19-4 重なる想い
サリヴァンが試験問題と回答を一つづつ確認したところ、問題文が読めない、誤読して誤答が四割、問題文がは読めたが綴りを間違えて誤答が二割、残り三割は通常の理解不足、一割前後が正答だった。追試は同じ試験範囲で、最低合格ラインは三割以上。試験日は週末だが決して不可能ではない、とサリヴァンは熱く拳を握り締めた。
「貴女はもう私の生徒ですね。リリアンさんとお呼びしますから、しっかり励むように」
「はいっ!」
文系の科目は、サリヴァンが口頭で質問すれば正答は相当上がる。逆に理系科目、特に幾何学や代数学は四則演算も危ういところがあり苦戦していた。
「数学二科目は、後半の証明問題はすっぱりと諦めます。簡単な計算問題を確実に取りましょう。それで三割を狙えるはずです」
サリヴァンが練習問題を出し、リリアンがそれを解く。紙は普及し始めているとはいえまだまだ高価なため、小さな黒板にチョークで書いては消す。問題文は全て音読させ、重要単語を黒板に何度も反復して書く。リリアンは真剣な表情だが、アンジェには少女がどこか楽しんで取り組んでいるようにも見えた。
「貴女はもともとの素質は大いにあります。読み書きさえしっかりできるようになれば、アンジェリークさんのように全教科満点も夢ではありませんよ」
サリヴァンが追試まではつきっきりで面倒を見ると申し出てくれたので、リリアンはそれから毎日セルヴェール邸に通った。応接間に通されたのは初日だけで、二日目以降はアンジェの自室での勉強会となった。リリアンはアンジェの部屋が寝室、書斎、リビングに分かれていることに驚きはしゃいでいたが、サリヴァンが咳払いすると、ぴゃっと飛び上がって机に向かった。
「こうやって、書いては消し、書いては消し、とするものなんですね」
アンジェの机で科学の単語を黒板に書き写しながら、リリアンがしみじみと呟く。
「ええ、この画期的な勉強法はアンジェリークさんが考案したのですよ」
サリヴァンはニコニコしながらアンジェと一緒にお茶を飲んでいる。一年前──アンジェが前世の夢を見た後、フェリクスに相応しい淑女となるべく、勉強もテコ入れしたいとサリヴァンに相談した。この世界での知識人はたくさんの本を丸暗記することが美徳とされ、勉強といえば当然本を読み込むことだ。それは祥子の知識に照らし合わせると、本や紙がとても貴重な時代そのままの勉強法のように思えた。紙は昔に比べたら手に入りやすくなったものの、まだまだ高級品の部類で、安価なノートでも庶民一人の一日分の食費よりも高い。フェアウェルローズの学生たちも一冊のノートを全ての教科に割り当てて大切に使っており、アンジェとリリアンの交換日記は相当高級な品物だった。
「考案だなんて、大袈裟ですわ、サリヴァン先生」
祥子は当然、教科書、予備校、参考書、単語帳、様々な本を使い分け、英単語をチラシの裏に書いて練習するなど、いわば紙をふんだんに使い捨てながら勉強していた。そのやり方を見てしまったからには、アンジェも同じように効率よく勉強したかった。問題集になっていなくてもその都度似たような問題を出してもらえばいいし、反復書き取りなどは黒板などに書けばよい。アンジェはサリヴァンに「本の丸暗記は非効率だ、よりたくさんの知識を得るために、重要単語を抜粋したり、練習問題をたくさん解いたりしたい」と訴え、サリヴァンは公爵令嬢の先進的すぎる考え方に感銘を受けた。アンジェは従来の丸暗記式の試験にも対応しつつ、サリヴァンと共に用語集や練習問題集を編纂し続けていたのだ。
「大変に効果が高い学習法だと、アンジェリークさんの成績が証明してくれています。これをルネ式学習法として普及させ、我が国の教育に革命をもたらすことが、私の生涯最後の仕事となるでしょう」
ルネ学習法普及に関する権利は、アンジェは全てサリヴァンに託している。サリヴァンは事業のタネとも言えるアイディアを譲り受けたこと、それらをあっさりと手離したアンジェの謙虚さにいたく感動し、いつかアンジェの役に立ちたいと常々言っていたのだ。だからこそ今回のリリアンの指導もセルヴェール家との契約外ではあるが、サリヴァンは無償で快く引き受けてくれた。
「アンジェ様、全教科満点どころか、勉強のやり方まで考えてたなんて……すごいです。すごすぎます。頭の良さを少し分けて欲しいです」
「うふふ、ではどうぞ、お口をあけて」
アンジェは笑いながら小菓子を一つ手に取って、くるくるとその上で指を回してからリリアンの口にポンと入れてやった。
「んんっ、このショコラボンボン美味しいです〜頭が良くなります〜」
頬に手を当てながら足をジタバタさせたリリアンに、アンジェとサリヴァンも声を出して笑った。
* * * * *
「最初は、リリアンこ、って呼ばれてたんです」
休憩のお茶の時に、リリアンはぽつりぽつりとシルバーヴェイルでの暮らしやエリオットのことを話した。
「それがだんだん、リアんコ、リアコ、ってなって……最終的にリコになりました」
「そうでしたのね、可愛らしい愛称ですわね」
「えー、変じゃないですか? あんまり愛称で呼ぶ人いないし、せっかくならリリィとか可愛いのがいいです」
