20-5 祝賀会の主役
案内されたのは先日と同じ客室で、この日のために仕立てたアフタヌーンドレスとイブニングドレス、化粧品類などが運び込まれていた。部屋の中央には大きな姿見と鏡台も用意されている。ドレスはどちらも淡い水色に濃いピンクと紺色をアクセントにあしらったもので、アフタヌーンドレスはブラウス風に、襟元をレース襟とくるみボタンが飾る清楚な仕立てだ。対するイブニングドレスはデコルテから肩にかけてを大胆に露出し、きらめくビーズを縫い付けたオーガンシーの重ね生地が年齢に見合った可愛らしい魅力を引き出している。どちらもフェリクスから色の指定があり、アフタヌーンドレスには生花の薔薇のヘッドピースとコサージュが添えられていたが、イブニングドレスには宝飾品の類は一切なかった。宝飾品類は何も身につけないように、も王子からの指定だった。ドレスの丈がやや短く足元が見えるアフタヌーンドレスは水色のピンヒールの靴が、ダンスを予定しているイブニングドレスには、豪華な踵飾りがついたチャンキーヒールの靴がそれぞれ用意されていた。
「アンジェお嬢様……本当に、お嫁入りされるようですわ……!」
身支度のために別の馬車で同伴した侍女サラが感動に目を潤ませながら、まずはコルセットなどの下着を着付ける。続いて鏡台の前に座らされると、セルヴェール家の髪結い師がアンジェの髪を高く結い上げ、横を細かに編み込み、頭頂から見事な巻き毛が滝のように流れる髪型を作り出した。化粧師は柔らかく細い筆で微細な化粧を施す。アンジェの化粧は自然な色合いで肌にきらきらとした輝きが乗るもので、祥子の記憶を参考にアンジェと化粧師で創り出した特別なものだ。美しくも平面的な印象のこの世界の化粧とは全く異なり、至近距離──陽光の下で隣に立つフェリクスの位置から見られても自然な美しさを保つことができる。皆がこぞって真似をしたがるが、アンジェはまだそれを公にはしていなかった。どれもこれも、フェリクスを失わないため、正ヒロインと彼をかけて戦うことを想定して、努力し磨いて来た技術の一つだ。
「なんて美しいのでしょう……」
小物類を取りまとめながら、侍女がうっとりと目を細めて呟く。
「建国の女神のようとはお嬢様のためにあるような言葉ですね。ご立派に、美しくなられて……私がお嬢様にお嫁に来ていただきたいです……お嫁に行かないでください寂しいですアンジェお嬢様ぁ……」
「もう、サラ、大袈裟よ、泣かせないでちょうだい、輿入れの時には貴女にも来ていただくと約束しているじゃない」
物心ついた頃から彼女はずっとアンジェの侍女を務めていた。小さい頃はたくさん我儘を言って困らせたし、叱られもしたし、何より色々な話を聞いてくれた。さすがに乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」について話す勇気はなかったが、それでもアカデミー入学後、美しくなりたい、首席を取りたい、そのためにはあれを、これを……と言ってばかりのアンジェの要望を叶え、努力を支えて来た。侍女からすれば、今日の誕生祝賀会はフェリクスからの変わらぬ愛を勝ち得た祝勝会のように思えているのだろう。アンジェが手に持たされていたうさぎ刺繍のハンカチで目尻をそっと拭うと、侍女はふふふ、と笑った。
「今日のメイクは泣いても崩れないやつですよ〜」
「もう……」
「でも瞼が腫れるのでできるだけ堪えてくださいね。せめて贈り物をいただくまでは頑張りましょう」
「はぁい」
髪結い師も化粧師も二人のやり取りを聞いてニコニコしながら作業を進めている。立ち上がってアフタヌーンドレスを着付けられ、髪飾りなどをつけると、アンジェ自身も見惚れてしまうような清楚な令嬢が鏡の中に映っていた。
「アンジェリークお嬢様……素敵です……」
「ありがとう、三人とも」
