20-7 祝賀会の主役+満を持して鮮烈
シュミットは時間が過ぎるにつれより激しく泣いてしまい、友人たちが慰めながらカフェテリアの方に連れて行った。リリアンもしばらくその場でしゃくり上げていたが、アンジェは声をかけることが出来ず、ただその傍らに立った。リリアンはアンジェの袖の端をきゅっと摘まみ、アンジェの腕に絡み着くようにして抱き着いた。
「アンジェ様……」
見下ろすリリアンの頬が、触れば驚きそうなほどの熱を含んでいる。
「リオが、私を、庇ってくれました……」
「……そうですわね」
「リオが……私を……」
リリアンの声は夢見心地で、視線はずっと控えエリアで何か片づけをしているエリオットに注がれている。アンジェの腕に寄りかかる身体が、何だか柔らかい。つんとつついたらそのままふにゃりと蕩けてしまいそうだ。可愛い。抱き締めてしまいたい。どうしてこの眼差しはわたくしの方を向いてくれないのだろう。
「……リリアンさん、フェリクス様にいただいたカードには何が書いてありましたの?」
こちらを向いて欲しくてアンジェはわざと話題を変えた。そうでした、とリリアンは声を上げ、ふるふると首を振ると(子犬が身震いするようだとアンジェは思った)、白い革のハンドバッグからカードを取り出す。
「一つが私で、もう一つがサッカー部のキャプテンにと仰ってましたよね……」
「まずはリリアンさんのを見てみましょう」
インクが乾いた後、カードはそれぞれ丁度いいサイズの封筒に入れてから渡された。封筒の隅には小さくリリアン、オリバーと鉛筆でメモ書きがしてある。殿下はマメですねえ、とリリアンは感心しながら自分の名前が書かれた方の封筒を開け、カードを取り出した。
「……アンジェリーク、誕生祝賀会、招待状……リリアン・スウィートの友人、誰でも、何人でも」
文言の下には、フェリクスのサインがしたためられている。アンジェとリリアンは顔を見合わせ、リリアンは慌ててもう一つの封筒を開けてみる。
──親愛なるオリバー
僕の婚約者アンジェリークと、そのスカラバディのリリアン・スウィート嬢が、君の部員の誰かを祝賀会に連れて行きたがると思う。その人の片付けの免除を許してやって欲しい。また今度部活にお邪魔させていただくよ。
君の友人 フェリクス
二人は更にもう一度顔を見合わせ──
「アンジェ様……これって……」
リリアンがアンジェを見上げ、瞳を輝かせて震えている。アンジェが何も言わずに頷くと、リリアンはパアッと笑い、芝生のを上をぱたぱたと駆け出した。
「リオ! リオー! リオも行こう! リオーッ!」
あっという間に小さくなっていくリリアン。エリオットが何事かとギョッとしている。サッカー部のメンバーがニヤニヤしながらエリオットを小突く。大柄な、ブラウンの髪を角刈りに刈り上げた男がリリアンに近づいて何事か話す。リリアンはぺこりと頭を下げ、カードを男に渡した。男が中身を読む──驚いて、仰け反って、リリアンと紙を見比べる。壊れたおもちゃのようにがくがくと頷いて、エリオットの背中をばしんと叩く。エリオットとリリアンが二人並んで深々と頭を下げ、エリオットは鞄に自分の荷物などを慌てて詰め込み、それから二人してぱたぱたとアンジェのところに戻って来た。
「あ、あ、あの、セルヴェール様、いいんスか、俺なんかが」
「わたくしがダメと申し上げたら、おやめになりますの?」
アンジェが笑いながら尋ねると、少年はギョッとして隣の少女を見る。リリアンはエリオットの腕にしがみつくと、クスクスと笑って見せた。
「いいの、行くの! アンジェ様そんな意地悪言わないもん!」
「おい、何だよ急にくっつくな」
「くっつくもん!」
リリアンは嬉しそうにエリオットの腕に頬を摺り寄せると、エリオットは思い切り嫌そうに身体を引いた。
「やめろって、セルヴェール様いるのにハズいだろ」
「やだ! ちゃんと王子殿下とアンジェ様みたいにエスコートして!」
「ハァ!? 何言ってんだお前!?」
くっついて、離れて、腕を振って、しがみついて、じゃれついている二人。
「だって……リオ、シュミット嬢とは婚約しないことになったんでしょ」
「それが何なんだよ、お前に関係ねえだろ」
「関係なくない! 私さっき言ったもん!」
「ハア!? 何を!?」
「えっ……リオが……その……」
アンジェはその二人を、ただ微笑みながら見つめている。
「お前さっきもリオリオ言ってるだけで何も言ってねえだろが!」
「えっ……」
「あーもーうざってえな、早く離れろって!」
「私……リオが、婚約しないなら……私が……こ、こ、こ、恋人にって……」
「こっ……ハアーッ!?」
さきほどまでの勢いはどこへ、真っ赤になって俯いて呟くリリアン。エリオットはギョッとして顔が赤くなり、力いっぱい腕を振ってリリアンを振りほどいた。
「お前みたいなぺったんちくりんが!? 冗談言ってんじゃねえよ!」
「ぺっ……ぺったん……!?」
