。リリアンと親しくなった、仲良くなれた、秘密を打ち明けてくれたと思っても、あとからあとから知らないリリアンが現れる。新しい顔に驚いて、秘密を知りたくて、もっと貴女に近付きたくなる──


「ねえ、ミミちゃん。リリアンさんは、あとどれだけ秘密を隠しているの?」


 人形を掌に乗せながら、アンジェは小さな声で話しかけてみた。リリアンの持ち物だから、もしかすると返事をするかもしれない。一瞬だけそんな空想が頭をよぎったが、現実のミミちゃんは微動だにせず、ただアンジェの手の中でじっとしていた。


 禁固と邪教審問については、それほど心配していなかった。父親のセルヴェール公は最高裁判所の長官、兄アレクは警察庁に勤務で弁護人の知り合いも多い。たとえフェリクスが介入を禁じられても、正当な手続きで召喚されるであろう者たちの顔触れは、フェアウェル王国でも屈指の弁護団となるだろう。ただ、二度も魔物を招いてしまったという事実を歪めることはできない。一度は鏡の中から、もう一度は、祭りの最中に出会った小さな少年から買った、雪だるまのブローチ。変色したブローチはコートから外して机の隅に置いてある。弟の小さい頃を思い出してつい頬と財布が緩み買ってしまったのだが、今思い返してもどんな顔と声をしていたのか全く思い出せない。ルナは覚えているだろうか? 鏡の時は、そもそも部屋に誰もいなかったから、証言のしようがない。


(つまりは、あのマ……ラキオンを、わたくしが意図的に呼び出したわけではないと証明できればいいのだわ……)


 背筋をひやりとしたものに触られたような気がした。あの黒い炎は、アンジェがリリアンを想う時──特にエリオットを妬む時に、胸の奥から吹き出るような心地だった。アンジェが自分の心境を象徴的に感じ取ったのだと思っていたが、本当に黒い炎が身体に巣食っていたのかもしれない。


【黒く熱く、身を焦がすような炎──美味であるぞルネ、我が愛し子よ】


(愛し子──あの魔物は、わたくしをそう呼んだ)


 頭に響く男の野太く低い声は、濡れた手でべたりと触られるように不快なものを含んでいる。


王国の守護神(ヘレニア)様も、リリアンさんのことを、建国の女神(セレニア)の愛し子と呼んでいたわ……)

(名前も……ミドルネームで……)


 聖女セレネス・シャイアンは、建国の女神(セレニア)の愛し子。

 王国の守護神(ヘレニア)が守護する聖人や聖女の話は聞いたことはないが、アシュフォード家嫡子がヘリオスのミドルネームを継承しているのが、それにあたるだろうか。


(だとしたら……わたくしは……)

(セレネス・シャイアン候補などではなく……)


【ヘリオスに初物をくれてやるのが惜しくなるな。どれ、余が食ろうてやろう】

【ルネ……余の名を呼ぶか。ならば褥で声が枯れるまで鳴かせてやろうぞ】

【人の子の分際で、余のルネを得た気でいるか、滑稽なことよ】


 アンジェがはじめから自分の所有物であるかのような言動だった。アンジェの身体を、その純潔を蹂躙したい、嬲り尽くしたい、そんな獣じみた欲望をおくびも隠さない、怖気のするような触れ方だった。


古き魔物(マラキオン)の愛し子、ルネ……!)


 どくりと脈打つ心臓が、思い浮かんでしまった自分の考えを肯定しているようだ。


(なんてこと……!)

(邪教どころの話ではないわ……!)

(そんな……そんな存在が、あることすらも知りませんでしたのよ……!?)


 急に手足が震え出してアンジェは自分の肩を抱く。自分で自分に触れる感触が気持ち悪い。衣服が肌に擦れるのが気持ち悪い。ベッドの上に足も上げて、膝を抱えるようにしてうずくまる。この部屋はこんなに寒かっただろうか? 自分の後ろから、あの男が舌なめずりしながら、今にも襲い掛かろうとしているのではないか?


