18-4 茹で汁は捨てるなよ、それにモチゴメを浸すからな
クラスルームでルナに理由を尋ねてみたが、回答の代わりに昼飯はテイクアウトで買っておけと返された。カフェテリアではないところで二人で食べるぞと言うが、場所も教える気がないようだ。クラスメイトやサロンメンバーがアンジェの顔を見て大層心配したが、お菓子クラブ可決で感極まって、という言い訳は実に効果的に真実を隠してくれた。
カフェテリアで二人連れ立って昼食を買う。温かいものが良いというので、アンジェはキッシュとポットパイを選んだ。周囲を見回してもリリアンの姿はない。その代わり遠くの方にエリオット・アンダーソンが級友と談笑しているのを見つけてしまい、アンジェは苦々しく顔を逸らした。
「……よし、誰もいないな」
ルナに連れられて行ったのは、部活棟内の剣術部の部室だった。室内競技場からほど近く、つまり本棟やカフェテリアからはかなり離れているため、人の気配はほとんどない。ルナは我が物顔で魔法ランプを点灯すると、アンジェを奥へと招き入れる。
「……勝手に入っていいんですの?」
「大丈夫だ」
ルナは鼻歌を歌いながら、兄から借りたという部室の鍵を空中に投げて弄んでいる。部室内は剣やら防具やらが壁面の壁にずらりと並んでおり、何か籠った──汗やら何やら、動物めいた匂いがする。時々兄アレクがこの匂いをさせて帰ってきて母に怒られ、ブツブツ言いながら夕食前に湯浴みをしていたのをアンジェはぼんやりと思い出した。フェリクスは剣術部にも時折顔を出すと言っていたが、この道具の中に彼のものも並んでいるのだろうか? 籠手一つ、こうして見るだけでもとても重そうだ……一つ一つをまじまじ眺めながら奥の方に行くと、簡素な壁で仕切られた小部屋があり、その中に面談室と同じ椅子とテーブルが備え付けられていた。ルナが扉を開けてアンジェを招き入れる。扉を閉めると、独特の匂いが遮断され、アンジェは思わず深々と息を吸った。
「はは、初めて入るとクサいだろう」
「ええ、驚きましたわ」
「運動系の部室なんて大体こんなもんだ」
ルナは笑いながらアンジェに椅子を勧め、自分はさっさと腰掛けた。窓はあるが日差しは入ってこない。室内はひんやりとしていて、ずっといたら手足が冷えるだろう。温かい物を買えと言ったのはこういう事かと思いながら、アンジェも腰掛けた。
「ルナは、良くこちらにはいらっしゃるの?」
「ああ、時々顔を出してるよ」
「そうでしたのね、存じ上げませんでしたわ。フェリクス様もご一緒に練習なさったりするの?」
自分の昼食を広げながら、ルナはクックッと笑う。
「そうだな。一緒にやることもある」
「素敵。一度でいいから見てみたくてよ、フェリクス様はどうしても駄目と仰るの」
「まあ、今度殿下が来ない時にでも見に来たらいい。ルナ様の勇姿に惚れること間違いなしだな」
「もう……結局フェリクス様が練習なさるところはお目もじ叶わないのね」
「主君の命に逆らうわけにはいかんのだよ」
「貴女、全然主君らしく敬っていらっしゃらないじゃない」
「そうか」
ルナはしばらく肩を震わせて笑い、眼鏡をはずして目尻を拭った。アンジェはその間に自分の昼食を広げる。キッシュもポットパイもまだほんのりと温かく、添付の木のフォークでそっと切り分けて食べた。ルナは眼鏡をかけ直すとホットサンドをがぶりと食べ、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、ふと思い出したように呟く。
「それで、……どうした、アンジェリーク」
「どう……とは、どういう意味ですの」
「さすがに分かるぞ。相当泣いただろう」
「……ええ……」
アンジェは視線を落として俯く。
ルナは軽く鼻を鳴らし、アンジェを、まだ腫れが残っているその瞼をじっと見る。
「無理に話せとは言わないが……」
「…………」
アンジェは食べかけのキッシュを包み紙の上に戻し、その手をきつく握りしめる。大切な秘密を、とめどない感情を、一人こっそり隠しておきたい。そんな気持ちと、何もかも曝け出して叫びたい衝動が喉の奥辺りでせめぎ合う。ルナは──この親友は、わたくしの浅ましい願望を聞いて、くだらないと鼻で笑うだろうか、面白いと茶化すだろうか。それとも。
(……祥子、お願い……)
こんな時のために、彼女と親しくなろうと決めたのではなかったか。
定められた悪役令嬢に堕ちてしまわないために、手を差し伸べてくれる存在を欲していたのではなかったか。
(わたくしに……勇気をちょうだい、祥子……)
アンジェは顔を上げてルナを見る。眼鏡の奥のグレーの瞳は、珍しく笑っていない。アンジェの表情をまじまじと観察しながら、真剣に、真摯に、唇が開かれるのをただ待っている。アンジェは言葉を発そうと息を吸ったが、喋ろうとしてもうまく息が吐けなかった。口を動かしても音が出ない。もう少し。もう少しなのよ。