「俺はセルヴェール様みたいなでっかくて綺麗なお姉様系が好きなんだよ! お前真逆だろ! 俺なんも楽しくねえだろが!」
「あっ、あっ、あっ、アンジェ様が……!?」
リリアンはあんぐりと口を開けてわなわな震えながらアンジェの方を見る。エリオットもアンジェの方を見ると、リリアンに向けていた不機嫌な顔など一瞬で消え失せ、にこりと可愛げある笑顔を見せる。
「セルヴェール様、王子殿下に飽きたら俺どうスか。遊びでも全然いいっスよ」
「ちょっと、リオ! バカ! やめてよ!」
リリアンは目に涙を浮かべてエリオットの胸板をぽかぽかと殴る。エリオットはけけけと笑いながらそれを受ける。突然矛先を振られたアンジェは、戸惑いつつもとりあえずにこりと微笑んで見せた。
「ごめんなさいね、アンダーソンさん。わたくしはフェリクス様一筋ですの」
「でーすーよーねーサーセン」
「リオほんとやめて! アンジェ様そんな人じゃないもん!」
「分かんねえぞ、王子殿下が完璧すぎて俺みたいな冴えない年下系をつまみ食いしたくなるかもしれねえだろ」
話題が自分から離れたあたりでアンジェは小さくため息をつくと、二人に背を向けて正門へと歩き出した。
「やだ! リオ! 私だって……大きくなるもん!」
「……ああ……夢を見るのは自由だからな」
「なるったらなるもん!」
二人の声が後ろについて来るのが分かる。時折ぽすん、ぱしんと、リリアンがエリオットを叩いているらしい音も聞こえてくる。
「お、お、おっきくしてもらえって、サリヴァン先生が言ってたもん!」
「は?」
「だから……リオに……も……もん……」
「あー無理無理、育ちかけは育てたら育つけどお前はぺったんちくりんだから無理、のびしろがそもそもない」
「ぺっ……ぺったんちくりんって何よ!」
リリアンは真に受けて怒り散らしているが、アンジェには分かった。エリオット少年がリリアンを見つめる眼差しは、フェリクスと同じ光を含んでいる。品行方正な王子と違い、わざと嫌がることを言って、自分に向かって怒って来る様子を見て、リリアンを、その中に映る自分を、時折そっと覗き込む。あるいはエリオット自身もまだ自分の行動の理由に気が付いていないのかもしれない。
「ぺったんこーのちんちくりーん」
「はっきり言わないでよ!」
「ぺったんちくりんちんちくりん。チビリコぺったんちんちくりん」
「リ────オ────ォォ!!!!」
「痛って! おいやめろって!」
知りたくなかった、あの子はあんなに夢中になって魔法サッカーを応援することを。見たくなかった、彼にじゃれつくあの子の顔が、幸せに蕩けそうになっているところを。リリアンをからかいながら少しだけ頬を染めている少年は、いつ自分の心に素直になるのだろう? シュミットのことはどこまで本気だったのだろう?
「リオ、さっき……私のこと大事って、言って……くれたもん!」
「言っ……たけど、別にそれだけだしぃ」
「大事ならこ、こ……いびとに、してくれたっていいでしょ!」
「やだね、ぺったんちくりんはごめんだね」
アンジェにはシュミットの気持ちが痛いほど分かった。彼女は彼女なりに、少年に恋をして──リリアンとじゃれつくエリオットを見て、どうにか彼を自分のものにしたいと思った。それでシュミットはエリオットをリリアンの届かないところに遠ざけようとした、それだけだった筈だ。その計画が破綻したから、怒り狂って、悲しくて、水筒を投げつけた。分からないと思っていた悪役令嬢の気持ちが、今、こんなにも、手に取るように分かる。
「こ、こ、ここまで、言ってるんだから、うんって言ってよ!」
「やだね、でかくなってから出直して来な」
「やだ! 今!」
「あーうるせーうるせー、うるせえから祝賀会行くのやめようかなー」
「それもやだ!」
二人は後ろでじゃれつきながら歩いている、前を歩くアンジェの顔は見えない。だから今のうちに泣いてしまいましょう。さきほどたくさん泣いて、もう瞼が腫れてしまっていて良かった。馬車に乗る前に拭けば、化粧も崩れず、気付かれることもないでしょう。王宮に戻ればフェリクス様のお医者様が腫れを治してくださる、たくさん泣いても差し障りはないでしょう。あと少し、馬車に着くまでに。身体中の水がなくなってしまえばきっと涙も止まる。大丈夫、アンジェリーク。泣いていいのよ、ハンカチを持っているもの……。
「……それでお前、祝賀会で出すお菓子は何にしたんだよ」
「えへへ、あのね、フォンダンショコラ!」
クラッチバッグからハンカチを取り出し、アンジェはそっと涙を拭った。込み上げる嗚咽が漏れないように唇を噛んで喉の奥に力を入れる。拭う傍から涙は流れ、頬を伝っていく。ドレスに染みをつけてはいけないわ、泣いたと察されてしまうから……。
「テーマは愛なんだ、王子殿下の重すぎてどろっどろの愛……」
「何だそれ」
もう間もなく、正門の馬車寄せに到着する。歩いてくる様子が見えていたのだろう、八頭立ての馬車はもう出立できるように馬がすべて繋がれていた。
