19-5 重なる想い
リリアン・スウィートがセルヴェール邸での勉強会を始めて、六日。
週明けの月曜日に試験結果が発表され、通常は休みとなる土曜日と日曜日が追試の日となる。全教科追試のリリアンはまる二日がかりで試験を受けた。追試対象の人数は数えるほどしかいないので、採点はその場で行われる。最後の科目が追試なのはリリアン一人だった。
「リリアン・スウィート」
夕日の差し込むクラスルームに、追試の試験官であるクラウス・アシュフォードが入室し、緊張した面持ちで座っていたリリアンに声をかけた。
「はいっ!」
思わず起立するリリアン。クラスルームの後ろには、心配で付き添いに来たアンジェとサリヴァンが固唾をのんで様子を見守っている。クラウスは脇に抱えていたバインダーから、リリアンの回答用紙を取り出し、そこに書かれていた点数を眺め、うん、と頷く。
「最後の科目、幾何学の点数──」
サリヴァンの追試対策でも一番苦労した科目だ。リリアンは紫の瞳でじっとクラウスを見つめ、ごくりと生唾を飲み込む。クラウスはリリアンを見て、後ろのアンジェとサリヴァンを見て、小さく深呼吸してから、にっこりと笑って見せた。
「おめでとう。三十五点。合格です」
「──本当ですか!!!!!」
リリアンは飛び上がって、クラウスが差し出した回答用紙を受け取った。これで八科目すべて追試は合格したことになる。
「やった、やったあ……合格! 合格です、アンジェ様、合格!!!」
「おめでとう、リリアンさん!!!!!」
涙目のリリアンが駆けてくるのを堪えきれず、アンジェも駆けだして二人は教室の真ん中でひしと抱き合った。
「アンジェ様、本当に、本当にありがとうございましたっ! 私、本当に、アンジェ様、アンジェ様がいなかったら……うわあああああアンジェ様ぁぁぁぁあああ」
「お礼はサリヴァン先生に仰いましょう、わたくしはお引き合わせしただけよ……何より、リリアンさんが努力なさったからこその結果でしてよ。本当におめでとう」
リリアンが大泣きしているのにつられて、アンジェもポロリポロリと涙がこぼれてしまう。その様子を見ていたサリヴァンも、ハンカチで目頭をそっと拭っている。三人の様子を微笑みながら眺めていたクラウスが、サリヴァンに近寄るとぺこりと頭を下げた。
「ご無沙汰しています、サリヴァン先生」
「ご機嫌よう、クラウスさん。お元気そうですね」
「はい、おかげさまで。先生もお元気そうで何よりです」
「もう年寄りですからね、身体の節々が痛みますよ」
クスクスと笑ったサリヴァンに、クラウスも苦笑いをする。
「まさか、スウィートの指導にサリヴァン先生が就いていらしたとは……僕は正味なところ、彼女は留年も覚悟したほうが良いのではと思っていました。素晴らしい成長を遂げていて、採点しながら驚きましたよ」
「彼女は素質は大いにありますよ。事情はお伝えした通りですから、貴方も目をかけておやりなさい。わたくしもアンジェリークさんと共に出来る限りのことはしてやるつもりです」
「先生に言われたのでは断れませんね。良さそうな本など探してみます」
物腰柔らかなクラウスを見て、サリヴァンは懐かしそうに目を細める。
「立派な教師になりましたね、クラウスさん」
「……はい、おかげさまで」
クラウスも微笑む。
「教え子の成長した姿を見るのが、老後の何よりの楽しみです。今後に期待していますよ」
「……はい、サリヴァン先生。先生もお身体を大切に」
「……これは最後の教えです。年寄りを、年寄りだからと年寄り扱いしないように」
「これは……心得ておきます、先生」
クラウスがぽりぽりと頭をかき、サリヴァンがクックッと笑ったあたりで、瞳を潤ませたリリアンがサリヴァンに駆け寄ってがばりと抱き着いた。
「サリヴァン先生! 本当に、本当にありがとうございました!」
「よく頑張りましたね、リリアンさん。私の教え子たちの中でも、指折りの努力をなさいましたよ」
「はい……はい!」
アンジェも二人の姿を見て目頭を押さえる。
(リリアンさんは、本当に頑張ったわ……)
(思いがけず、エリオット・アンダーソンの話も聞くことが出来たし……)
(お買い物は、残念だったけれど)
(これからもご一緒にサリヴァン先生から学べるのは、とても嬉しいわ……)
