20-6 祝賀会の主役
アンジェがメイドにフェリクスに謁見したいと伝えると、会場にアンジェを案内することは禁じられており、アンジェが呼んだら王子が来る手筈になっている、と答えられた。出来れば両親や弟妹には聞かせたくなく、アンジェの客室ではなくリリアンの客室でフェリクスを待つことにした。アンジェとリリアンは二人して長椅子に座り、それぞれ縋るように手をつなぐが、どちらも何も言わない。心臓の音が部屋中に響き渡るようだ。リリアンを見ると、リリアンはにこりと微笑み返す。アンジェは胸が温かく痛くなり視線を逸らした頃、扉を叩く音がした。
「フェリクス王子殿下、並びにイザベラ王女殿下の御成りです」
「やあ、アンジェ、どうかしたかい。リリアンくんが大変だったそうだね」
いつものようにフェリクスが朗らかに微笑みながら入室し、その後ろにしゃなりとイザベラが続いた。アンジェとリリアンは立ち上がって略礼をする。フェリクスは笑いながら顔を上げるように言い、アンジェを見ると、頬を染めて息を呑む。
「アンジェ……毎日君の美しさに驚かされているけれど、今日ほど美しいと思ったことは未だかつてないよ。よく似合っているね、なんと清楚で可憐なんだろう……けれど、どうしたんだい、せっかくの綺麗なお化粧なのに、瞼をそんなに腫らして……」
「フェリクス様……」
「アンジェちゃん、とっても綺麗よ、お誕生日おめでとう」
入り口付近で立ち止まってニコニコしているフェリクスをぐいと押し退けながら、イザベラがニッコリと微笑んだ。
「ありがとうございます、イザベラ様……」
「リリアンさん、わたくしどもの監督不行き届きで本当にごめんなさいね。恐ろしかったことでしょう」
イザベラがリリアンの近くまで歩み寄ってその手を取ると、リリアンはぴゃっと飛び上がった。
「と、と、とんでもないです! あの、後でお話ししますが、菓子厨房のみなさんのせいではないんです……だからどうか、みなさんに処罰などなさらないでください」
「まあ……そう? 優しい子ね」
イザベラは扇子を口許に当てながら首を傾げ、押し退けたばかりのフェリクスを見上げた。
「フェリクスくん、時間が限られているわ。アンジェちゃんを愛でるのは会が始まってからになさってね」
「ああ、心得ているよ、イザベラ」
フェリクスは頷くと、アンジェとリリアンが座っていた長椅子の対面のソファに腰掛けた。イザベラもそれに倣いもう一つのソファに座る。フェリクスがアンジェとリリアンにも椅子に座るように勧めたが、二人は辞退してその場に並んで立った。
「それで……話というのは?」
優しく微笑みかけるフェリクスに、アンジェとリリアンは顔を見合わせる。リリアンが口を開きかけたのを制すと、アンジェはフェリクスの傍まで歩み寄り、絨毯の上に膝をついた。太腿の上に置かれていたフェリクスの手にそっと触れ、身を乗り出してその顔を見上げる。
「フェリクス様……無理を承知で、お願いがございます」
「うん。言ってごらん、可愛いアンジェ」
フェリクスは触れられた手を引き抜いてアンジェの背中を優しく撫でる。自分の膝に残ったアンジェの手は反対の手が包み込む。
わたくしがフェリクス様にお願いをして、聞いていただけたとして。
喜ぶ貴女の目線の先に、わたくしがいなかったとしても、構わない。
何故なら、それは。
「リリアンさんを……別のご用事に、行かせて差し上げたいのです」
(フェリクス様も……同じなのだから……)
「用事というのは、君たちがずっと困っていた、もう一つの用事かい?」
「はい……リリアンさんのご友人が、サッカーの試合に出られるそうなんです。一年生でレギュラー選手に選ばれた、栄えある試合なのだと」
「一年生のサッカー……ああ、先日君とお茶をしていた、青い髪の男子生徒かな」
「はい。エリオット・アンダーソンさんという方ですわ」
アンジェは頷いた。瞳から涙がこぼれそうになって、不自然にならないようにうつむいて何度も瞬きをした。涙の雫が散ってくれればよい。フェリクスの膝の上で手を握り締めると、王子の温かな手が更にアンジェの手をぎゅっと握った。