 頭の中に、乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」での悪役令嬢(アンジェ)の行動を思い出す。いくら婚約者を奪われたからと言って、それほどの悪道に堕ちるほどだったのか、と何度も思った。ゲーム開発側が悪役をすべて悪役令嬢(アンジェ)に押し付けたと言えばそれまでだが、それにしてもクーデターに加担し、親の顔に泥を塗り、王国に弓引くほどのものなのかと思わずにはいられなかった。フェリクスを奪われて、悲しみに泣き暮らしている、それくらいが等身大の自分の未来像のように思っていた。けれど、古き魔物(マラキオン)の愛し子として悪なる衝動に突き動かされ、あるいは古き魔物(マラキオン)の命令を盲目的に遂行する傀儡と化していたのだとしたら説明がつく。説明が、ついてしまう。


(なんて……なんてこと……)


 混乱するアンジェのつま先に、不意に何か小さなものが触れた。それはいつの間にか手を離してしまっていたミミちゃんだった。アンジェは咄嗟にミミちゃんを拾い上げ、ガラス玉の瞳を覗き込む。


「ミミちゃん……わたくし……」


 青い瞳から、ぽろり、ぽろりと涙が落ちる。


「正真正銘、悪役令嬢でしたの……」


 誰も見ていないが零れる涙を隠したくて、アンジェは膝に顔を埋めた。声を出したら外の見張りに聞かれるかもしれない。膝に爪を立て、歯を食い縛り、アンジェは嗚咽を堪える。これを知ったらフェリクスはアンジェをアンジェとも思わなくなるだろう。婚約など破棄されて当然だ。昨日交わしたあのキスが、最後になるのだろうか。リリアンにとっては彼女の敵ということになってしまう。もうあの子の柔らかな頬に触れ、交換日記をやり取りし、手をつないで……笑い声を聞くことも、叶わないのだろうか。あの子があの魔物を見たのと同じ、燃えるような瞳で、わたくしを睨み据えるのだろうか……。


「ミミちゃん……」


 ミミちゃんを握り締める指先が、少し暖かいような気がした。それは遠い日の記憶、泣いている祥子の手を誰かが握ってくれていたのを思い起こさせるような温かさだ。思い出の断片の煌めきと、今この部屋に誰もいないことが同時に胸をえぐり、アンジェはただ一人泣き続けた。





*  *  *  *  *





 次の日の昼頃、身なりを整えるように、と女性神官が簡単に湯浴みをしてくれた。寝間着ではなく着てきた服に着替えるように言われ、皺にならないよう畳んでおいた服を着る。雪だるまのブローチはいつの間にか消えてなくなってしまっていた。夕方ごろにまた彼女と、男性の神官、そして衛兵と魔法使いが数人ずつやってきて、ついて来るように、とアンジェに告げた。女性神官が長い廊下を進んでいくのについていくと、一つの部屋に案内される。そこは会議室のようだが、机がコの字型に配置され、大神官、クラウスを含む高位神官たち、黒い揃いのローブを着た裁判員たち、アンジェの母と兄、フェリクス、リリアン、ルナ、イザベラ、お菓子クラブの同学年の三人──アンジェの知る顔が勢揃いしていた。アンジェは部屋の真ん中に立たされ、机に座る一同の視線を一身に受ける。


「さて、愛しい娘は怪我ひとつなく腹も空かせていないようで何よりだ……始めてくれるかね、裁判長殿」

「で、では」


 父が──セルヴェール公爵が、最高裁判所の裁判長の正装をわざわざ着て、コの字の中央部分に座った男の肩をポンと叩いた。男はびくりと身を震わせ、手許の書類をかき集める。


「これより……アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールの、……邪教、審問を、執り行います」

「うむ」


 父は頷くのみだが、神官たちが座る側のテーブルをじろりと睨む。高位神官たちはそれだけでヒッと縮み上がり、大神官も苦渋の顔でうつむいた。一同の様子を苛立ちを隠しもせずに眺めていたフェリクスが、腕組みしつつ指先で自分の腕をトントンと叩く。


「早く終わらせろ」


 アンジェに優しく微笑むフェリクスとは程遠い、残酷なまでに冷たい声だった。焼いて研ぎ出した刀のように、触れればたちまち切り裂かれる、そんな気迫に満ちている。端正に整っているはずの彼の顔は頬がこけ、目が落ちくぼみ、顔色もどこか青ざめている。アンジェを心配しているだけにしては極端に具合が悪そうに見えるが、アンジェにはその原因が分からず、ただ手を握り締める。


 フェリクスの鬼気迫る睨みに大神官は亀が甲羅に逃げ込むように首を縮め、裁判長がもごもごと手許の紙を読み上げる。


「……被告人、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール。汝は、王国の守護神(ヘレニア)神に誓い、し、真実のみを」

「省け。アンジェは神に誓って潔白だ」


 傲岸な物言いの王子に、父セルヴェール公がニヤニヤと笑っている。裁判長も亀のように縮み上がって、読み上げていた書類を傍らに置き、次の書類を手に取った。


「被告人、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール。貴女は魔物が大神殿に侵入するのを手助けした。これは事実ですか?」