侍女はぼろぼろと涙を流しながらちーんと洟をかむ。髪結い師と化粧師も鼻の頭が赤くなっている。三人が口々に誉めそやしながらも道具の片づけを始めたので、アンジェは皺にならないように気を付けながら椅子に腰かけた。
「そうだ、お嬢様、こちらなんですけれど」
アンジェの荷物を整理していた侍女が、その中から金色のペンダントロケットを摘まみ出す。彼女の指先の中でアンジェとリリアンの友情の証がゆらゆらと揺れる。
「こちら……身に着けておいていただくわけにはいきませんか?」
「……どうして? 宝飾類は身に着けるなと言われているわ」
アンジェから言い出すならともかく、侍女の方から言うとは。アンジェがあからさまに顔をしかめて聞き返すと、侍女は更に困ったような顔で首を傾げる。
「そうなんですけど……お嬢様、このペンダントがない時に、鼻血を出されたり、お花を出せたりしているような気がして……」
「まあ、そうなのかしら……?」
「私の勘なんですけど……お嬢様を、守ってくださっているような気がして……」
躊躇いがちな侍女の言葉に、アンジェは今までのことを振り返る。花が出るのは自室で寛いでいる時だと思っていたが、言われてみればその時間は交換日記を開けるためにペンダントを外していたかもしれない。ルナと話した後にすみれを爆発させた日は、確か鎖が切れて修理に出していた。階段から落ちた時は、そうだ、まだ交換日記を始めていなかった。
「でも……ペンダントですものね……アフタヌーンドレスでも、素材が薄いから中につけたら透けちゃいますでしょうか……うーん」
「なら、ハンカチで包んで、コルセットの隙間に差し入れておくのはどうかしら?」
「いいですわね! さすがアンジェお嬢様!」
「サラが言うならきっと本当よ、わたくしを守ってくださるのね」
侍女はうさぎハンカチで丁寧にペンダントロケットをくるむと、ドレスの前部分を開いた。アンジェの誇らしく柔らかな頂とコルセットの隙間に、半ば無理矢理ハンカチを押し込む。初めは少し窮屈だったが深呼吸するとすぐに馴染んだ。ドレスを元に戻すと、サラは別のハンカチを用意し、手持ち用の小さなクラッチバッグに入れる。改めて支度の整ったアンジェを見て、うん、と満足気に頷いた。
「完璧です、お嬢様!」
「ありがとう、サラ」
「本当に素晴らしいですわ、お嬢様……輝くばかりのお嬢様を見れば、王子殿下もまた新たに恋に落ちられることでしょう」
「……それは素敵ね」
アンジェは微笑むしかできない。
「お疲れになりましたよね、わたくし飲み物をいただいて、公爵様たちにお声がけして参ります」
「僕達はこれで失礼します。またお召替えの時に伺います」
「お嬢様、本日は誠におめでとうございます」
「では行って参ります、お嬢様はどうぞこのままお部屋でお待ちくださいまし」
侍女、髪結い師、化粧師が揃って退出し、部屋の中が急に静かになった。時計を見ると九時を過ぎたあたりを指している。
(アンダーソンさんの試合は、十時からだったかしら……)
アンジェは立ち上がると、傍らのテーブルにおかれた自分の荷物の中から、今日の時間を書きつけた紙を取り出した。エリオットの試合は午前中。誕生祝賀会は昼から。お菓子作りを諦めればリリアンは間に合う。エリオットは明日、シュミットとかいうアンジェの隣のクラスの令嬢と婚約の顔合わせをする……。
「…………」
紙を折り畳んで元の通りにしまい、アンジェは嘆息する。すぐ横の姿見に映る自分は、確かにこれ以上ないと言っていいほど美しく整えられている。アンジェは立ち上がって鏡にそっと手を触れ、ガラスの向こうの自分を覗き込んだ。
「片想いというのは……孤独なものね、アンジェリーク」
自分も、鏡の中の少女と同じように、悲しげな顔をしているのだろうか? 悲しいのはどうして? フェリクス様の想いと同じでいられなくなったから? リリアンさんに何も伝えることが出来なかったから? あの子の笑顔が眩しいから? あの子が去ってしまうのが怖いから? 鏡に触れた左手の指先から、黒い炎が噴き出すようだ。蛇のようにアンジェの身体に絡みついて、身動きを取れなくする、息を堰き止める──