「その胸焼けする愛を! 爽やかに調和させるアンジェ様といえば、どんな食べ物でしょーうかっ?」
「ハア? 調和? いちごとかじゃねえの?」
リリアンさん。貴女が勇気を出して、ここに来てくださってよかった。わたくしもご一緒して良かった。でなければわたくしは、貴女のあんな幸せそうな顔を、一生見ることはなかったのかもしれない。アンダーソンさんとどんな言葉を交わしたのかが気になって、また夜が眠れなくなっていたかもしれない……。
「ぶっぶー残念! いちごじゃありませーん!」
「ほーん」
だから、もう少しだけ。
泣いているわたくしに、気が付かないでほしい。
「正解は、お城で食べてみてのお楽しみでーす!!!」
それでも、震えている背中に、リリアンの声は甘やかに染みわたっていった。
* * * * *
フェアウェル王国王太子、フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェルの溺愛してやまない婚約者、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールの十六歳を祝う誕生祝賀会は、王宮では比較的小さな、庭園つきのダンスホールの一間で執り行われた。王子フェリクス自らがホスト役を務め、従妹である王女イザベラと共に来賓客をもてなす。招かれたのはフェリクスとアンジェの学友、生徒会のメンバー全員、アンジェの家族親戚、父親と兄の勤務先の同僚たち。フェアウェルローズ・アカデミーの教師陣、要職の大臣や長官、王族たち。国王夫妻は後半の晩餐会の途中から臨席する予定だった。
「……綺麗だよ、アンジェ。何度言っても言い足りない」
無事王城に戻り、エリオットは礼服を持ち合わせていなかったので執事の案内で着替えへ。アンジェとリリアンはもとの客室に戻り、母に散々怒られた後、フェリクスの典医の治癒魔法で瞼の腫れを取って。リリアンは新しいパティシエの制服を貰って、本当に嬉しそうに菓子厨房へと戻っていった。侍女と一緒に胸元に入れていたハンカチを開くと、押し花を入れたガラス部分に数本の亀裂が走っている。侍女が本当にアンジェを守ってくれたのだと号泣した後、髪結い師、化粧師と共に改めてアンジェの装いを美しく完璧に整えて。迎えに来たフェリクスはうっとりと呟いた。
「ありがとうございます、フェリクス様」
アンジェは頬を染めて微笑む。フェリクスの愛は温かく柔らかで、全てを見透かして包み込むような気がする。彼に愛されることこそが全てで、幸せなのだと、ずっと思っていた。アンジェの家族たちが先に会場に向かい、二人きりになった客室で唇を求められてから、彼のエスコートで会場へと向かう。優しいフェリクス。リリアンがエリオットも祝賀会に招きたがっていたことまで見透かしていたフェリクス……。
「フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル王太子殿下、ならびにアンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール公爵令嬢、ご入場!」
両開きの扉が開かれて、視界が一気に光に染まる。フェリクスの腕が優しく自分を導く。たくさんの人が自分達を見て拍手をしている。会場はアンジェのドレスの同じ色である水色でコーディネートが統一され、ヘッドピースと同じ淡いピンク色の薔薇があちこちに飾られていた。微笑むのよ、アンジェリーク。わたくしは今、幸せの只中にいるはずなの。人知れず泣いていた女の子はどこにもいないのよ。
前半の昼食会は立食形式で、見た目も美しい軽食や料理が小さな皿に盛りつけられてたくさん並んでいた。遠くの方で談笑している人たち。我先にとアンジェに祝辞を伝えに来る人たち。父はあそこにいる。母はあちらで話している。弟と妹が駆け回っている……どこを見回してもリリアンはいない。リリアンは今、菓子厨房で最後の仕上げをしているはずだ。着替えを終えたエリオットが、いつの間にかお菓子クラブのメンバーに掴まって質問攻めにされてしどろもどろになっている。可憐なピンク色のドレスに着替えたイザベラ、その隣のルナはドレスではなく、祖父の国の礼装だというキモノを着ていた。だらりと長い独特の袖に描かれた異国情緒ある模様と、胴回りを締める大きな飾り帯の金糸が、開け放した窓から入る陽光を受けてきらきら光っている。ルナはアンジェの視線に気が付くと、いつもの伊達眼鏡をくいと直し、にこりと微笑んで見せた。アンジェも小さく手を振って答えると、周りのお菓子クラブのメンバーもアンジェに気が付いて歓声を上げた。
「殿下、アンジェ様、お招きありがとうございます!」
「なんて素敵なパーティーなんでしょう!」
「アンジェ様とても優雅なお召し物ですわ、清楚で、可憐で……」
「みんな、今日はアンジェのために来てくれてありがとう。僕もとても嬉しいよ。アンジェと一緒に素晴らしいひと時を過ごしておくれ」
