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20-4 祝賀会の主役

 公爵令嬢アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールの祝賀会の身支度は、入念な湯浴みから始まった。


 前日は早く眠るよう侍女に厳しく言われてベッドに入ったが、やはりあまり良く眠れなかった。それでも多少は微睡んでいたようで、朝に起こしに来た侍女はアンジェの顔色を見てどこか安堵した様子だった。連れて行かれたバスルームは蒸気と薔薇の香りで満たされていて、侍女とメイドたちがアンジェの身体を隅々まで磨いていく。顔からデコルテ、両腕から指先まで美容パックを塗られ、赤い巻き毛も丹念に梳り、しっかりと湯船に浸からされる。爪先を染料で染め、髪の生え際の短い毛を処理し、湯上りに火照る肌にしっとりとミルククリームを塗り込む。当日の衣装は王宮で着付ける手筈になっているので、自宅ではコルセットをせずにエンパイアドレスを着せられた。


「お嬢様、お綺麗ですわ」


 小さい頃からずっとアンジェの面倒を見ている侍女サラは、何度もそう言ってはうっとりとため息をついた。食堂に行くと家族がもう席に座ってアンジェのことを待っていて、アンジェが現れるとみな拍手をし、誕生日おめでとう、と祝福した。正確な誕生日は何日か前に過ぎているのだが、その日はセルヴェール邸でも普段通り過ごした。弟と妹は特に嬉しそうで、お姉様とっても綺麗! とアンジェの手を取ってぐるぐると走り回る。普段は憎まれ口ばかりの兄アレクも今朝ばかりは素直にアンジェを褒めた。姉二人は王宮で合流する手筈になっている。父と母もニコニコと嬉しそうに笑っていたが妙にしんみりともしていて、アンジェが不思議に思って尋ねると、母レオナが笑いながら答えた。


「何だか、結婚式の朝みたいねって、お父様と話していたのよ」

「お母様……」


 アンジェは言葉に詰まる。感動に打ち震えたのではなく、身体を貫く罪悪感を悟られたくなかったからだった。昨夜眠れなかったのは、祝賀会への期待ではなく、結局リリアンに何一つ話せなかったことをずっと気に病んでいたからだ。試合の時間のこと、エリオットの婚約のこと。話さなければ、とリリアンの顔を見るたびに口を開きかけたものの、その度に胸が重く手足が痺れ、結局何一つ言うことができなかった。


(リリアンさん……)


 話してしまって、リリアンが翻意するのが怖かった。アンジェ様、ごめんなさい。私、リオのところに行きます。お菓子はパティシエの皆さんにお任せします……。キッパリと言って、アンジェの手が届きそうなところでくるりと踵を返し、ストロベリーブロンドが揺れる背中が小さくなっていくのを為す術なく見つめる自分がありありと想像できた。


「ほら、その瞳」


 母レオナがクスクスと笑う。


「まだまだ赤ちゃん(べべ)・アンジェだと思っていたけれど、いつの間にか恋する女の子になっていたのねえ」


 恋。

 アンジェの脳裏に浮かんだ人物は、きっと両親が思い浮かべた人とは違う。


「……そうかしら」

「そうですよ、ね、あなた」

「そうだな、若い頃の君によく似て来た」

「アカデミーで殿下とお会いする時間が増えたのが良いのかしらね。今が一番美しいのよ、アンジェリーク」

「殿下は本当に良くして下さる素晴らしい御方だ。今日はご好意に甘えて、存分に楽しんでおいで」

「ありがとうございます、お父様、お母様」


 両親は何も気が付かずに微笑み合い、アンジェもそれに追随した。父と母は両家の意向もありつつも恋愛を経て結婚したのだと聞かされている。だからなのか、アンジェとフェリクスが形だけでなく想いも育む関係性であることを何よりも喜んでいた。


(ごめんなさい、お父様、お母様……)


 朝食を食べ終え、出立の準備をしながら、アンジェは内心呟く。


(アンジェリークは、恋をしています……)

(けれど、お相手が、フェリクス様ではないの……)


 家族全員馬車で出立となると、父母アレク、アンジェと弟妹と二台に分かれて出発する。母はアンジェを両親側の馬車に乗せたかったようだが、弟妹が「お姉様と乗る!」と言って聞かずに両親が折れる形となった。十歳の妹ガブリエルと八歳の弟ヴィクトールは、揃いの水色の礼服を着て、お姉様と一緒! と王宮に着くまでずっとはしゃぎ回っていた。


 セルヴェール家の馬車が王宮の正門をくぐる。客人の到着を告げるトランペットが高らかに鳴り響く。窓から様子を窺っていると、きらびやかな正面玄関から、既に支度を整えたフェリクスがニコニコと出てくるのが見えた。初めに両親の馬車が開き、王子は親愛を持って挨拶し、両親とアレクが頭を下げる。続いてアンジェ達の馬車が開き、アンジェが止める間もなく妹と弟が飛び出して行ってしまった。