「いい炎に育ったものだ」
呟いたつもりはないのに自分の声が聞こえた。何か無意識に独り言をつぶやいてしまった? それとも誰か戻って来たのか。伏せかけていた目を開き、アンジェは室内を見回すが、広い客室はやはり自分が一人きりだ。ため息をつき、視線をつま先に落とした視界の端で、鏡が──その中の自分が、ゆらりと動いた。
「黒く熱く、身を焦がすような炎──美味であるぞルネ、我が愛し子よ」
鏡の中の自分が、両手をべたりと鏡面についてこちらに笑いかけてくる。アンジェ自身の左手は鏡に添えたまま、右手は、胸元で、握り締めたまま。
「……なっ、何……!?」
「ルネ、美しい娘になった……」
鏡の中のアンジェは、アンジェと同じ顔のままニタリと笑った──それはアンジェとは似ても似つかない、劣情がむき出しの、獣じみた笑い方だった。アンジェは本能的な嫌悪感に身体をぎくりとすくませ、鏡から手を離す。鏡の向こうのアンジェの手が、鏡面を突き抜けてその手をがしりと掴む。
「ヘリオスに初物をくれてやるのが惜しくなるな。どれ、余が食ろうてやろう」
怯えて身をすくませるアンジェ、その手を握ったまま、窓枠を乗り越えるように鏡の中から姿を現すアンジェ。瓜二つだったはずの姿が、アンジェの顔はそのままに身長がぐんと伸びる。捕まれた手を見ると、骨ばって血管が浮き出た大きな掌に変貌している。アフタヌーンドレスが溶けるように消えた下から現れたのは、褐色の厚い胸板──これは、男だ。頑健な男の身体だ。
「なっ……な、に……を……!」
アンジェは掴まれた手を振り回そうとしたが、力が強すぎて動かすことが出来なかった。男の顔がいつの間にかアンジェの顔から面長な美丈夫に変貌している。フェリクスよりも、兄アレクよりも年かさで、だが父ほどではない大人の男。アンジェの腰よりも太い足はぴったりと黒光りする革のパンツを履き、上半身は何も身につけず、濃い紫色の長い髪がまるで蛇のように空中で蠢いている。手は離れない、身を引いてもその場から動けない……。
「離して……離しなさい!」
「怯えても無駄だ、その顔は男を煽るばかりだぞ」
もはや身の丈はアンジェの倍ほどにもなり、握った手を上に持ち上げてアンジェを宙づりにした。
「い……たっ……はな、して!」
「はは、いい声で鳴くな」
男は顔をアンジェに近づけ、あの獣じみた笑みを浮かべた。牙ばかりの歯が並んでいるのが見える。金色の瞳の虹彩が縦長で、猫か蛇のよう……むせ返るような匂い、だが何か蠱惑的で頭の奥を痺れさせて動けなくなる……。震えているのに、腕が痛いのに、身体を動かせない──
「さあ、ルネ……セレナも捕まえてやったのだ、お前もその身を余に捧げよ」
薄い唇の奥から囁かれる声は甘い。もう一つの大きな腕がアンジェの身体を這い、顔に触れ、おもちゃのように顎をつまんで上を向かされる。顔が近づいて来る。長い髪の毛が手足に絡みついてくる。ニタニタと笑うあの口に、頭からバリバリと食べられてしまうのだろうか──それとも、フェリクスにしか許したことがない唇を、奪おうとしているのだろうか? 縦長の光彩が、獲物を見つけた蛇のようにすっと細められるのが見える。近付いて来る、怖い、逃げなくては! 触られたところが気持ち悪い、動いて、動け、動くのよ……!
──アンジェリーク!
不意に頭の中で誰かの声がした。それと同時に胸のあたりがカッと熱くなり、身体が軽くなった。動ける! 咄嗟に右手で男の顔を押しやり身をよじる。男のぴったりとしたズボンが視界に入り、アンジェは殆ど本能的に、その股間めがけてピンヒールの踵を振り下ろした!
「ヴッ……ををををををっ……!!!!!!」
男は絶叫してアンジェを放り出し、股間を押さえてうずくまった。アンジェも床にぶつかって呻いたが間髪入れずに立ち上がり、男の無防備な尻めがけて、再び容赦なくヒールを振り下ろす!