「はい、殿下、今日は本当に良き日になりますように!」
「リリアンさんのお菓子もとても楽しみです!」
生徒会のメンバーが来る。姉二人がニコニコしながらそれぞれの夫を連れて来る。フェリクスがアンジェのグラスを取り、時に長椅子に座って休み、その間にもたくさんの人がやってきて、アンジェの誕生日を、フェリクスの愛を祝福する。
「みなさま、大変お待たせいたしまた。これよりデザートをお持ちいたします」
トランペットとともに、高らかに先触れが告げられる。アンジェとフェリクスが入場した扉が開き、お菓子を載せたワゴンがパティシエたちによって次々と運び込まれてくる。ケーキ、ゼリー、ムース、シュークリーム……色とりどりのお菓子がずらりと並ぶと、パティシエたちは一度扉の外に出て行った。扉が閉められる。フェリクスはアンジェの手を取って人の波を縫い、ワゴンが一番よく見えるところまで移動した。ワゴンの一角には、まだ何も置かれていない箇所がある。
「……アンジェ、いよいよだね」
フェリクスがアンジェの耳元で囁く。
「……はい」
アンジェも頷く。とても一人で立ってはいられそうになくて、フェリクスの腕にすがる。
「今日はアンジェリーク様のご学友が、素晴らしいお菓子をご用意くださいました。フェアウェルローズ・アカデミーのお菓子クラブ部長、リリアン・スウィート男爵令嬢の素晴らしいお菓子を、皆々様、どうぞご堪能下さい」
ざわめきが収束する中、扉が開かれた。先ほどと同じパティシエたちがずらりと並ぶ前に、一際小柄な人物、ストロベリーブロンドをポニーテールに結んだリリアン・スウィートが、以前アンジェのサロンの時に使ったエプロンを身に着けて、にっこりと微笑んでいた。パティシエもリリアンも、手のひらほどの皿にチョコレートケーキが乗ったものを乗せたワゴンを持っている。リリアンは誰にともなくにこりと微笑んで見せると、背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向いて歩きだした。
(……リリアンさん……!)
誰だ、あの少女は、可愛らしい子だな。お菓子クラブなんてフェアウェルローズにあったかな? 見事なストロベリーブロンドね。あの子が作ったってことなのかな? 令嬢の我儘で、素人のつまらない菓子が並ぶんじゃないだろうな。いやいや、王子殿下が主催の祝賀会で、そんなことは許されないだろう……。たくさんの声を、ざわめきをものともせずに歩くリリアンは、誇らしさで胸を一杯にしているのが分かる。ああ、リリアンさん! 初めてあなたにお会いした時、泣きそうになって震えていたのに、こんなに、嬉しそうに歩いているのね。大好きなお菓子を持って、わたくしのために、貴女が誰を好きだろうと、わたくしの隣に誰がいようと、今この瞬間だけは、わたくしの為だけに! 頬が熱い。身体が火照る。お願い心臓、今はペンダントを付けていないの。リリアンさんを最後まで見せてちょうだい!
リリアンはデザートワゴンの前あたりに立ち、アンジェとフェリクスを、周りに集まる来賓たちをぐるりと見まわした。目線を見ていると、ルナやイザベラ、エリオット、お菓子クラブの面々を探しているのが分かる。目当ての人をすべて見つけたらしく、アンジェに向かってにこりと微笑むと、スカートのすそを摘まんで深々とお辞儀をした。
「アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール様。私の大切なスカラバディのお姉様。お誕生日、おめでとうございます」
おどおどしているリリアンはどこにもいなかった。子リスのようにせかせかしているリリアンでもなかった。皆の視線を一身に浴びているのに、堂々と前を見て、落ち着いている。触ると少ししっとりしている小さな手が、自分が押してきたワゴンを指し示して見せる。
「フェリクス王子殿下のご厚意で、アンジェリーク様のお誕生日を、私のお菓子でお祝いさせていただく機会を賜りました。深く御礼申し上げます」
もう一度礼。フェリクスは微笑みながら頷き、アンジェの手をぽんぽんと叩く。リリアンはそれを見ると、頬を染めて嬉しそうに微笑む。
「王子殿下のアンジェリーク様への想いは、一途で蕩けるような愛。それはまるでチョコレート」
リリアンはすぐ横のワゴンから、一番手近な皿を手に取った。
「アンジェリーク様の美徳は、王子殿下を愛し支える慈愛と知性」
皿の上に乗ったチョコレートケーキはごろりとした円柱型で、なんの飾り気もない。リリアンは左手を広げ、その上に皿を乗せて水平に持ち、脇に用意していたチョコレートのボールのようなものをトングでつまむと、慎重にケーキの上に乗せる。
「十六歳になられたアンジェリーク様の恋は、まるで燃え上がる炎のよう」
リリアンは微笑みアンジェをじっと見ると、ケーキの上で右手をくるくると回し、ぱちん、と指を鳴らした。
その瞬間、何の変哲もないケーキが青い炎に包まれる。
「魔法……?」