褒められて謙遜するが、リリアンの頬は赤く染まっている。アンジェは胸が軋むのを感じたが、平静を装って微笑む。どうか魔法が暴発しませんように。
「シルバーヴェイルに、リオの家の別邸があって……リオの家は、子供の頃はシルバーヴェイルでのびのび暮らす方針らしくて、リオとリオの兄弟がいつもいました。それで、仲良くなって……遊んでました」
「そう……では、リリアンさんのご年齢のことも、彼はご存知なのね?」
「はい、だからフェアウェルローズで会った時はすごくびっくりしてました。だから事情を話して……それからは何かと心配してくれます。意地悪な時もあるけど」
先日の掲示板でのやり取りでも思い出したのだろうか、リリアンは剣呑な表情になり、それからあっと声を上げてがっくりと肩を落とす。
「そうだ、私……リオと喧嘩してたんだった……」
「……あれは喧嘩と言いますの……?」
「えっ、アンジェ様、見てたんですか」
「え、ええ、遠くからね」
「ええー……ちょっと恥ずかしいです……」
「往来の真ん中でしたわよ」
「そうなんですけどぉー……」
お茶を一口飲んだリリアンの横顔が、ふと大人びたように見える。
「せっかく、勉強教えるって言ってくれたのに……」
胸が、息が苦しい。
けれど目を離すことができない。
「大嫌いって言っちゃいました……」
「そう……」
「どうしよう、アンジェ様……」
「…………」
アンジェは息が詰まって何も言えなくなってしまったが、二人のやりとりを眺めていたサリヴァンがコロコロと笑う。
「リリアンさんは、彼のことをお慕いしていらっしゃるのね」
「えっ…………は、はい」
驚いて──しかし否定はせずに、小さく頷くリリアン。みるみる顔が赤くなっていくのを見て、サリヴァンはクスクスと笑う。
「あらあら、可愛らしいこと。意地を張ってしまわれたのね」
「だ、だって、リオがバカバカ言うから……!」
「ホホホ、殿方の軽口は愛情の裏返しですよ」
「えっ……えっ!? 愛情!?」
「真に受けて怒るとは、やはりまだ十三歳ですねえ」
サリヴァンがホホホと笑いながらお茶を飲む。アンジェもなんとか微笑みながら、二人のやり取りをじっと聞いている。
リリアンは、エリオットのことを慕って──恋をしている。
(先生がいてくださって、良かったわ……)
(わたくしでは、とても、聞けなかった……)
「けれど今回ばかりは喧嘩なさって正解ですよ。そうでなければ、アンジェリークさんが私と貴女を引き合わせてくださる幸運にも恵まれなかったことでしょう」
「そ、そ、そうですよね! リオってば偉そうなこと言ってたけど、アンジェ様の方が何十倍もすごいですもんねっ!」
「彼も貴女のことを悪しからず思っているなら、きっと喧嘩したことを気にしていますよ。まずは追試を乗り切って合格点を取って、それを理由に話しかけてみては?」
「す、すごい、先生、それすごいです! 仲直りできそう!」
「ホホホ、いくつになっても恋の話は気分が盛り上がりますこと。彼とはもう想いが通じ合っておりますの?」
「あの……まだ……たぶん私の、片想いで……」
「あらあらまあまあ、口説き甲斐のありますねえ。彼はどんな女性が好みなのかは把握していて?」
「…………」
ニコニコと浮かれていたリリアンが急に押し黙ると、ぎらりと目を光らせ、アンジェを──アンジェの制服のブラウスを押し上げる夢の島をじっ……と見た。
「……大きな人、です」
「まあ、それは背の高い人ということ?」
エリオットの身長を思い返しながらアンジェが尋ねると、リリアンはくるみを盗まれたリスの如くすさまじく嫌そうな顔をしてぶんぶんと首を振るが、何も答えない。サリヴァンは首を傾げるアンジェ、皺を寄せて酷い顔をしているリリアンを見比べてフフッと笑う。
「リリアンさん、それは……アンジェリークさんのような?」
ちらりとアンジェを──その溌溂とした若さの顕現に視線を遣ったサリヴァンを見て、リリアンは皺顔のままこくこくと頷く。
「えっ、先生、わたくしの何が……」
「ホホホ、お会いしたことはないけれど彼もお若いこと。いいことリリアンさん、次に彼が同じようなことを言うようでしたら、こう言っておやりなさい」
サリヴァンはわざわざ身体をリリアンに寄せて、耳元に手を当ててひそひそと何事か囁いた。リリアンの皺顔が見たこともないほど真っ赤に染まり、あわわわわと何かとてもたじろいで両手をわきわきと握ったり開いたりする。
「えっ、えっ、本当ですか、サリヴァン先生!」
「本当ですとも。……効果抜群ですよ、殿方にも貴女にも。ご自分でも試してご覧なさい」
「はいっ早速今晩からやってみますっ!!!」
「あの、一体、何のお話ですの……?」
怪訝なアンジェの問いには二人ともわざとらしく無視して答えない。リリアンは瞳をぎらつかせて両手で虚空をもみもみしていたが、急にハッと息を呑んで、ブルブル震えながらサリヴァンを見る。
「先生……もしかして……アンジェ様も……で……殿下が……?」
「……十分にあり得ることですわね」
「きゃーっきゃーっ!!! きゃーっ!!!!!」
両手をわきわきさせながらじたばたと慌てふためくリリアン、我が意を得たりと満足気に微笑んでいるサリヴァン。アンジェは訳が分からず──分かりたくもなくて自分の肩を両手で抱き、げんなりとため息をついたのだった。