「こらっ二人共殿下の御前だぞ! 行儀が悪い!」

「王子殿下、おはようございます!」

「フェリクス殿下、おはよーございます!」


 慌てる父、飛び出してきた子供たちにじゃれつかれて笑っているフェリクス。


「ははは、ガブリエルにヴィクトール、おはよう、久しぶりだね。お姉様と同じ馬車に乗って来たのかい?」

「はいっ今日のお姉様、とってもお綺麗なの! それでねガブは水色のお洋服が」

「殿下、殿下、今度また剣の稽古をしてください!」

「こらチビ共離れろ! 殿下はお前らの出迎えに来たわけじゃねえんだ!」

「きゃーやめて兄様!」

「殿下と遊びたいー!」


 大騒ぎする妹弟をアレクが捕まえて小脇に抱え、両親がくどくどと説教しているのを見て、フェリクスはクスクスと笑いながら眩しそうに目を細めた。それから自分の身だしなみを見てどこも乱れていないのを確認すると、こほん、と小さく咳払いをして馬車を覗き込む。


「……アンジェリーク。ようこそお越しくださいました」


 出るに出られなくなっていたアンジェは、フェリクスにいつもより丁寧に呼びかけられ、思わず心臓がどくりと鳴る。立ち上がって馬車から顔を出すと、青みあるグレーのフロックコートを着こなしたフェリクスが、長い夜が明けた瞬間の光を見たかのように微笑む。


「ああ、アンジェ……綺麗だね。とても綺麗だ。肌がきらきらして、薔薇の香りもする。今日の君は格段に美しく輝いているよ……愛しさが胸の奥からとめどなく溢れてどうにかなってしまいそうだ。君の輝きに目を背けないでいられたら、今日一日、主役の君の隣に立つ栄光に預かれるのだろうか?」


 フェリクスが差し出した手に手を添えてアンジェは馬車を降りる。踏み台を降りるのに合わせて少しずつ手の位置を下げているのが分かる。アンジェが降り立ったのを惚れ惚れと見つめると、フェリクスはよし、と何か気合を入れた。


「セルヴェール公爵、並びに公爵夫人。義兄上(あにうえ)義妹殿(いもうとどの)義弟殿(おとうとどの)。今日は麗しいご令嬢、アンジェリーク嬢のご生誕を記念しての祝賀会をお許しいただき、このフェリクス、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございます」

「殿下、どうかお顔をお上げください。私どもの娘に格別な親愛をお寄せいただき、感動にこの胸が震えております。娘も喜んでいることでしょう。殿下を想えばこそ、肌や瞳もあのように輝くというものでして、いやはや我が娘ながら美しく賢く成長し、ヘリオスの御名を継承なされる殿下の生涯の伴侶にふさわしいのではないかと思う次第でありまして」

「まったくもって仰る通りです、今日のアンジェの美しさときたら」


 父アルベールとフェリクスはこうした美辞麗句のやりとりの相性が合うらしく、ありがとう、こちらこそ、いやいやこちらこそ、のやりとりが延々と続くかと思われた。だが母レオナが貼り付けたような微笑みのままぐいと父の袖を引くと、父アルベールははっと我に返る。


「殿下、どうやら娘や私の細君にも支度があるようです。祝賀会が始まってから、またゆっくりお話をお聞かせいただける栄誉を給われれば大変嬉しく存じます」

「ああ、そうですね、失礼いたしました。それではアンジェリーク嬢を今日一日お預かり申し上げます。ご家族の皆様は、この者が控室までご案内いたします」


 またやりとりが長くなりそうだったが、母レオナは笑顔のまま父アルベールをぐいと引っ張り、紹介された執事に目くばせした。執事は心得ていて一礼をしてから歩き出す。父、母、弟妹を小脇に抱えたままげんなりしている兄アレクが執事に続いて歩き出したのを見て、フェリクスはアンジェを改めて見つめる。


「さあ、行こうか、アンジェ。もうリリアンくんも来ているよ」

「はい、フェリクス様」


 フェリクスはアンジェの手を取ると、爪も綺麗だね、と微笑んでから、いつものようにエスコートして歩き出した。


「いよいよ今日という日が来たね、アンジェ。僕はとても楽しみだけれど、終わってしまうのが少し残念でもあるよ。祝賀会の準備をしている間はとても楽しかったんだ」

「わたくしもとても楽しみにしていましたわ。今日という日が終わらずに、永遠に続けばどんなにか素晴らしいことでしょう」

「そうだね、全くもってその通りだ」


 フェリクスの微笑みは、いつものように愛が溢れている。

 総石造りの壮麗な宮殿が近付いて来るのを見上げながら、アンジェは肌に触れるフェリクスの腕の温かさを感じる。


(……初めて、実感を持てたわ……)