フェリクスが目を見開き、周囲がどよめく。チョコレートが焦げる香ばしい香りが辺り一面に広がる。炎はあっという間に消えたが、ケーキの上のチョコレートボールの一部がとろりと溶け出してケーキにかかり、ボールの中からは小さなミルクアイスとラズベリーが現れた。
「恋の炎が、アンジェリーク様をより美しく飾りました。特製のフォンダンショコラを、温かいうちにお召し上がりください」
「まあ……」
アンジェが感嘆の声を上げると、リリアンはふふっと笑みをこぼした。掌の上のケーキの仕上がりを見て、うっとりと、満足そうに微笑む。喜びと誇らしさが入り混じるその微笑みは、エリオットの隣にいた時のそれとは違う。あの微笑みは誰のもの? 誰のものでもない、あれはあの子自身のものだ。あの子は誰のものでもない、あの子がこちらを向いて、わたくしを見る、わたくしの方に近寄って来る──
「お誕生日おめでとうございます、アンジェ様」
出来たてのプレートを持って。背中でポニーテールを揺らして。
にこりと微笑む、リリアン・スウィート──愛しい人。
「さあ、アンジェ」
人が生き返るのを目の当たりにしたようにニコニコとしているフェリクスが、アンジェの背中をそっと押した。綺麗な、真っ白なプレートの真ん中に置かれたチョコレートケーキ。中央のミルクアイスの白さが、赤いラズベリーの実が可愛らしい。先ほどまで無骨な塊だったのに、貴女の魔法であっという間にこんなに素敵になって。アンジェがリリアンを見ると、リリアンはいつものように上目遣いで、だがとびきり美しく笑い、アンジェの手にそのプレートを持たせた。ひんやりとした感触。
「リリアンさん……」
いつかのフェリクスのように、リリアンの手がアンジェの手にそっと触れる。心臓はもう、沸騰して溶けてなくなってしまったのだと思う。手が震えている、視界が涙で歪む、顔が熱い──
「……あっ」
鼻の下から顎を伝いドレスに落ちた鮮烈の染みに、アンジェは我に返った。咄嗟に皿をリリアンに押し返して手で鼻を覆うが、ぽたぽた、ぱたぱたと、掌とドレスを染めていく。
「ああっ、こんな時に……ごめんなさい!」
「アンジェ、大丈夫、これを」
フェリクスが微笑みながら自分のハンカチ出して広げ、アンジェの手の上から覆ってやった。それは濃紺色で服装にコーディネートされているように見えたが、鮮烈を拭いてもその色が目立たない。周囲がざわめいている。みんなこちらを見ている。せっかく瞼の腫れをとってもらったというのに、また瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「リリアンさん……素敵よ、素晴らしかったの、本当に……なんて美しいケーキなんでしょう、わたくし、誰よりも先に頂きたかったのに、ごめんなさい、こんな、ああっまたっ」
リリアンは手に戻され鮮烈を免れたデザートプレートと、ハンカチで顔を隠して慌てふためくアンジェを見比べ、ふふふ、と悪戯っぽく笑って見せた。
「もう、アンジェ様、私のこと大好きすぎますねっ!」
「────ッ!!!!!!」
抑えきれない鮮烈の奔流が一気に迸り、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールはフェリクスの腕の中に倒れ込んだのだった。
* * * * *
アンジェはフェリクスに抱えられて退出し、鼻血はほどなく止まったが、客室で少し横になるようにとフェリクスに厳しく言われた。侍女は血だらけになったアフタヌーンドレスを見て卒倒しかけたが、鼻血だと知ると胸をなでおろし、シミになるまえに洗うのだと、ドレスを持って洗濯室へと行ってしまった。リリアンがデザートプレートを二つ持って一緒についてきたので、アンジェとフェリクスは客室でそれをゆっくりと味わうことが出来た。見た目はしっかりとしたケーキなのに、切り分けるととろりとしたソースがたっぷりと溢れ出てくる。生地はこの前のカップケーキのようにほんのりと温かく、それこそチョコレートが濃厚すぎるほど濃厚だが、不思議と後味はさっぱりとしている。アンジェが食べるのを横でニコニコ眺めているリリアンに尋ねると、隠し味はオレンジなのだと教えてくれた。フェリクスは二人の様子を見て生まれたばかりの子猫を見たかのようにニコニコしていた。フェリクスが自分の用意があると退出したので、アンジェはイブニングドレスに着替え、化粧と髪を直す。夜会の雰囲気に合うように、腕やデコルテにきらきらした化粧粉をまぶす。リリアンはアンジェの支度を眺め、どんなチョコレートを食べた時よりもうっとりと目を細める。
「アンジェ様、綺麗……」
「……ありがとう、リリアンさん」
アンジェはまた鼻血が出やしないかとヒヤヒヤしながら答えた。テーブルの上に、リリアンのうさぎハンカチとペンダントが置かれたままになっている。なんとなくそれをリリアンに見られたくなくて、アンジェはペンダントを自分の荷物にしまい、ハンカチをクラッチバッグに忍ばせた。