「どれくらいの時間がかかるんだい? お菓子のことはどうする?」
アンジェはリリアンの方を向いた。リリアンは長椅子の前に立ったまま、今にも泣き出しそうな顔でアンジェを見つめている。アンジェは小さく頷いて、もう一度フェリクスを見上げた。
「試合はもう始まっていて……正午ごろに終わる予定だそうです。場所はフェアウェルローズの運動場ですから、今から行けば、最後の三十分ほどは見られるかと思います」
「三十分……」
フェリクスとイザベラが壁にかけられた時計をちらりと見た。時刻はもう少しで十一時になるといったところか。
「お菓子のことは……リリアンさんは、間に合えばご自分でやりたい、と申しております。けれど、お伺いしている進行では、難しいのではないかと……わたくしは、見ています」
「もし、リリアンくんが間に合わなかったら?」
「パティシエの皆様にお任せすると……」
アンジェは息が詰まって、言葉を最後まで言い切れなかった。たまらずフェリクスから目線を逸らし、もう一度リリアンを振り仰ぐ。リリアンは両手を握り締め、必死にこくこくと頷いて見せていた。
「どうか、わたくしに免じて……リリアンさんをお許しください、フェリクス様……」
アンジェはフェリクスの膝に額が付きそうになるほど深々と頭を下げる。彼は何というだろう。心を込めてアンジェのために準備してきたことを覆せと頼んでいるようなものだ。どれほど優しいフェリクスでも、さすがに怒り出すのではないか。あるいは呆れて何も言えなくなるか……。アンジェが微かな震えを誤魔化そうと手を握り締めていると、不意にフェリクスが笑い声を上げた。
「いやあ、参った。さすがだね、イザベラ」
「うふふ、だからあれほど言ったでしょう、アンジェちゃんは絶対にリリアンさんの良いようにすると」
「本当だね、全面降伏だよ、軍師殿」
イザベラもクスクスと笑い始めたので、アンジェは顔を上げる。その顔を見下ろすと、フェリクスはいつものように優しくアンジェの頬を撫で、にこりと微笑んで見せた。
「大丈夫だよ、アンジェ。イザベラが君たちを慮って、もう一つ進行を用意していたんだ。リリアンくんのお菓子は昼食会のはじまりではなく終わりごろに出して、晩餐会だけご出席いただく方にも楽しんでいただけるようなのをね。みな進行が変わるかもしれないことは承知している。安心して彼女を行かせてあげるといい」
「アンジェちゃんもリリアンさんも、早くに相談して下されば良かったのに。フェリクスくんは、相談されないから大丈夫なんだろう、普通の進行だけでいいんじゃないか、なんていうのよ、本当に殿方というのは気が利かないこと。まさしく朴念仁とはフェリクスくんのことね」
「参ったな、イザベラ軍師閣下、少しは手加減してくれないか」
「うふふ、嫌よ」
笑い合う王子と王女をアンジェとリリアンは呆然と見つめ──先にリリアンが、きゃあ、と悲鳴のような歓声を上げた。
「あっ、あのっ! い、イザベラ様、ありがとうございますっ!!!!!」
「いいのよ、と言いたいところだけれど、条件が二つありましてよ」
「えっ、なんでしょう」
ぎくりと身構えたリリアンに、イザベラはにこりと微笑む。
「フェアウェルローズまでは、早馬で行くこと。少しでも長く試合が見れたほうが良いでしょう。王宮で一番早い仔をお使いなさい」
「えっ、まっ、そっ、い、いいんですか!!!」
「それから、アンジェちゃんも連れていくこと」
今度はアンジェがギョッとする。
「イザベラ様!? わたくしも……よろしいのでしょうか!? 開会の時にいなかったら……」
「いいのよ、そんなに心配して駆けまわっていたのに、肝心なところで置いて行かれるなんて哀れで見ていられなくてよ。主役は少し遅れて、フェリクスくんのエスコートで華々しく入場していらっしゃい」
「イザベラ様……」
アンジェが感動に胸を打たれたのを見てイザベラはニコニコと微笑んでいる。それを見ていたフェリクスもニコニコと笑いながら、それじゃあ、と続けた。