「うぎゃああああ!!!!!!!!」
「去れっ、去れっ、魔物よ去れっ!」
「やめっ……、ルネッ……、うおっ!? ああっ!!!」
「去れっ、去れっ、建国の女神様の名のもとにっ!」
「あっ、ぎゃっ、うおっ、ぐっ、ああっ!!!」
アンジェはスカートをたくし上げて男の尻をげしげしと蹴り飛ばす。男が呻いて手をずらせば容赦なく股間を狙う。のたうち回ればその後を追いかけて穴が開けとばかりに踏み潰す。だんだんと男の身体が縮んで、フェリクスと大差ない程度になって来たと思ったころ、こんこん、と扉を叩く音がした。
「お嬢様、公爵様たちがお見えです」
「サラ助けて!」
咄嗟に叫ぶアンジェ、がばりと顔を上げる魔物、ばたんと開かれる扉。その瞬間、アンジェの足の下で踏みつけていた尻の感触が消え、すとんと足が絨毯の上に落ちる。血相を変えて飛び込んできた侍女の目の前にいたのは、一人呆然と佇むアンジェと、何事もなかったかのように室内を映す姿見だった。侍女は拍子抜けし、眉をひそめながら首を傾げる。
「お嬢様、何かありましたか?」
「……今、確かにここに……」
アンジェは身体の力が抜けてへなへなとその場に座り込む。
「あっ、お嬢様っ!?」
「アンジェリーク!?」
侍女に続いて室内に入って来た父、母、兄、妹、弟が慌ててアンジェを取り囲む。兄アレクがアンジェを抱き上げて椅子に座らせ、侍女が冷たいレモネードを差し出した。
「お嬢様、すごい汗ですわ、御髪も乱れて……どうなさったのですか」
「何と言えばいいのかしら……急に……」
レモネードのグラスを持つ手の震えが止まらない。見かねた兄アレクがグラスを取り上げる。アンジェは目線でグラスを追うが、自分の手に取り返すだけの気力は沸いてこなかった。
(あれは一体……!?)
(急に……鏡から出てきて……)
初めはアンジェの姿をしていたのに、急にその姿を変えて。
笑いながらアンジェを吊り上げて、その手を身体に這わせて。
【さあ、ルネ……】
蘇った感触の気色悪さに、アンジェは自分の肩を抱いた。男の舐るような声が耳元でこだましている。あの時どうして身体が動いたのだろう? 誰かがわたくしの名前を呼んでいた。胸が熱くなって、それから……。
【セレナも捕まえてやったのだ】
(……セレナ……)
精霊がセレネス・シャイアンにひそやかに与える、秘密のミドルネーム。
(……リリアンさん……?)
脳裏で繰り返す男の声に、全身の血の気が引いていく。周囲を見回してみてもこの場にリリアンがいるはずもない。菓子厨房で手伝わせてもらうと言っていた、一人にならないように気を付けると言っていたが。
正体すらも分からない、鏡の中から現れたあの男。
(リリアンさんを、捕まえた、と……言ったの……?)
【アンジェ様、きっと大丈夫です。なんとかなります】
いつかの森の中で聞いたリリアンの声が脳裏に蘇る。可愛らしいあの笑顔。それらが、暗いものに塗りつぶされて消えていく。そんな。そんな。リリアンさんが捕まった? あいつに? どこに? この王宮の中に? リリアンさんが?