「……わ……」
ルナは何も言わない。
「笑わずに……聞いて、下さる……?」
「私はいつだって真剣だぞ」
「よくフェリクス様のことを笑ってるじゃない……」
「殿下とアンタを一緒にするな」
「何ですの、それ」
「あの朴念仁をからかうのと、親友の相談を一緒にするなと言ってるんだ」
アンジェは虚を突かれ目を見開き──それから、小さく吹き出した。
「……不敬ですわよ、ルナ」
「どうだか」
ルナはニヤリと笑うだけだ。
「……ありがとう、ルナ」
「礼なら相談が終わってから言うんだな」
「ええ、そう……そうね」
「早く話せ、真面目ぶるのも疲れるんだ」
「もう……」
アンジェはひとしきり笑い、持ってきたお茶を飲んで、それからようやっと語り出した。リリアン・スウィートという少女のこと。ルナにスカラバディの交代を頼んでから。お茶をしたり、鼻血が出て慌てたり……初めはフェリクスとの仲を案じていたが、それを忘れつつあること。階段から転落して、守らなければと咄嗟に飛び出したこと。不可解な態度の父親。交換日記を始めたこと、サロンで食べたお菓子の美味しさに驚いたこと。楽しいお茶の時間。お菓子クラブの設立申請を一緒に作り上げたこと……そして昨日、エリオットと引き合わされてしまったこと。話せないこともいくつかあったが、言葉を選びつつ話すアンジェを、ルナはただ頷きながらじっと見つめていた。
「とても……仲良くなれたと、思っていましたの」
話していくうちに、アンジェの頬はほんのりと上気している。
「だから驚いたのだと、自分でも、思いますのよ……だけど、何だかとても悲しくて……いいえ、妬ましいと言えばいいのかしら……」
「…………」
ルナは何も言わず、ホットサンドの最後の一口をぱくりと口に放り込む。無言の目線に今更気が付いたアンジェは、少し怯んで視線を窓の外に向ける。
「こんなの……おかしいですわね……リリアンさんは女の子で、わたくしもそうで」
細長い雲がいくつも浮かんでいる空が、じわりと滲む。
「……仲のいいお友達の筈なのに……リリアンさんに、想う方がいらして……それを、教えて……いただけて、いなかったくらいで……」
青い瞳のかけらが、ぽろりと頬を伝って落ちる。
「わたくし……リリアンさんが、わたくしを一番信頼してくださっているのだと、思っていて……」
アンジェはゆっくりと首を振り、指先で目尻を押さえた。
「……ごめんなさい」
「何が悪いんだ、謝ることじゃない」
ルナは足を組むとその上で頬杖をついた。アンジェがポケットからうさぎ刺繍のハンカチを取り出して何度も目尻を拭うのを見ながら、悠然と微笑む。
「赤ちゃん・アンジェ。前にも言ったな」
「…………」
アンジェが洟を啜りながらルナを見る。
「それは、恋だ」
「……そうなのかしら……」
「じゃあ何だってんだ」
「…………」
アンジェは言葉に詰まる。ルナはテーブルに身を乗り出して続ける。
「あの子リスといると浮かれた気分になる。一緒にいると幸せで、離れたらすぐに会いたくなる。アンダーソンだかウンダーベンだか知らないが、他の男と話してたら気になって気になって夜に咽び泣く……それが恋でなかったら、何なんだ」
「…………」
「私はアンジェのことは親友だと思っているが、それだけだ。殿下とどこで何をしてようと構わないし、私には言わないことがあっても大して気にならない。アンタの中での自分の順位など考えたこともない。その順位を考えすぎて、夜に嫉妬に狂ったりなんかしない」
「…………」
「だいたいそいつに子リスが惚れてるのかどうかだって本人に聞いてないんだろう。思い込みで泣き明かせるほどの想いに、恋以外の名前があるってんなら言ってみろ」
畳みかけるルナに、アンジェは返す言葉がなかった。口をつぐんでルナをじっと見返し──言葉が沁み込んでいくにつれ実感を伴い、顔が火照ってくる。
「け……けれど……女の子どうしですわ」
「そうだな」
「それにわたくしには、フェリクス様がいて……」
「それがどうした」
ルナは更に身を乗り出す。
「惚れた腫れたに、性別がなんだ? 婚約がなんだ? そういう釣り書きを確認して精査せんことには、心は身動きも取れないのか」
「……それは……」
いつになく強い口調のルナに、アンジェは何も言えなくなる。ルナの言う通りなのかもしれない。けれどフェリクス様は王子で、わたくしはその婚約者で。リリアンさんが大切で気になっているのは事実だけれど、それに名前がついているなんて、恋と呼ばれるものだなんて、夢にも思わなかった。ルナはアンジェの小さな視線の揺らぎすら見逃すまいと正面から凝視していたが、不意にニヤリと笑い、椅子の背もたれに悠々と寄りかかった。