 フェリクスが舌打ちする。リリアンが眉を吊り上げて裁判長を、大神官を睨む。他の面々も大体似たような反応だ。アンジェは全員を見回して深呼吸し、いつかのリリアンがそうしていたように、ポケットの中のミミちゃんを握り締めた。


「全くもって違いますわ」

「違う、とは」

「わたくしは、見ず知らずの少年が売り歩いていた雪だるまのブローチを購入いたしました。魔物が現れた時、そのブローチから黒い煙が湧き出ていたように思います。ブローチにそのような仕掛けがあったことなど、全く存じ上げませんでしたわ」


 緊張して震えるかと思っていたのに、言葉が流暢に舌の上を滑って通り過ぎて行く。


「聞き込みをしましたが、あの近辺で雪だるまのブローチを売っていた少年など見つかりませんでした。そのことについてどう考えますか」

「さあ……わたくしは王国の守護神(ヘレニア)様と建国の女神(セレニア)様に誓って、自分の目で見たものだけを話します」

「ま、まわりくどいんです、さっきから!」


 リリアンが叫びながらその場に立ち上がった。


「傍聴人は発言を控えるように」

「黙れ。リリアンくん僕が許す、続けたまえ」

「ま、ま、魔物が……出たって、祝賀会の、王宮でも出たでしょう! わ、わ、私だって、閉じ込められました、魔法氷室に! とっても……寒くて! 案内してきた人、消えてしまって! アンジェ様が、マラキオンに狙われたから、邪教、邪教というのなら! 祝賀会の時に、言う……べきです! 」


 怒りなのか緊張なのか、リリアンは震えながら叫び、途中からぼろぼろと泣き出した。だがそれらを拭いもせずに必死に続ける。


(リリアンさん……)


「魔物に騙されるのが、邪教だと言うのなら……私も邪教です! この私を邪教審問にかけてみなさい! セレネス・シャイアンの私を、邪教審問に! ヘレニア様の前で!」

「リリアンくん」


 見かねたフェリクスが自分のハンカチをリリアンに渡す。リリアンはそれをむしり取るように受け取り、顔中をごしごしと拭き、更に険しい顔で大神官を指差した。


「だっ、大神官様! この前の、面会の時、見たでしょう、アンジェ様を! その時に、アンジェ様に、ま、ま、魔物が、憑いて、ましたかっ!?」

「…………それは…………」

「何も憑いてない、アンジェ様には、何も憑いてなんかいません! あのペンダントはっ、私が、祈りを込めました! だいたい、今、アンジェ様と私がつけてるブローチだって、あっ、貴方が祝福を授けたのではないのですかっ!?」


 大神官は唸りながらうつむき、フェリクスは確かに、と深く頷いて見せる。


「僕は『十六人の天使たち』の為に、大神官に祝福の付与を頼んだ」

「アンジェ様が邪教徒で、魔物に、つ、つ、憑かれていたのだとしたら……貴方の祝福は、とんだポンコツですっ!」


 リリアンの粗い呼気が、静まり返った室内に響き渡る。リリアンは嗚咽を隠しもせずにテーブルに突っ伏して大泣きし、フェリクスとは反対側の隣に座っていたルナがその背をぽんぽんと叩いてやっている。イザベラも扇子で口許を隠しつつ険しい目で対岸の神官たちを見据え、母は怒り心頭で震え、兄アレクも警察兵の制服を着つつ機嫌が悪そうに腕組みしている。裁判長の後ろに腕組みをしながら立っていた父セルヴェール公が、ふむ、とわざとらしく鼻を鳴らした。


「フィッシャー。審議を進めたまえ」

「……げ、原告、答弁を」

「答らえるものなら、答えてください!」


 リリアンの甲高い叫び声が、びりびりと壁を震わせる。原告は、大神官と高位神官たちはうなだれるばかりで、誰一人として口を開くことが出来なかった。


「……殿下。決まりのようですな」

「裁判長はアンジェの潔白を宣言しろ。書記は直ちにそれを記せ、僕は今この場で議事録に署名する。お父上も一筆添えて頂けますか」

「願ってもない。ご高配痛み入ります、殿下」

「早く宣言しろ!」

「ひっ、被告人アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール、アストリア教徒であることを、ここに宣言する、これにて閉会っ」


 フェリクスの怒鳴り声に裁判長が泣きそうになりながら宣言し、書記も必死にペンを走らせた。出来上がったものを父セルヴェール公が奪い取り、ふんふんと鼻を鳴らしながら目を通すと、懐から出したペンとインクで署名する。それをそのままフェリクスのところまで持って行くと、フェリクスも同じく自分の筆記用具で署名をした。