「僕も条件を出そうかな」
「で、ででで、殿下、何でしょう」
「フェリクス様……」
王子は婚約者とそのスカラバディの顔を交互に見つめて微笑む。
「二人とも戻ってきたら、僕の典医に見てもらって、瞼の腫れを治すこと」
「ははは、はいっ!」
「それから、二人で行くなら早馬でなくて八頭立ての馬車を使うといい。あとは……ヴォルフ。書くものを」
「そうね、あれなら早いし楽ですわね」
フェリクスは護衛官からインクと小さなカードを受け取ると、そのうちの二枚に何やらさらさらと書きつけた。
「馬車の準備をしている間に乾くだろう。そうしたらこれを持って行くといい。一枚はリリアンくんに。もう一枚は、サッカー部の主将……去年クラスが同じだったんだ、名前は何と言ったかな? ……オットーだ、オットー・エドガー・ハーデンブルク。彼に渡すといい」
文字を成すインクが一瞬ぴかりと光り、黒かった色がフェリクスの瞳と同じ緑色に変化した。あれは最高級の魔法インクで一人一人異なる発色をするため、高貴な人物の書きつけの真贋を見分けるのによく使われている。
「さあ、行っておいで、愛しいアンジェ。君と君の大切なリリアンくんの二人の心が晴れやかでなければ、どれだけ豪華な祝賀会と贈り物を用意しても意味がないのだからね」
「フェリクス様……」
「ああ、だけど、終わったらなるべく早く帰って来るんだよ。君がここにいないのかと思うと僕のやる気はたちどころに消えてなくなってしまいそうだよ、アンジェ。何なら僕も君たちと一緒に馬車に乗りたい……」
「ダメよ、フェリクスくん、面倒事をわたくしひとりに押し付けようという算段でしょう」
「……イザベラ、君には感謝してもしきれないよ。アンジェたちが戻るまで、もう一息乗り切ろうじゃないか」
「ええ、そういたしましょう」
従兄妹二人は頷き合いながら立ち上がった。フェリクスはアンジェの手を取ってその場に立たせると、両肩に手を置いてまじまじとアンジェの顔を覗き込む。その場でアンジェをくるりと回転させ、腰の後ろにつけられたリボンがふわりと揺れたのを確かめると、ニコニコしながら何度もしみじみと頷いた。
「アンジェ。僕の大切なアンジェリーク。本当に綺麗だよ。愛という言葉では言い尽くせないほど、君を愛している」
王子は恭しくアンジェの手を取り、青い瞳をじっと見つめたまま指の付け根あたりにゆっくりと口付けた。そうだ、いつもフェリクス様はこうやってわたくしの顔を見る──瞳の奥を、心の奥底まで覗こうとする。自分がそこにいることを確かめるために。恋する相手の望みを叶えたその後に、自分もそこに映るために。やっと分かった、貴方の愛を。貴方ではない人を見つめてしまって、ようやく、分かった。
「……フェリクス様は、どうしてそんなにもお優しく……わたくしを、……愛してくださるのですか?」
愛していると言おうとすると、胸が痛んで舌がもつれたのに気づかれなかっただろうか。顔が赤くなるが、視線を逸らすだけの勇気がない。君が好きだから、と答えるかと思っていた婚約者は、不思議そうにアンジェの顔をまじまじと見ると、やがてどこか誇らしげににこりと微笑んだ。
「どうしてだろうね。君に優しくしたくなる理由は、たくさんありすぎて僕にはもう分からないよ。晩餐会の後にでも、君と二人でその謎についてゆっくりと語らえたら素晴らしいだろうけれど……祝賀会の前も忙しい我が婚約者殿は、そんな謎解きに興味はおありではないかな?」
「はい……ぜひ、ご一緒させてくださいませ」
「嬉しいな、アンジェ。楽しみにしているよ」
「さ、そういうのはお二人の時になさってね、熱くてうんざりしましてよ」
フェリクスがもう一度アンジェの手にキスしたあたりで、ずっと二人をじっとりと眺めていたイザベラがぽんと扇子を手のひらに打ちつけた。
「時間が限られているのよ。わたくしたちはわたくしたちがやるべきことを為しましょう。アンジェちゃんたちも早く支度なさい」