用事を終えたといって戻って来たフェリクスも、アンジェのイブニングドレスに合わせて着替えていた。濃紺のきらめく生地の燕尾服に勲章をつけ、誇らしげに現れたフェリクスを見て、リリアンがきゃああと悲鳴を上げる。
「おっ、お話の中のっ、王子様と、お姫様、みたいですっ! お二人ともとってもとっても素敵ですっ!」
「ありがとう、リリアンくん。けれどアンジェはこれからもっと素敵になるんだ」
言いながらフェリクスはアンジェをじっと見つめる。宝飾品類を身に着けるなと指定された時点で、誕生日プレゼントに何を贈られるのかは想像がついている。水色ときらめくオーガンシーのふんわりとしたドレス、紺色のウェストリボン。昼間よりもより華やかに結い上げられたが、何の飾りも付けていない髪。煌めく肌を、青い瞳を一つ一つ確認すると、王子は満足気に頷き、アンジェの手を取ってエスコートした。リリアンはギョッとして顔を真っ赤にし、慌てふためきながら部屋を飛び出して行った。執事が慌ててその後を追いかけていく。フェリクスはその様子にクスクスと笑い、アンジェの肩を撫で、ゆっくりと口づけを味わった。
再入場した会場は、すっかり様変わりしていた。空は夕焼けから宵闇に代わる頃で星が瞬き始めている。会場のテーブルは着席式の晩餐会仕様に配置換えされ、テーブルクロスも濃紺に変えられていた。あちこちに魔法ランプが置かれ、オレンジ色の光が室内を柔らかに映し出している。リリアンもお菓子クラブのメンバーが座るテーブルに座っていて、ルナに小突かれ、リオをばしばしと叩きながらニコニコと笑っていた。セルヴェール家の席。生徒会の席。大臣たちの席……。フェリクスの案内で着席してほどなくすると、国王夫妻の臨席を告げる触れが出た。一同立ち上がり、拍手で国王夫妻を出迎える。国王は黒髪のがっしりとした体格の大男で、燕尾服を窮屈そうに着ている。王妃はフェリクスによく似た金髪と緑の瞳の華奢かつ小柄な女性で、月の光のような淡い色の細身なイブニングドレスが、まさしく建国の女神その人であるかのような神々しさを纏っていた。
鳴りやまない拍手の中、国王夫妻はアンジェとフェリクスがいるテーブルまで歩いてくる。フェリクスとアンジェは互いに呼吸を揃えて深々と頭を下げる。
「父上。母上。ご臨席を賜りありがとうございます」
「うむ、フェリクス。アンジェリーク。楽にしなさい」
「はい、父上」
挨拶はフェリクスに任せ、彼が先に頭を上げ姿勢を正すまでアンジェは待った。今日はあくまで王子の私的な会への臨席なので、来賓に向けての玉言はない。アンジェ達の様子を窺おうと、拍手が少しずつ鳴りやんでいく。国王と王妃の視線が痛いほど刺さっている。お願い、鼻血、今だけは出ないで! しょうもないことを祈らねばならない自分に笑い出しそうになりながら、アンジェはゆっくりと顔を上げた。髭の濃い王の顔が、向こう側が透けて見えるかと思うような王妃の美貌が、じっとアンジェを見る。
「何と、美しい女性に育ったことよ、アンジェリーク」
「凛として麗しいこと」
夫妻は顔を見合わせると微笑み合った。入場した時の威厳はそのままに、人好きのする笑顔が二人の雰囲気に親しみやすさを加える。
「息子の妻が斯様に可憐な精霊のごとく、余は嬉しく思う。少し前まで、オシメをつけてよちよちフェリクスを追いかけていたと思ったが……余も妃も抱き上げてやったのだぞ」
「ありがとう存じます、アンジェリーク勿体ないお言葉です」
アンジェはもう一度深々と礼をして見せた。少し離れたところからの痛く熱く刺さる視線は、きっと両親のものだろう。リリアンも見ているだろうか? あの少年と一緒に。
「フェリクスが其方に入れ込むのもまさしくであるな。さあ、息子よ、皆をこれ以上待たせるな。其方が選んだ贈り物を披露目てみよ」
「はい、父上。ご覧に入れましょう」
フェリクスは嬉しそうに頷くと、脇に控えていた執事に目配せした。執事から別の執事へ合図が送られ、扉の奥からきらきらしいワゴンに乗せられた大きな黒革の鞄型のケースが運ばれてくる。執事たちは入念に位置を確認し、魔法ランプの明かりがケースめがけて集まるようにあれやこれやと調整し、万全の位置になったとみるや、フェリクスに一礼して壁際に控える。宵闇の魔法ランプの会場の中に、国王夫妻とフェリクスとアンジェ、それから黒革のケースが満月のように明るく浮かび上がっていた。
「アンジェ。僕の愛しいアンジェリーク。十六歳の誕生日おめでとう」
フェリクスの朗々とした声は、滑らかな音楽のように会場に、アンジェの心に響き渡る。
「社交デビューする君に、どうしても僕からこれを贈らせて欲しかったんだ。……気に入ってくれると嬉しい」
王子は黒革のケースの留め金を外し、ゆっくりと開く。
「──『十六人の天使たち』だよ」