「……ごめんなさい、わたくし、リリアンさんを探してきますわ!」
アンジェは立ち上がると、心配して自分を囲む家族の輪をすり抜けて客間の外へと走り出した。アンジェ、アンジェリーク! 父と母の声が聞こえる。お嬢様! 侍女が追いかけてくるのが分かる。それらを追い越して兄アレクが迫って来る。
「アンジェ、待てよ、どうした!? 一回止まれ!」
「急いでいるの、お兄様も一緒に来て!」
「ハァ!?」
アンジェは振り向きざまに怒鳴ると、アンジェを掴もうとしていた兄の手を逆に掴んで走る。菓子厨房までの道はどちらだったか。優雅に歩くためのハイヒールが足の付け根に食い込んで痛い。リリアンさん、リリアンさん、リリアンさん! どうか無事でいて、お願い、どうか。
「アンジェ……泣いてるのか?」
アンジェの走りが兄には余裕でついて来られる程度でしかないのが悔しい、もどかしい。もっと早く走れたらいいのに! アンジェは記憶を頼りに王宮の廊下を走り、扉をいくつもくぐり抜け、従者区域に入り込み、菓子厨房へ続く大厨房へと辿り着いた。
「申し訳ありません、こちらはご来賓の方は立ち入りをご遠慮いただいております」
あたりをたくさんの料理人が行き交い怒号もあちこちから聞こえる。先に進もうとするのを通りすがりの料理人に阻まれる。アンジェは唇を噛み、キッと料理人を睨み上げた。
「アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールです、菓子厨房でお手伝いさせていただいている友人のリリアン・スウィートさんをお呼びして!」
「……セルヴェール公爵家の者です。王子殿下の婚約者と、その兄です。弁明は後ほど致します。どうか妹の申し出を聞いてやっていただけますか」
「これは……! 失礼いたしました!」
応対した料理人はさっと顔色を変えてばたばたとどこかに駆けて行った。せいせいと荒い息をしているアンジェを、アレクはしかめ面で眺めているが何も言わない。そうしているうちに、先ほどの料理人がまたしてもばたばたと戻って来た。
「今は、菓子厨房にいないようなのですが……」
「そんなはずないわ!」
アンジェは叫ぶ。
「必ず、必ずリリアンさんはいるはずよ、お願い! わたくしにも探させてください!」
「は、はあ」
「これは、セルヴェール様。お兄様もご一緒ですか」
奥の方から何度か打ち合わせで同席したパティシエがやって来た。いくつかあるパティシエチームの中でも、リリアンが出すフォンダンショコラのような焼き菓子を扱う部門の主任だと聞いていた。
「リリアンさんは!? お一人にはなさらないでとお伝えしたでしょう!」
「はい、そのはずだったんですが、ほんの数分前までいたんですが、その」
パティシエは申し訳なさそうに縮こまって歯切れ悪く話す。
「お願い、見つけてください、わたくしも探します!」
「こら、アンジェ!」
アンジェはパティシエの脇をすり抜け、菓子厨房目指して走り始めた。良く洗われた石の床の固さがつま先から伝わってくる。入り乱れる料理人、パティシエ、ウェイター、あの子は小さいから埋もれてしまいそう。
「リリアンさん!」
菓子厨房で叫ぶとパティシエたちが一斉にこちらを向いた。視線を急ぎ走らせるがその中に彼女はいない、いればすぐに返事をしてくれるはずだ。アンジェは脇の倉庫の方を覗くが、暗いばかりで何も見えない。
「リリアンさん!」
返事はない。それではこちらは? 食器がずらりと並んでいる。ここからも返事は来なかった。洗い場。布巾がたくさん干してあるところ。ワインボトルがたくさん並んでいるところ……。
「リリアンさん、アンジェリークです! どこですの!? リリアンさん!」
どこを走っても、どこを覗いてもリリアンがいない。異変を察知したパティシエ達がざわめき出し、アンジェと一緒になってリリアンの名を呼ぶ。隣の料理厨房の中は? テーブルクロスのリネン室は? いない、いない、どこにもいない……。
「リリアンさん……」
無事でいるのか。怪我をしたりしていないか。あの恐ろしい男が捕まえたと言っていたのだ、命にかかわるような危険な目に遭っているのではないか。走るアンジェの瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。こんなことなら、黙っているのではなかった。彼のところに行けと言って、遠くに離しておけばよかった。そうすればこんな目に遭うこともなかったかもしれないのに。お願い、どうか、リリアンさん、無事でいて。リリアンさん、どうか。