「ですがこの一週間はあくまでも追試に照準を絞った、付け焼刃の対策です。明日からは基礎学力を高めるために、たゆまず努力していきましょう」
「えっ……明日からですか?」
リリアンが思わず顔を上げて残念そうな声を出したので、一同あははと笑った。
休日のフェアウェルローズ・アカデミーには当然生徒の数は少ない。休日も活動してる部活がないわけではないが、夕方ともなれば大体が帰り支度をしている頃合いだ。アンジェ、リリアン、サリヴァンも帰り支度をして正門の馬車寄せに向けて歩いていると、道のわきのベンチに誰か人影が座っているのが見えた。黒地にフェアウェルローズ・アカデミーの校章を配したサッカーユニフォームの、青い髪の少年だ。少年は所在なげに膝の上で手を組んでいたが、一同が近寄って来たのを見ると、おもむろに立ち上がった。
「……あっ……」
リリアンが立ち止まる。
「おや。……彼が?」
サリヴァンが面白いものを見つけた、という声音でアンジェに囁く。
「……はい」
握り潰されそうな心臓を誤魔化して答えたアンジェの目線の先で、少年──エリオット・アンダーソンが、しかめ面のままぺこりと頭を下げた。
「……んちわっす」
「……ご機嫌よう、アンダーソンさん」
アンジェは何事もないかのように微笑む。隣を歩いていたリリアンは、口を真一文字に引き結んで、両手を握り締めて、真っ直ぐに彼を見返している。アンジェには分かる、少女が微かに震えているのが。紅潮した頬が、夕日に照らされて顔全体も赤く見えるせいで、何事もないかのように誤魔化されているだけなのが。
「……よお」
「……なに?」
名前すら呼び合わない幼馴染の会話は、白々しいまでにぶっきらぼうだ。
「追試……今日だったんだろ」
「……うん」
「……どうだった?」
「……何でリオが気にするの?」
もどかしそうな表情のエリオット。緊張を誤魔化そうとして俯くリリアン。サリヴァンはわくわくした顔をしつつ、アンジェの手を引いてさりげなく一歩後ろに下がる。引かれるままに退いたアンジェは、胸元を──その中のペンダントロケットをそっと握り締める。
(リリアンさん……)
(彼と……仲直りしたいのね……)
「何でって……」
エリオットは一瞬ムッとするが、小さく首を振り、ため息をつき、リリアンから視線を逸らしてから、ようやく小さな声で呟いた。
「心配しちゃ、悪いかよ……」
俯いていたリリアンがパッと顔を上げ、必死にエリオットの顔を見る。口を開いて、何か言いかけたが上手く言葉にならず、蚊の鳴くような声で答える。
「……悪くない」
「それで……結果は?」
「全部、合格した」
「そっか……良かった。俺、お前がセルヴェール様に勉強見てもらえないまま、そのまま留年になっちまったらって……」
「アンジェ様、お優しい方だよ。家庭教師のサリヴァン先生を紹介して下さったの」
「そっか……」
ぎこちなく笑い合う二人。アンジェには向けられていない少女の微笑みは美しくて尊くて、こんなにも胸を締め付ける。この美しいものをずっと見ていたい、けれどあれはわたくしのものではない……こんなに愛しくも苦しくなるものが、この世に他にあるのだろうか? 耐えて、耐えるのよアンジェリーク、隣にはサリヴァン先生もいらっしゃる……。
「ごめん、リコ。俺ちょっとからかいすぎた」
「いいよ、リオの意地悪は慣れっこだから。私も大嫌いとか言ってごめん」
「ああ、いいよ、そんなの」
「おあいこだね」
「はは、そうだな。それでさ、俺、さっき、次の試合のレギュラーに選ばれたんだ」
「えっほんと!? リオすごい!」
「だろ。どっかの誰かとは出来が違うからな」
「あっまたそうやって意地悪する」
二人の会話は、柔らかさを取り戻して自然体になっていく。サリヴァンは隣でニコニコしているばかりだ。
「うそうそ。ごめん。それでさ、もしリコさえよかったら……見に来ねえ? 試合」
「うん、行く、絶対行く! リオの試合見たい!」
(リリアンさん……)
少女の、嬉しそうに笑いながら、飛び跳ねる様。
恋をするだけで、人はこんなにも美しくなれるものなのか。
(それとも……わたくしが、リリアンさんに恋をしているから……)
こんなにも、美しく見えるのだろうか?