「殿下、こちらにご用意しております、お早く」

「アンジェが僕のところに戻ってからだ!」


 フェリクスが目をぎらぎらさせて吼え、話しかけた護衛官が身をすくめた。アンジェは列席者を見回す。誰も何も言わないが、高位神官席に座っているクラウスがにこりと微笑み、小さくフェリクスの方を指差して見せる。アンジェは頷き、原告側、そして裁判員側に深々と頭を下げると、被告側の席へと歩き出した。フェリクスが、リリアンが、家族が友人が立ち上がる。


「アンジェ様……!」


 リリアンが髪を振り乱して駆けてきて、躊躇いなくアンジェに飛びついた。


「アンジェ様、アンジェ様、アンジェ様!」

「リリアンさん……」

「アンジェ!」


 フェリクスが今にも泣き出しそうな顔でやってくると、しがみついているリリアンごとアンジェを固く抱きしめた。


「わっ、わっ、で、殿下っ! 私挟まってます!」

「アンジェ……良かった……本当に……!!!」

「ででで、殿下っ!? わわた、私、こっ、ここに」

「君をこの腕から奪われた時の絶望は、もう二度と味わいたくない」

「フェリクス様……大層ご心配して下さったのでしょう。お顔色が優れませんわ」

「なんでもない、こんなの……君の受けた苦痛に比べたら」


 フェリクスは微笑んだが、気が抜けたのだろう、いつもよりも弱々しく見える。


「殿下はな、お前が潔白だと証明されるまで何も食べないと、一切飲み食いを拒否してたんだ」


 隣にやって来たルナがフェリクス、リリアン、アンジェをそれぞれに分解しながら言う。


「えっ……一切って……一昨日の夜からですの!?」

「ああ。審問には準備がいるだの、婚約がどうの、立場がどうの、周りがやかましいのを全部蹴り散らしてな。典医がもう限界だ、このままでは死ぬか重大な障害が残る、と国王陛下に直々に進言して、ようやく今日の審問が叶ったわけだ。いたわってやれよ」

「勿論……勿論ですわ、フェリクス様……」

「この世のあらゆる苦難苦痛より……君と引き離されることが、僕には何より辛いんだ……」


 ばらばらに分解されたフェリクスは、改めてアンジェをしっかりとその胸に押し抱き、そのままよろりと足元がふらついた。ルナが支えてやり、心配そうにしていた護衛官の方を振り仰ぐ。


「もういいだろう。お担ぎ申し上げてお連れして、腹がはち切れるまで召し上がっていただけ」

「はい」


 フェリクスの護衛官はルナの言葉通りフェリクスを担ごうとしたが、フェリクスは笑いながらその手を払い、護衛官もそれに従った。護衛官はアンジェの姿を頭からつま先までしげしげと観察すると、安堵に頬を緩める。


「お身体にお辛いところがなかったようで何よりでした、セルヴェール様」

「貴方が細やかな配慮をしてくださったおかげですわ。ありがとう存じます」

「勿体なきお言葉です。……では」


 護衛官は頭を下げ、フェリクスについて退出していった。


「アンジェ様、アンジェ様、本当に良かったです……」


 リリアンが再び抱き着き、母と兄が、イザベラが、お菓子クラブのメンバーたちが駆け寄ってきてアンジェを取り囲んだ。みな口々に潔白の証明を祝い、その身を案じていたこと、心から安堵したことを伝え、アンジェの手を取り、肩に縋って泣いた。


「ありがとうございます……皆さん……ありがとう……」


【黒く熱く、身を焦がすような炎──美味であるぞルネ、我が愛し子よ】


 誰かがアンジェの無事を口にする度に、脳裏に、あの魔物の声が響く。それはアンジェを想う人に囲まれていても、戻って来られなくなりそうなほどの絶望の淵にアンジェを墜としていく。


(わたくしが、望んでなったわけではない……けれど)

(わたくしは……喜んでくださっているみなさんを、欺いていることになるの……?)

(いつか、あの魔物に与して……みなさんを、フェリクス様を、リリアンさんを、裏切ることになるの……?)


 とても一人では抱えきれない。誰かに相談して、一緒に知恵を絞ってもらって、たくさん考えて見なくては。ああ、けれど、誰に言えばいい? 自分がセレネス・シャイアンでないことすらずっとクラウスにしか言えなかったのに、古き魔物(マラキオン)の愛し子だっただなんて。言えない、誰にも。今度こそ誰にも言えない。


(一人で……考えるしかないのだわ)

(たった一人で……)


 アンジェの瞳の奥から光が奪われ、暗く澱んでいく。その様子に殆ど誰も気が付かなかったが、アンジェにしがみついていたリリアンだけが、その奥を見透かそうとするかのようにじっと見つめ続けていた。





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