不意にアンジェはまた胸のあたりにチクリと刺すような痛みを感じて足を止めた。ドレスの上から触り、そこにハンカチとペンダントを入れていたのを思い出す。周囲を見回すと、通路の奥からひやりとした冷気が這い出てきているのが分かる。
「あれは……?」
「あれは、魔法、氷室、です」
責任を感じているのだろう、ずっとアンジェと一緒に走っていたパティシエが、息も絶え絶えになりながら答える。
「施錠していて……人が、複数人でないと、入れない仕組みです。スウィートさんがいるとは……」
「分かりません。開けてみてください」
「はい……」
「おい、アンジェ……」
アレクが咎めるような口調でアンジェの肩に触れるが、アンジェはギッと兄を睨み、パティシエの後に続いた。魔法氷室は二人以上の人間が同時に入口の魔法鍵に手をかざすと扉の開閉が出来る仕組みとのことだ。誰でもいいというわけではなく、開ける時と閉める時の人間が同じでないと動作しないらしい。手をかざしていない人間が中に入ろうとすると、見えない壁に阻まれてしまうのだという。開けっ放しの扉を見て誰かが誤って閉めてしまい、中に閉じ込められるのを防ぐための魔法とのことで、アレクが妙に感心していた。
「ですから、中にはいらっしゃらないと思うのですが……」
「けれど、お願いします」
大きな木製の扉の端の方には霜がついていた。パティシエから防寒コートと手袋を渡され、壁や棚に直接触ると皮膚が貼りついてしまうからと注意される。アンジェ達がコートを着て、アンジェは更にスカートの端を結んでどこかにぶつからないようにしたのを見て、パティシエはようやくしぶしぶと魔法鍵に手をかざすのを許した。
がこん、と仕掛けが動く音がする。
大きな扉が、手前側に両開きにゆっくりと開く。暗い空間から冷気が霧のように這い出て来て、兄妹はそれだけで身震いした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アンジェはパティシエから魔法ランプを受け取り、中を覗き込んだ。棚がずらりと並び、木箱や大きな肉の塊が所狭しと詰め込まれている。こんなところに、リリアンさんはいないかもしれない。魔法氷室の仕組みを考えると、それはあり得ないのかもしれない。でも、あの男は尋常ではなかった。リリアンも尋常ではない手で拐かされたのかもしれない。
「寒いな……」
アレクの呟きが、そのまま凍り付いて床に落ちてしまいそうだ。
「リリアンさん……リリアンさん! ここにいらっしゃるの!?」
アンジェの叫びも冷気に吸い込まれて奥まで届かないように思えた。棚の間を一つ一つ覗き込みながら三人は進む。身体はあっという間に冷え切って震えが止まらず、歯がずっとガチガチと鳴っている。リリアンさん、どこにいるの。どうか無事でいて。
広い氷室の中もだいぶ進んだ。あとはあの棚の影を確認すれば終わりだ。足はもう凍ってしまったのではないか。魔法ランプを持つ手が震えて、灯りが揺れている……最後の角に辿り着いて、灯りをかざす。壁に並ぶ棚、冷たすぎる通路。その中央に何かが丸まっていた。
「……アンジェ様?」
丸まっていたものが動く。それはぶるぶると震えていて、アンジェと同じ防寒着で。ランプをかざすと、ストロベリーブロンドが僅かに覗いている。
「……リリアンさん!!!!!!」
「いたのか!?」
「アンジェ様……」
駆け寄ろうとするアンジェを押し退けてアレクが走り、丸まった形のままそれを──リリアン・スウィートを抱え上げた。
「急げアンジェ! 湯を沸かしてもらえ!」
「はっ、はいっ!」
パティシエが慌てて入口の方に走っていく。アンジェも走りたいが、足が上手く動かない。兄は転ばないように慎重に、だが可能な限り急いでいるのが分かる。明るい方、入口の方が俄かに騒がしくなった。パティシエが外に出たのだろう。寒い、寒い、早くここから出なくては。早くリリアンさんをここからお出ししなくては。
「アンジェ様……」
兄の腕の中でリリアンがもぞもぞと動き、アンジェの方を見た。顔が真っ青で、唇が紫色で、目に見えて震えているのが分かる。