(フェリクス様も、わたくしに恋をなさっているのね……)


 朝から放課後まで。帰宅してから翌日まで。少し離れているだけでも寂しさが募り、次に会えるのが待ち遠しくてたまらない。会うたびにその愛しさに驚いて、微笑まずにはいられない。一挙一動を見逃したくなくて、どんな心の機微にも気が付きたくて。相手の心の中に常に自分が住んでいるように、そしてそれが自分が一番で在り続けるように。リリアンに「愛が重い」と評されたフェリクスの行動は、改めて思い返してみると、いじらしいまでの一途な想いの表れだった。彼はずっとずっと、アンジェに恋をし続けているのだ。


(……フェリクス様は、ずっと……わたくしを慈しんでくださっていた……)

(わたくしもそれに応えてきたつもりでしたわ……)


「父上と母上もお菓子クラブにとても興味を持っていてね。リリアンくんのお菓子をとても楽しみにしているんだ。彼女、目を輝かせて準備しているよ」

「まあ、それはわたくしも嬉しいですわ。リリアンさんのご様子が目に浮かぶよう」


(けれど……リリアンさんに恋をしてしまってから……フェリクス様への想いが、分からなくなってしまった……)

(確かに、愛していたはずなのに……)


 だからこそ奪われるのを恐れ、一年間、努力と研鑽を重ねてきたというのに。


(優しくて、温かで……包み込まれるような、フェリクス様の愛し方)

(わたくしは、その愛にくるまれるのが心地よかった……)

(寒い朝に、毛布をとられるのを嫌がる子供のよう……)


 宮殿の正面玄関に近付くと、見上げるほど大きな扉が開かれ、きらびやかな玄関ホールが現れた。入口にほど近い辺りに、パティシエの制服を借りたらしいリリアンが、目をきらきらさせてアンジェとフェリクスを見ている。嬉しそうに、飛び上がるのを堪えきれずに小さくリズムを取っているその姿。


「ほら。お待ちかねだよ」

「アンジェ様、アンジェ様っ! おはようございますっ!」


 リリアンがぱたぱたと駆けてくる。アンジェの目の前で立ち止まると、胸に手を当てて頬を染めて、瞳をキラキラさせてうわあ、と歓声を上げる。


「アンジェ様、とってもお綺麗です……! なんかいい匂いもするし……! これであの素敵なドレスを着たら、どうなっちゃうんでしょう……!」

「リリアンくん、さすがアンジェへの審美眼は確かだね」


(……リリアンさん……)


 アンジェは愛しさと罪悪感が同時に襲ってきてただ口をつぐむ。今日もなんて可愛らしいの。どうしてそんなに無邪気にわたくしのことを見上げてくださるの。わたくし、貴女にお伝えしなければいけないことがあるのに……。


「……ありがとう、リリアンさん。リリアンさんも素敵なお召し物ですこと」

「えへへ、今日だけ特別に貸してくれました。自分のお菓子以外も、少しだけ手伝わせていただけることになって……それには、綺麗に消毒した制服を着ないといけないらしくて」

「まあ、そうなんですのね、素晴らしいわ」

「えへへ……もう、本当楽しくて! みなさん本当、すごい技術で! いっぱい勉強になります!」


 嬉しそうに、無邪気に笑うリリアンの笑顔は、なぜこんなにも胸をぎゅうぎゅうと締め付けるのか。

 アンジェが言えずにいることを伝えたら──この眩しい笑顔が、悲しみに翳ってしまうのだろうか。


「リリアンさん……」


 今出れば、彼の試合に、間に合うかもしれない。

 その彼が明日、さる令嬢と婚約してしまうのよ。


「何ですか、アンジェ様」


 けれど。けれど。

 貴女が彼の試合を見に行ったところで、何かが変わるだろうか? すでに両家で進めているという婚約の話を覆すだけのものを、貴女は持っているのだろうか?


 今日はわたくしの誕生日祝賀会で。

 貴女はわたくしの為にお菓子を用意してくれていて。

 それを、完璧な形で受け取りたいと思ってしまうのは、どれほどの罪になるのだろうか?


(伝えれば……きっと貴女は、行ってしまう……)


「……今日はわたくしのために早くから、本当にありがとうございます。楽しみにしておりますわ」

「はいっ、私、絶対アンジェ様に喜んでいただけると思いますっ!」


 リリアンが頷きながらガッツポーズをし、アンジェに寄り添うフェリクスがトリュフを見つけた子豚のような顔をしている。アンジェもただ、微笑んで頷くしかできなかった。





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