時間がないのは確かにその通りだった。アンジェとリリアンは王族二人に何度も頭を下げ、退出する二人を見送った。入れ違いに執事がやって来て、馬車までの案内を申し出た。アンジェは少しだけ待ってくれるように頼み、隣の自分の客室に戻る。心配そうに待っていた家族に、姉二人がいつの間にか加わっている。アンジェが一時外出することを告げると、家族全員と侍女がテーブルをひっくり返さんばかりに驚き、次いで母レオナが怒りにキュッと眉を吊り上げた。
「何を……バカなことを言っているの、アンジェリーク! 貴女のための祝賀会なのよ!」
「お願い、お母様、時間がないの……! フェリクス様はお許しくださったわ!」
「今日はご好意に甘えてとお父様が仰いましたけれど、好き勝手に振る舞って良いという意味ではありませんよ! 祝賀会の主役が一時外出なんて、あり得ないでしょう!」
「お願い、後生ですわ、お母様!」
「なりません、いけません、アンジェリーク! 王子殿下も内心呆れ返っていることでしょう、貴女をそんな恥知らずに育てたつもりはありません!」
「……母上」
必死に訴えるアンジェ、カッカと怒鳴り返していた母レオナの間に、兄アレクが割って入る。
「アレクサンドル、貴方もアンジェリークを止めなさい!」
「母上……行かせてやりましょう」
「今日という今日は絶対に……え?」
アレクはアンジェの前に──母の目線を遮るようにアンジェの前に立つ。
「アンジェは先ほどは、友達を助けるために走りました。母上もご存知のスウィート嬢です。魔法氷室の中に閉じ込められて、アンジェが行かなければ凍死していたかもしれません」
「……それは……」
母レオナの目線が、アンジェの後ろで気まずそうに俯いているリリアンへと移る。リリアンは笑いきれていない笑みを浮かべ、ペコリと頭を下げる。
「アンジェは走りながら泣いていました。真新しいほっそい踵の靴で、必死に走って……うちに毎日のように招いて、隣の席で夕食を食べるような、そんな友達のために、いつも余裕綽々のこいつが本当に必死でした」
先ほどの騒ぎを直接見ていない姉二人が、互いに顔を見合わせて首を傾げている。
「王子殿下との婚約も、確かにセルヴェール家には大切でしょう。けれどアンジェには、アンジェリークには、友達との得難い友情もまた同じように大切なのではないでしょうか。アカデミーで学ぶことの意義は、そうした一面もあるのではないですか」
「お兄様……」
兄アレクは肩越しにアンジェを見下ろすと、呆れたような、だがどこか楽しそうにニヤリと笑って見せた。
「もう行け、アンジェ。時間ねえんだろう」
「でも……」
「母上なら俺と姉上で説得するから。頼れるお兄様に任せろよ」
アレクは言いながらアンジェとリリアンを廊下に押し出し、バタンと扉を閉めてしまった。ちょっと、待ちなさいアンジェリーク! 母の声はまだ聞こえていたが、アンジェとリリアンは互いに頷き合い、執事の案内で馬車へと歩き出した。
用意されていた八頭立ての馬車は国王一家が祝日のパレードを行う時に乗り込むような豪華絢爛な仕立てで、リリアンはもちろん、さしものアンジェも尻込みしたが、御者に急かされるままに乗り込んだ。リリアンは乗る前に馬たちの方に行き、何か小声でひそひそと囁きかける。馬たちは返事をするようにいななき、リリアンに頬をすり寄せながら誇らしげに足を踏み鳴らした。馬車は御者が驚くほどの速度で、フェアウェルローズ・アカデミーを目指して走り始めた。
馬車の中、アンジェとリリアンは互いに瞼が腫れた顔を見て笑い合う。
「わたくし、勢いでここまで来てしまいましたけど、ご一緒してしまってよろしかったのかしら」
「全然です、一緒に来てくださって心強いです。婚約まで話が進んでるってことは、リオの気持ちも……だいたい分かります。それでもアンジェ様に行きなさいって言っていただいて……勇気が出ました」
えへへ、と笑うリリアン。
「……言いたいこと、ちゃんと言うつもりです」
「……そう」