ケースの中は黒いベルベット生地が貼られていた。そこに安置されていたのは、きらびやかに輝く宝飾品のコレクションだった。ティアラ。かんざし二本。イヤリング大小二組。華やかなネックレスと小ぶりなネックレス。ブレスレット。指輪。ブローチ大小二つ。ストールピン。アンクレット。シューズブローチ。白金の、羽根をあしらった繊細なデザインの土台に、各アイテム一つにつき一つずつアンジェの瞳と同じ色の青い宝玉が嵌め込まれている。
「まあ……なんて美しいんでしょう……!」
アンジェは想像を超える輝きに息を呑んだ。魔法ランプに照らされた宝玉が、見る角度を変える度に星の瞬きとも朝露の煌めきとも思える輝きがきらきらと現れては消える。晩餐会に集まった全ての列席者がコレクションを凝視し、おお、なんと、と感嘆の声がそこかしこから漏れ聞こえてくる。
「ブルーサファイアを、全部で十六個あてがったんだ」
フェリクスは珍しく照れたようにはにかみながら、大ぶりなネックレスを手に取った。アンジェの素肌そのままのデコルテにそっとネックレスを当て、首の後ろで留め金を止める。中央のサファイアが魔法ランプの光を受けてきらきらと光り、その周りの小粒な宝石も負けじと輝きを放っている。
「ブルーダイヤにしようかとも思ったのだけれど……それは、僕が即位した時に改めて贈らせてもらいたくてね。綺麗なサファイアにしたんだ」
「そうなんですの……」
フェリクスはネックレスをつけたアンジェを目を細めて眺め、耳飾り、ブレスレッド、ブローチ、指輪もそれぞれアンジェにつけていく。かんざしとティアラはすぐ横に髪結い師が控え、王子の手許に指示を出しながら、素早くピンで止めていく。幾分シンプルだったアンジェの装いは一気にきらきらと華やかなものになった。
「誕生日おめでとう、アンジェ」
会場のあちこちから歓声が、拍手が、湧き水のように自然と起こる。
「……とても綺麗になった。眩しくて見ていられないよ。ダンスの時間になったら、ずっと君と踊っていたい」
「ありがとうございます、フェリクス様……」
アンジェは瞳を潤ませてフェリクスを見上げた。何か宝飾品類をプレゼントされるだろうと予想はしていたが、普段使いから格式高い場でも使えるティアラまで、一式を丸ごとがプレゼントだとは夢にも思わなかった。控え目ともいえる繊細なデザイン、日常でも使えるシンプルなデザインが合わさったコレクション。常にアンジェに自分のプレゼントを身に着けてもらいたい、伝わってくるフェリクスの想いは、たくさん泣いた涙を隠したアンジェの心を温めた。国王夫妻が席に着き、ニコニコしながら二人を見守っている。遠くの席で、父と母が咽び泣いているのが見える。生徒会のメンバーが、お菓子クラブのメンバーが、皆顔を輝かせて拍手している(珍しくルナも笑わずに頑張っていた)。
「それで……もう一つ、良ければ受け取って欲しいものがあるんだ」
「まあ、まだありますの?」
フェリクスは悪戯っぽく笑いながら頷くと、ふと視線をお菓子クラブのメンバーが座るテーブルに向けた。
「リリアン・スウィート男爵令嬢。これへ参れ」
「ぴゃっ!?」
少し離れたテーブルで、明らかにリリアンが奇声を上げて飛び上がるのが見える。隣に座っていたエリオットがギョッとしてばしんとリリアンを叩く。ざわめくお菓子クラブのテーブルの面々。リリアンは哀れなほどに動揺してきょろきょろして今にも泣き出しそうだ。だがニコニコと自分の方を見ているフェリクスと目線が合ってしまうと、ものすごく何か言いたいが何も言えないという顔になり、それでもまだしばらくもじもじしてから、ようやっとフェリクスとアンジェの前にやって来た。一部始終を見ていたフェリクスがクスクスと笑う。
「全く、君は……菓子の時とは別人じゃないか。いつもあのように堂々としていればいいのに」
「でっ、でっ、殿下っ、あのっ、あれはっ、お、お菓子、お菓子は、とく、特別、なんですっ……」
ストロベリーブロンドはポニーテールのまま。イブニングドレスは、花びらを重ねたようなふわふわのピンクの、実に可愛らしいものだ。その姿であたふたしていたリリアンだったが、宝飾品を身に着けたアンジェに見惚れて我を忘れる。
「アンジェ様……綺麗……近くで見ると、星がそのまま降りて来たみたいです……!」
「ありがとう、リリアンさん。貴女もとても可愛らしくてよ」
「えっ、わっ」
「さあ、こちらに、リリアンくん」
フェリクスがリリアンの背中を押してアンジェの隣に立たせた。リリアンが軍隊のように両手両足を真っ直ぐにしてびしりと立ったのを見て、王子はまたしても笑いながら国王夫妻の方を見遣る。
「父上。母上。彼女はアンジェリークのフェアウェルローズ・アカデミーでのスカラバディです。類まれなる菓子作りの才能があり、昼食会では彼女自ら調理した美味なる菓子を振舞ってくれました。後ほど父上と母上にも召し上がっていただく手筈となっております」
「ほう、菓子を。小さな子供じゃないか」
「背は小さいですが、れっきとしたアカデミーの一年生ですよ。僕は二人の友情を見て感動しました。互いに尊重し合い、助け合い、慈しみ合う姿は、他の何にも代えがたく尊いものです(ルナが盛大に飲み物を噴いた)……あれを」