「こうしよう、赤ちゃん。アンタと殿下が婚約しているのは紛れもない事実だな?」
「……ええ、そうですわ」
怪訝な顔で頷くアンジェ。ルナも満足そうに頷いて続ける。
「私が見るに、アンタらは形だけの婚約じゃない。それぞれ恋人として相手を想い、それなりに接してる。間違いないな?」
「……そうね」
「恋人として、どこまで何を乳繰り合ってるのかは知らないが、それを」
「……ちょっと、ルナ!」
アンジェは反射的にテーブルに手をついて立ち上がってしまった。先ほどまでとは比べ物にならないほど顔が赤い。
「何だ?」
「ち、ち、ち、ちく……そんなこと仰らないで!」
「ほーう」
ニヤニヤと見上げるルナを怒鳴りつけてやりたかったが、言葉は舌の上でもつれてどうしても言えなかった。ルナは少しばかり目を見開いて驚いたが、やがてすぐにニヤリと笑う。
「なんだ、小娘みたいに。まさか毎朝あれだけいちゃついておいて、お手々つないだことしかないとか言い出すんじゃないだろうな。それは流石に朴念仁も哀れだぞ」
「不敬よ、殿下とお呼びしなさい!」
「我が主君は朴念仁にして真に哀れであらせられる」
「ルナ!」
「まあ落ち着け、誰も聞いちゃいない。赤ちゃんと殿下が何をしてようと構わんさ。その、殿下との睦言を思い出せ。ほんの少し前まで、失うのが怖いと泣いていた相手との睦言を」
「…………」
鎮まるアンジェに、ルナはニヤリと笑って囁いた。
「想像して見ろ。……その相手が、リリアンだったらと」
「…………」
アンジェの腕に、体に、唇に、いつかのフェリクスの感触が蘇る。
【愛しているよ、僕のアンジェリーク】
甘い囁き、包まれるような抱擁、蕩けるようなキス。愛しいフェリクス様。何物にも代えられない、柔らかで幸せな彼の愛。それが、もし、リリアンだったら?
【私、アンジェ様が大好きです】
そう言って微笑んで、アンジェの髪に手を差し入れて来た、愛しい少女。触れると柔らかな髪、小さくて少し冷たい手、ふわふわの頬、寄り添うと華奢な身体。それらに触れて。あの可愛らしい声を出すために作られたような唇と、わたくしの唇を……かさ、ねる?
「そ…………」
足下から熱が這い上がってきて、頭のてっぺんまで茹で上がってしまいそうだ。身体が熱い。胸の奥がじりじりする。腹の底が疼く。どこもかしこも熱くて、ぐらぐらと煮え立つ湯の中に放り込まれたよう──
「そんなこと……いけないわ……」
「誰が、いつ、禁じたんだ?」
「そんな……ことが……」
その瞬間、アンジェの身体の中でばちんと何かが弾け、手付かずだったポットパイがぼんと爆発した!
「きゃっ、何!?」
フタ代わりのパイ生地が破け、中のクラムチャウダーがテーブル中に飛び散る。ポットは倒れて中身をでろりと流し出しつつその場を円形に転がった。呆然とするアンジェ、咄嗟に立ち上がっていたルナは更に呆然とアンジェとポットを見比べたが、やがてすぐに大口を開けて笑い出した。
「はははは、おいおい、爆発させるのは頭の中だけにしてくれ! 今からそんなんじゃそのうち手に負えなくなるぞ!」
「えっ、何なんですの!? わたくしのせい!?」
「はっははははは、自覚がないのか赤ちゃん、魔法だよ、魔法、自分でやったんだぞ、ははははは」
「えっ、魔法!? わたくしが!?」
クラムチャウダーは無残にもアンジェの制服にも飛び散っていた。慌てて昼食を買った時にもらったお手拭きで拭くが、全然足りずに手がべちゃべちゃになる。ルナが笑い崩れそうになりながら部屋を出て行って、どこからかタオルを持って戻って来た。テーブルを拭き、制服を拭き、床に飛び散った飛沫も一つ一つ拭いていく。
「ルナ、ごめんなさい、わたくしこんな、魔法だなんて」
「気にするな、いいものを見させてもらった。ただし」
二人して床に這いつくばってあちこち拭いて回りながら、ルナはアンジェの顔を覗き込む。
「さっきの顔、気軽に人に見せるなよ」
「さっきのって……どういう……」
「あの子リスと、何してるところを想像したんだか知らないけどな」
ルナはクックッと笑いながら床を拭く。
「恋する乙女の顔は、容易く人に見せるもんじゃない」
「…………」
「言っただろう、恋だと」
「……恋……」
「愛すべき私の赤ちゃん・アンジェの恋だ。おじい様にセキハンのレシピを教えてもらって、お菓子クラブで作ろうじゃないか」
「わたくしが……リリアンさんに……」
アンジェの顔が、またしても朱に染まって行く。瞳が潤み、唇は悩ましげで、頬は朝焼けのようにばら色に染まり──テーブルの上で、ばん、と空になったポットが爆ぜ、破片がばらばらと飛び散った。
「ああっごめんなさい!」
「やめてくれ、頼む、これ以上笑わせるな赤ちゃん・アンジェ!」
うずくまって腹を抱えるルナの笑いは、当面の間どうにもこうにも収まりそうになかった。