「アンジェ様が……来てくれるんだって、思ってました」
にこりと笑うリリアン。
「リリアンさん……」
アンジェは息が詰まる。
(貴女はわたくしを信頼して、危険を顧みずにお菓子を作るといってくださった……)
(わたくし、それが嬉しくて……アンダーソンさんのことをお伝え出来なかった)
(貴女は……こんなにも、こんな目に遭っても、わたくしを信頼してくださっているのに……)
(わたくしは……)
「ごめんなさい、リリアンさん……わたくし、自分のことばかり……」
「アンジェ様……?」
「出てからやれ! 寒い!」
ようやく三人が外に出ると、大厨房中の料理人、パティシエ達が集まったのではないかというくらいの人だかりだった。料理長が厳しい顔でアンジェ、アレク、リリアンを見比べて、魔法氷室を閉じるように指示をする。先ほどのパティシエと兄妹が魔法鍵に手をかざすと、扉が重々しく閉じられた。誰かが慌てて温かいスープを三人前運んでくる。アレクは普通に飲めたが、リリアンは手が震えていてスプーンが持てず、アンジェが掬いあげて口まで運んでやった。
「アンジェ様……」
「リリアンさん……あれほど、気を付けてと言いましたのに……」
「気を付けてたんですけど……」
アレクに抱き上げられて客室へと移動しながら、えへへ、とリリアンは笑う。
「誰かに、魔法氷室から冷凍果物を持ってくるのを手伝って、って言われたんです」
「どなたにですの?」
「それが……氷室に入ったら、その人、消えちゃって……ほぼ同時に扉も閉まっちゃって。魔法ランプも一緒に消えちゃったから、真っ暗で……」
「そんな……」
「話してる時は知ってる人のつもりだったんですけど……さっき、みなさんのお顔を見ても、誰とも違う人でした……」
「…………」
【セレナも捕まえてやったのだ】
アンジェは男のぞろりとした声音を思い出し、冷気とは違う寒さに身震いする。
「ごめんなさい、アンジェ様……」
「いいの、いいのよ、もういいの……こうしてご無事だったのだから……」
アンジェが着付けをした客室の隣の部屋に、バスタブが運び込まれてぬるい湯が張られた。幸いリリアンは凍傷などの外傷はなく、湯船でしっかり温まると顔色も元のように戻ったようだ。アンジェは自分の控室で侍女にさんざん泣かれ、父と母に厳しく説教され、乱れた髪やメイクやドレスをまたしてもきっちりと直され、その間ずっと黙って何か考え込んでいたが、リリアンの部屋付のメイドから湯浴みが終わったことを聞くと、一人隣の部屋へ向かった。
「リリアンさん」
「アンジェ様……」
もと着ていた服に着替えたリリアンはにこりと笑う。
「ご心配おかけしました。でももう大丈夫です。お菓子、作れます!」
「リリアンさん……」
アンジェはゆっくりと首を振った。
「違うのよ、リリアンさん」
「アンジェ様、私大丈夫ですから! アンジェ様からもみなさんにお願いしてください、私、今日お菓子をアンジェ様に食べていただけなかったら絶対後悔します! 見えない力だって、もう終わった筈ですし!」
「違うの……リリアンさん」
アンジェは首を振りながら、壁にかけられた時計を見た。もうすぐ十時半になろうかというところだ。
「アンダーソンさんの試合、まだ始まって幾許かですわ。今から行けば、少しは彼の活躍が見られるかもしれません」
笑っていたリリアンの顔が、笑顔のまま硬直する。
「明日には……アンダーソン家と、シュミット家で、彼のご婚約の顔合わせが、執り行われるそうよ……」
紫の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
「ごめんなさい、わたくし、何日か前にこのことを知ってしまいましたの。リリアンさんがご存知かどうか分からなくて……貴女が、わたくしの祝賀会でお菓子を作ると言ってくださったことが、とても嬉しかった。だから、それがなくなってしまうのかもしれないと思うと……どうしても、お伝え、できなかった……けれど……」
アンジェはおそるおそる手を伸ばし、リリアンの手に触れる。
(わたくしとの約束がなかったら、リリアンさんは何の障害もなく試合に行っていた……)
(あんな恐ろしいところに閉じ込められることもなかった……)