リリアンの横顔はどこか物悲しく、だからこそアンジェには美しく見える。襟と裾にレースをあしらった淡いグレーのワンピースは、覚悟を決めた少女の凛とした雰囲気によく似合っていた。
(リリアンさん……)
(貴女に、喜んでいただきたいけれど)
(少し、安堵してしまっているわたくしもいますのよ……)
【どんな感じなんスか? 婚約者がいるって……】
あの時のエリオットは、どちらかというと前向きな心持ちだったように思う。まだ来ぬ未来に想像を巡らせ、心躍らせている、まさしくそんな雰囲気だった。想いは叶わぬと知ったうえで、それでも会いに行くと決めたリリアン。その決意はアンジェにはどこか懐かしく感じられた。
「セレネ・フェアウェル」の夢を見て、自分は物語の悪役令嬢だと知って。
フェリクスを失う運命なのだと理解し、動揺して悲嘆にくれて、それでも、出来る限りのことをしようと決意したのは、ちょうど一年ほど前だったか。
(今は、失うどころか……よく分からないところに来てしまった、というのが実感ですけれど……)
(あの時の覚悟が、わたくしを導いていった……)
リリアンの思いの丈を聞いて、エリオットはどんな反応をするだろう。驚くだろうか、それとも知っていたよと苦笑いするだろうか。調子のいいうわべだけの言葉を並べるだろうか、それとも真摯に頭を下げて見せるだろうか。どれでもいい、リリアンに伝わる意味合いが同じなのであれば。わたくしはこの子の隣にいて、いつもこの子がそうしてくれるように、そっと涙を拭いてやろう。
アンジェもリリアン物思いに耽っているうちに、豪勢な馬車はフェアウェルローズ・アカデミーに到着した。休日なので正門の門扉は閉ざされていたが、守衛が何事かと詰所から飛び出してくる。御者が守衛と話し、守衛はギョッとして慌てて正門を開いた。アンジェが降りて、リリアンが降りて、二人とも何も言わずに競技場へと駆け出した。
「やってる……!」
正門から競技場はかなり離れた位置にあるが、休日で人気のない学園に、時々わあっと歓声が聞こえてくる。リリアンは必死に走る。アンジェもその後をついていく。カフェテリアよりも向こう側、広大な芝生の広場。芝生と空中に白く光る線が引かれ、その中を二種類のユニフォームを来た選手たちが入り乱れていた。
「リオ……! いた……!」
「どれですの!?」
リリアンが指差した先で、青い髪の少年がちょうどボールを空中めがけて蹴り出したところだった。黒地にフェアウェルローズの校章をあしらったユニフォームを着た別の選手が空中でボールを受け、またボールを蹴る。ピッ、と笛が鳴って、選手たちは脱力しながら地上へと降りてきた。リリアンはどちらかのチームのゴール近くまで辿り着くとようやく足を止め、アンジェはぜいぜいと荒い息をしながら額の汗をハンカチで拭く。
「リリアンさん……ごめんなさい、これはどういう、スポーツなんですの?」
「これは……魔法サッカーなので……みんな、魔法で飛んだり、身体を、強くしたり、してます……ボールも……飛びます……他は普通のサッカーと同じ……です」
「ごめんなさい、普通のサッカー、にも、明るくなくて……」
リリアンもぜーはーと肩を上下させていたが、アンジェの申し訳なさそうな声にきょとんとし、それからあははと笑い声を上げた。
「アンジェ、様、にも、知らない、こと、あるんですね」
「当然、ですわ……」
リリアンはニコニコしながら大きく深呼吸し、ハンカチを広げて芝生の上に置き、その上にぽすんと座った。
「サッカーは、手でボールに触っては駄目です。チームの陣地が決まっていて、敵陣のゴールにボールを運ぶと点が入ります。点の多い方が勝ちです。魔法サッカーは空を飛べるので、ゴールが空中にあります。エラーのルールも少し違います。それくらいでしょうか」
「そう……」
アンジェもクラッチバッグからハンカチを取り出して敷き、スカートを汚さないように細心の注意を払いながらリリアンの隣に腰掛けた。