「私も、私もね! 今度、アンジェ様のお誕生日パーティーに、お菓子を出すことになったの! お城で、王子様が開くパーティーなんだよ! すごいでしょ!」
「お前、まだお城とか王子様とか言ってんのか、芋くせえガキのまんまだなあ」
「だって本当にお城で王子様なんだもん! アンジェ様がお姫様! 私の憧れなの!」
「へいへい」
「リオも、リオもお願いしたら来られるかもしれないよ! 一緒に行こう?」
「いいのかなあ、俺なんか」
「大丈夫! 行こう!」
「へいへい」
呆れたような声で、けれど優しい眼差しでリリアンを見るエリオット。あの眼差しには見覚えがある、フェリクスがよくあの表情でアンジェを見つめては頬に触れ、髪に触れて来る。愛しくてたまらないという婚約者の想いが、視線から心の奥底に注がれるような、あの眼差し。少年も、同じ表情で、他ならないわたくしのリリアンさんを見ている……。
(お二人の仲は、順調なのね……)
(恋人どうしになるのは、時間の問題なのかしら……)
(わたくしは……スカラバディとして、お友達として)
(リリアンさんの恋を、応援する……)
(それでいい……そうしなければ……)
自分は婚約者のいる身で、しかも相手は次期国王で。
見つめる先にいるのは、自分ではない少年に恋をしている少女で。
誰にも、この想いを悟られてはいけない。
だからこうして──想いを、噛み締めて、胸の底に沈めておかなくては。
「それで、いつ? セルヴェール様の祝賀会」
「ええとね、再来週の土曜日!」
夕日に照らされたリリアンの顔は、幸せに満ち満ちている。この笑顔を見ていると、愛しくて苦しい。ここから身動きが取れない自分は、ここから見つめているしかできない……。
「えっ……」
エリオットの笑顔が強張る。
「……俺の試合も、その日だ」
「えっ」
夕焼けに照らされた幼馴染二人。
嬉しそうに微笑み合っていた笑顔が中途半端に消えぬまま、言葉を失って、ただ呆然と相手を見る。リリアンが顔を歪める。苦しそうに、僅かに首を振って。誰にも聞こえないほど小さな声で何かを呟く。あれは確かに、嘘でしょ、と言った、アンジェにはそう思えた。
「……そっ……か……」
エリオットが笑顔を取り繕うが、視線はあさってをさ迷っている。
「仕方ない、よな……」
「うん……」
リリアンが俯く。睫毛の先がきらりと輝いて、小さな雫が今にもこぼれ落ちそうだ。
「お互い、……がん、ばろうぜ」
「……うん……」
会話らしい会話はそれきりだった。エリオットはアンジェとサリヴァンに気の抜けた挨拶をすると、ぎこちなく部活棟の方へ歩いて行ってしまった。リリアンはその間ぴくりとも動かず──動くことが出来ず、小さく震えていた。
アンジェは、リリアンになんと声をかけていいか分からなかった──本当は分かっていたのだが、分からないのだ、と自分に言い聞かせていた。
(リリアンさん……)
(アンダーソンさんの試合、どんなにか行きたいことでしょう……)
スカラバディとして。友達として。
悲しむ彼女に寄り添い、励ましてやりたい筈なのに。
(仕方ないということは……わたくしの、祝賀会に、いらして下さるということ……)
(わたくしの祝賀会に……)
(彼ではなく、わたくしの……)
指先が震える理由は、自分こそが選ばれた喜びなのだと。
アンジェはどうしても認められず、俯くリリアンを見つめるしか出来なかった。