「さきほど、貴女を探していて……リリアンさんにもしも何かあったら、試合と婚約のことを伝えられなかったことを、一生悔やむだろうと思いましたわ。ご無事だったとしても……リリアンさんのお心の中で、あの日もし行くことが出来たら、とずっと抱え続けることになるのだと思うと……わたくし……」
リリアンをじっと見つめるアンジェの瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれる。
(わたくしは──本当に、悪役令嬢なのかもしれない)
(リリアンさんの恋路を邪魔する、悪役令嬢……)
「どうか、お行きになって、リリアンさん」
お願い、行かないで。
本音と口上を間違えずに言うことが出来て、安堵の代わりに涙が次々とこぼれ落ちる。どれだけ彼女が愛しくても、彼女を邪魔立てする悪役令嬢、それにだけはなりたくない。リリアンが湯浴みをしている間考え続けていたアンジェが、ギリギリのところで出した一つの結論だった。
リリアンはアンジェの手をギュッと握ると、苦々しく笑って俯いた。
「アンジェ様、ありがとうございます……でも私、行きません。……行けません」
「そんな……どうして……?」
「シュミット様ですよね、キャロライン・シュミット様」
ぱっと顔を上げたリリアンが、笑顔ではなく、追いつめられ切羽詰まった顔になっていく。そのままきつく瞳を閉じると、アンジェに抱き着いてわっと泣き出した。
「サッカー部の……マネージャーの人なんです……!」
リリアンは抱き着いたまま顔を上げ、涙と鼻水がアンジェのドレスにつかないように顔を背ける。
「リオが入部してきて、シュミット様が一目惚れしたみたいで、ずっと、ずっと……私の方が、ま、前から、好きだったのに……アンジェ様……!」
「リリアンさん……」
「ちょっと……大きいからって! リオも、くっつかれてデレデレしてて……ちょっと大きいからって!」
悔しそうに自分の足を拳でぽかぽかと殴るリリアン。
「でも……婚約とか、そういう話になったら、私一人じゃどうしようもないんです……アンダーソンのお家が、私より……シュミット様の方がふさわしいって、思ったんだろうし……だから! 婚約のことを聞いて、惨めになるのが嫌で、行かないことにしたんです!」
「リリアンさん……」
アンジェは泣きじゃくるリリアンの両肩にそっと手を置くと、赤くなった紫の瞳を覗き込んだ。
「それでも、行ってちょうだい、わたくしと貴女のために」
「アンジェ様……だって、私、もう」
アンジェは首を振り、指先でリリアンの涙を拭ってやる。
愛しい、大切な、わたくしのリリアンさん。
貴女にわたくしの近くにいてほしい、いつもわたくしを想っていて欲しい。
「結果は変わらないかもしれないけれど……それでもその想いは、今でないと、伝えられないものなのよ」
けれどそれ以上に、貴女が悲しむのを見ていられない。
「お相手に、恋人や、婚約者や、伴侶がいたら……やすやすとは伝えられなくなってしまう。分かるでしょう」
(……そう)
(自分に婚約者がいる場合も……)
「…………アンジェ様…………」
「ね、お願い。フェリクス様とイザベラ様には、わたくしからお伝えいたしますから。どうか、悔いのないように行ってちょうだい、わたくしの大切なリリアンさん」
アンジェの瞳からは、リリアンと同じ、あるいはそれ以上に涙がぽろぽろと零れ続ける。リリアンは呆然とアンジェの顔を、青い瞳を見つめていたが、大きくため息をついたかと思うと、ふふふと笑いを漏らした。
「アンジェ様」
「行ってくださる?」
「アンジェ様のお化粧、すごいです。そんなに泣いてるのに目の周りが綺麗なままです」
虚を突かれてアンジェは息を呑み──それから、ふふふ、と笑った。
「もう……リリアンさん」
「私、行きます、アンジェ様。これ以上アンジェ様が泣いていらしたら、せっかくの素敵な日が台無しです。行って……ちゃんとリオに、自分の気持ちを伝えてきます」
「ええ、ええ……そうなさって、リリアンさん」
「それでもし、間に合ったら──お菓子を作らせてください」
「もちろんよ、お待ちしているわ」
「ありがとうございます」
リリアンは手の甲で涙を拭くと、にこりと笑ってみせる。
「大好きです、アンジェ様」
「…………ッ……」
好きと言われて辛いと思うことがあるだなんて、知らなかった。
「わたくしも大好きよ、リリアンさん」
婚約者に用意されたドレスに身を包みながら、アンジェはそう返すしか出来なかった。