「まあ、分からなくても、見てればだんだんわかって来ますよ。あっリオ! いいパス!」
秋晴れというにはやや寒くなって来た青空の下、フェアウェルローズチームの黒いユニフォームと、対戦相手の緑色のユニフォームが入り乱れる。魔法で杖やホウキもなしに空を飛び姿勢を維持するのは至難の業で、フェアウェルローズの魔法カリキュラムには入っていない。選手たちはみな空中で宙返りをしたり、急に方向を変えたり、ボールを狙う方向に蹴り出したりと、魔法と身体技術の両方が卓越していることが分かる。
「リオー! いっけえー!!!」
リリアンは両手をぶんぶん振りながら力の限り叫んでいる。先ほどまで悲しそうに見えたのが気のせいかと思えるほど、必死にたった一人の少年の挙動を追っている。一年生でレギュラーに抜擢されたというエリオット・アンダーソンは、選手たちの中でもかなり小柄な方だった。だからなのか、あるいはだからこそなのか、アンジェの目から見ても彼の動きは他の選手よりも機敏で、ある種の鋭さがあり、正確に狙いを蹴り抜いているように見えた。ボールが遠くに行った瞬間、エリオットがふと空中からこちらを見下ろす。リリアンの顔がさっと赤くなる。エリオットはギョッとするがすぐにニヤリと笑い、小さくリリアンに向かって手を振ると、雷の魔法を纏ってボールの方へ飛んでいった。
「アンジェ様……リオ、笑ってくれました……」
「……そう」
リリアンが微笑んでいるのか、泣くのを堪えているのか、アンジェには分からない。
「あっ! 今の反則でしょ! 審判ちゃんと見て!」
次の瞬間には顔を真っ赤にして拳をぶんぶんと振り回している。アンジェには結局魔法サッカーというものがどういうスポーツなのか掴み切れなかったが、リリアンが全然座っていられずに身を乗り出し、拳を振り回して必死に応援している姿を見るのは単純に楽しかった。プレイエリアの白い線の周りを見ると、両チームの控え選手や監督が集まっているエリアが見て取れる。そのうちフェアウェルローズ側の控えエリアで選手たちに交じり、ジャージを着た少女が何か必死に叫んでいる。山吹色にも見える色の濃い金髪をきつく巻き、シンプルなジャージを着ていても分かるふくよかな体型。アンジェも何度か見かけたことがある、隣のクラスのキャロライン・シュミットだ。シュミットを取り囲むようにして、控えエリアには場違いな、鮮やかな色のドレスを着た少女たちもきゃあきゃあと歓声を上げている。そのうちの二人は、アンジェのクラスの、あの噂話をしていた二人だ。少女たちは応援に夢中になっているようでいて、時折アンジェとリリアンの方をちらりと見ては、ひそひそと何か言葉を囁き交わす。リリアンはずっとエリオットばかり見ているので気が付いていない様子だが、ぼんやりと全体を眺めているアンジェには、その様子がありありと分かった。
「リオ……がんばれ……リオ……!」
リリアンが祈るように両手を組む。少女が見つめる先で、エリオットは何か呪文を唱え、明らかに一瞬その姿がゆらりと揺らぐ。見えない足場でもあるかのように虚空を蹴り、ぐんぐんとボールに近づいていき、敵チームプレイヤーからボールを奪う。
「リオ……リオ!!!!!!」
空中でボールを蹴り出しながら駆けるエリオット。アンジェは祥子の記憶の中に、こんな映画があったような気がする、と考える。リリアンの甲高い叫び声、エリオットが体格の良い自チームの選手にパスを出す。ボールはうまく受け取られ、相手チームの間を縫うようにして前へ運ばれて行く。エリオットがボールから距離を取って並走している。敵に取り囲まれて立ち往生するフェアウェルローズ選手、エリオットはまたしても虚空を蹴り、白いライン上部のぎりぎりあたりでぴたりと留まると、何か叫ぶ。はっとした選手がエリオットにパスを出す、エリオットは狙い違わずゴールめがけて鋭くボールを蹴る、キーパーの手はすり抜けるがゴールを通り過ぎる──横から迫っていたフェアウェルローズ選手が、キーパーが手を伸ばすよりも先に、ゴールエリアにボールを蹴り込んだ!