フェリクスは控えていた執事から、今度は手のひらに乗るようなサイズの黒革のケースを受け取った。ルナがげほごほと激しく咽ているのが見える。アンジェとリリアンが不思議そうにそのケースを覗き込む前で、ゆっくりと蓋を開く。アンジェのコレクションと同じくベルベット張りの内装に守られて、紫色の石が嵌め込まれたブローチがそこにあった。
「アンジェとリリアンくんで……揃いのものを、仕立ててみたんだ」
フェリクスはアンジェのコレクションから、小さい方のブローチを手に取って、小箱の紫のブローチの横に並べる。アンジェのブローチは白金にブルーサファイア、リリアンのものはピンクゴールドに紫色が揺らめくアメジスト、二つのブローチは色味こそ違えど、デザインは全く同じだ。
「これくらいの大きさなら、その……アカデミーで、髪飾りとして身につけられるのではないかな?」
「……えっ、えっ、どういうことですか、この色が違うやつもアンジェ様にプレゼントなさるんですよね?」
混乱するリリアン、ざわざわとざわめきが大きくなっていく会場。席を立ちあがって一同の近くまで見に来る輩も出始める。
「どうかな、アンジェ」
フェリクスが、微笑みつつも少し心配そうに、アンジェの顔を覗き込む。
「君が一番欲しい物ではないかなと、思ったのだけれど……」
「フェリクス様……」
優しい、柔らかい、フェリクスのまなざし。いつもアンジェの心を覗き込もうとする王子は、どこまで自分の婚約者のことを理解しているのだろうか。この世界が乙女ゲームの世界で、アンジェは悪役令嬢であることも見抜いていて──秘かにリリアンを慕ってることも、知っているのだろうか? あり得ないはずだが、そうなのかもしれない。でなければ、わたくしが一番欲しかったものなど分かるはずもない。アンジェとリリアンの絆の証。それを友情と言えるのか、劣情と言うべきなのか分からないけれど、愛しくてずっと近くにいたいと願ってやまない、大切な子。また手をつなぎたいし、柔らかな頬をつついてみたいし、ブラウスの中に隠さなくてもよいお揃いの何かを身につけたい……。
「あの、その、アンジェ様!? 私、受け取れません、こんな高価なもの! 殿下に仰ってください!」
「……フェリクス様。仰る通りですわ。わたくし、リリアンさんと、お揃いのものを身に着けてみたいと思っておりましたの」
「そうか……そうか!」
フェリクスはパアッと顔を輝かせる。
「そうではないかと思ったんだ……良かった、アンジェ、気に入ってくれて」
「ありがとうございます、フェリクス様。わたくしの素晴らしいお方」
「あれっ、ええっ!? アンジェ様!?」
「リリアンさん、これは友情の証として受け取ってくださいませね。お揃いのリボンを買って、その結び目に留めましょう」
「ええーっ!?」
慌てふためくリリアンを見てアンジェはクスクスと笑った。何だか身体が軽い、心が軽い。今日は朝からいろいろなことがありすぎた。たくさん泣いて、たくさん走って、たくさん言葉を押し殺した。けれど、こんなにも多くの人が祝賀会に駆けつけてくれた。リリアンのお菓子は素晴らしかった。フェリクスの愛は変わらずアンジェを包み込んでくれた……。
「リリアンさんは、わたくしとお揃いはお嫌?」
「お揃い自体が嫌なわけじゃないんです! 殿下から頂くのが身に余りすぎるだけで……!」
「そう、それならよろしいじゃない」
アンジェはニコニコしながらリリアンの手をぎゅっと握った。
「今日の主役はわたくしなんですのよ。リリアンさんはわたくしの願いを叶えてくださる係になってくださればよろしいの」
「ええー……殿下……本当に、よろしいんでしょうか……」
「僕はもちろん、受け取ってもらえたら嬉しいよ」
「…………」
リリアンは俯き、二つ並んだ青と紫のブローチをじっと見た。次いでフェリクスを、国王夫妻を、最後にアンジェを見て、もう一度ブローチを見る。
「受け取って、いいのかどうかは、正直分からないですけど……」
リリアンは紫のブローチにそっと手を伸ばすと、おそるおそる自分の掌に乗せる。見る角度を変えて、輝きがきらめきながら場所を移していくのを、うっとりと眺める。
「……嬉しいです。いいんでしょうか、私なんか」
「フェリクス様がいいと仰っているのだから、よろしいのよ」
「そうだ、リリアンくん。アンジェのために受け取ってやってくれ」
いつだって、紫の瞳に希望が宿っていくのを見るのは、胸を甘やかに高鳴らせる。アンジェは予感がして、咄嗟に隠しポケットから紺色のハンカチを取り出し──
「ありがとうございます、殿下、アンジェ様!」
満面の笑みの衝撃がアンジェの鼻を襲うよりも一瞬早く、紺色のハンカチが公爵令嬢の尊厳を保ったのだった。
晩餐会はその後も長々と続き大変な賑わいを見せたが、アンジェは結局、ほとんどの時間を紺色のハンカチと共に過ごす羽目になった。