「きゃあああああ!!!!! アンジェ様、リオが、リオが!!!!!」
「ええ、素晴らしいプレイでしたわね」
「スーパーアシストですよ!!! リオー!!! エリオットー!!!!!!」
「アンダーソンさんが点を入れたということなんですの?」
「そうじゃないんですけど! ゴール前まで、上手にボールを運べるのがすごいんです!」
リリアンはぴょんぴょんその場に飛び跳ねてぶんぶんと手を振った。選手は点が入ると一度仕切り直すようで、競技エリアの真ん中あたりに集まってきている。エリオットがリリアンに向かってニカリと嬉しそうに笑い、親指を立てた拳を向けてみせる。口と鼻を覆ってこくこくと頷くリリアン。フェアウェルローズの控えエリアで、令嬢たちがひそひそと囁きかわしているのが見える……。
ゲームが再び始まったが、それ以上どちらかのチームに点が入ることはなかった。リリアンによれば、三対二でフェアウェルローズ・アカデミーが勝ったとのこと。地面に降り立った選手たちが一列に並び、号令と共にぺこりと頭を下げる。それぞれ目の前の相手チームの選手とがっしりと握手を交わした。エリオットはチームメイトと肩を叩き合って喜んでいたが、チームリーダーらしい一際頑強な選手に声をかけ、リリアンの方を指差す。リーダーはギョッとして、大笑いしながらばしんばしんと少年の背中を叩き、エリオットをリリアンの方へ押し出した。
エリオットが歩いてくる。
控えエリアで、令嬢たちがざわついているのが見える。
「……リコ。来れたんだな」
「リオ!!!!!!」
エリオットが自分の近くに来るのが待ちきれず、リリアンは芝生の上を駆ける。アンジェはリリアンがアンジェによくやるようにぴょんと飛びつくのではないかと思ったが、すぐ手前で足を止めると、エリオットの手を取ってぶんぶんと振り回した。
「すっごい! すっごいスーパーアシストだった! 私感動した!!!!!」
「おう」
「ライトニングダッシュ、めちゃくちゃ早くなってない!? なんか方向転換できゅってなってたし!」
「おう」
「パスのタイミングも最高だった! ほんとすごいよリオ!!!!!」
「……おう」
手をぶんぶん振り回されるに任せ、エリオットはニコニコと笑っている。傍らのアンジェがじっと自分を見ているのに気が付くと、ひょこりと頭だけ下げて見せた。
「あの……どうも」
「ご機嫌よう、アンダーソンさん。初めて魔法サッカーを観戦させていただきましたけれど、素晴らしい体験でしたわ」
「……そっすか、あざす」
ぶっきらぼうな喋り方だが、はにかんでいる笑顔を見ると、アンジェは目くじらを立てる気になれなかった。エリオットには美しく着飾ったアンジェは目のやり場に困るようで気まずそうに視線を逸らし、自分の手を掴んだままぴょんぴょん飛び跳ねて何かしゃべり続けているリリアンの方を見る。
「お前……セルヴェール様の、誕生祝賀会はどうしたんだよ」
「なんとかなったの! 王子殿下も、アンジェ様も、リオの試合を見て来いって!」
「王子殿下が!?」
「私、来てよかった、こんなにすごいスーパーアシストが見られるなんて思わなかった!」
「いいならいいんだけどよ……大丈夫なのかよお前……」
「それでね……リオ」
騒がしかったリリアンが急に押し黙る。触れてしまったエリオットの手を離さないままきゅっと握り締め、自分の胸元に引き寄せる。唇を引き結んでエリオットを見上げるリリアンの瞳は、今日もすみれ色だ。風に揺れて、涙に揺らめく、アンジェが一番美しいと思う色。
「私……リオに、伝えたいことがあって……」
「……俺に?」
少女の変化を感じ取ってエリオットが首を傾げる。リリアンは一瞬悲しそうに顔を歪めたが、もう一度、ぐっと唇を噛んだ。ああ、あの子は、今、覚悟を決めたのね。アンジェは自分の手を握り締めて祈る。願うのは奇跡なのか、期待なのか、自分でもよく分からない……。
「……私……私ね……」
ストロベリーブロンドが揺れる。
エリオットが少女のまなざしに惹きつけられるのが、まざまざと見て取れる。
「私……リオ……あの……」
「ちょっと! どうして貴女がこんなところにいるんですの!?」
リリアンの蚊の鳴くような声は、甲高い怒鳴り声に遮られた。アンジェも気を取られて気が付かなかったが、サッカー部マネージャーだというキャロライン・シュミットとその友人の令嬢たちが、怒りも露わにこちらまでずんずんと歩いてきたところだった。
「リリアン・スウィートさん! 貴女、またサッカー部でもないのに競技コートの近くをウロウロして! 目障りなのよ!」
リリアンは顔を上げ、アンジェとシュミットを見比べて泣きそうな顔になる。エリオットはシュミットを見てへらりと笑ったが、目障り、という言葉を聞いてその笑顔が消える。
「貴女はここにいるはずがないでしょう、せっかくお父様に頼んで試合の日をセルヴェール様の祝賀会の日にしていただいたのに!」
「え……」
リリアンの顔色が変わる。
「明日には、シュミット家とアンダーソン家で両家顔合わせなのよ! もう貴女みたいな跳ねっかえりが邪魔なんて出来ないの!」
シュミットはイライラと怒鳴ると、手に持っていた飲みかけの水筒をリリアンに向かって思い切り投げつけた。
「その手をお離しなさい、薄汚い泥棒猫!」
「──おい!」
宙を舞う水筒は、リリアンに当たる前にエリオットが叩き落とした。がこんと鈍い音を立てて水筒が芝生に落ちる。
「貴女みたいな貧相な子に付きまとわれたら、エリオットさんも迷惑よ!」
【書庫でネズミにでも齧られてしまえば良かったのに!】
頭に蘇った幻聴と、どうしようもない既視感にアンジェは息を呑む。リリアンも同じ顔をしてアンジェの方を見ている。
(これは……)
(あのイベントの……再現……?)
「……キャロライン先輩。どういう事スか」
エリオットがリリアンからそっと手を離してシュミットの方に向き合った。リリアンよりも少し前に立ち、シュミットから彼女を庇うような形になる。気迫と怒気を孕んだ表情にシュミットは一瞬言葉に詰まるが、顔をしかめて更に怒鳴った。
「ひ、ひ、人の婚約者に、手を出そうとするのを、追い払って、何が悪いのっ!?」
「まだ婚約してねぇッスよ」
「明日にはするじゃない!」
「顔合わせッスよ。俺はまだ承知してません」
「でも……!」
アンジェは胸が痛くなる。これはあまりもあのイベントに酷似している。何度夢に見て泣いたことだろう。どうしてあんな振る舞いをしてしまうのかと思い悩んだことだろう。好きだからと言って、誰かを罵倒したり傷つけたり、そんなことをしていい筈がない。自分はそこまで愚かで自制の効かない女だったのか……。
(でも……)
(分かるわ、シュミットさん……)
(貴女も、アンダーソンさんをお慕いしているだけ……)
(どうしたらいいのか、分からないだけなのでしょう……?)
騒ぎ立てるシュミットを見ているエリオットの青い瞳から、熱が失われて行くのが分かる。何度も見てきた、スチルの中のフェリクスと同じように。
「俺は、先輩のこと素敵だなと確かに思いました。婚約の話をされて、悪くないなと思いました」
「だったら!」
「でも……それだけで、俺の大切な友人に、物を投げつけていいんスか?」
「……だ……だから……」
「リコは幼馴染です。入学してからお会いした先輩より、ずっと長い付き合いです。兄妹のように一緒に育って……苦しい時は、傍にいました。今だって俺のプレイ見て、自分の事のように喜んでくれて……それの何が悪いんスか」
リリアンとアンジェからは、エリオットの背中しか見えない。
「そのリコに手を挙げるような人とは、俺、婚約できません」
「ま、待って! どうしてそうなるの!?」
「……残念です、キャロライン先輩」
エリオットは冷たい温度の声で言うと、シュミットに深々と頭を下げた。そのままリリアンの方を振り返ると、その肩をぽんと叩き、シュミットたちの横を通って控えエリアの方に歩き出す。リリアンは息を呑み、アンジェとエリオットを見比べ──
「待って、エリオット!」
涙をポロリと流しながら叫んだ。
「私、私……リオが……リオが……!」
リリアンは顔が赤くなり、それ以上言葉が出て来なくなる。エリオットが振り向く。ぽろぽろと泣いているリリアンを見て、ニヤリと笑って見せる。
「うるせえよ、バカリコ。泣いてないで早く祝賀会に戻れ」
「リオ……!」
エリオットはフフッと笑うと踵を返し、そのまま振り返らずに歩いて行ってしまった。シュミットがぼろぼろと泣いて、友人たちが慌てて慰めている。リリアンも泣いて、ずっとエリオットの背中を見つめているばかりだ。
(リリアンさん……)
アンジェもしばらく、リリアンに声をかけることが出来なかった。




