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18-3 茹で汁は捨てるなよ、それにモチゴメを浸すからな

 翌日になっても瞼の腫れが引かず、朝食の際に兄アレクにからかわれ、父と母からはずいぶん心配された。年頃の娘が泣くほどの事件と言えば恋、アンジェの恋人は言わずと知れたフェリクス王太子だ。二人の仲に何かあったか、すわ婚約解消の危機かと慌てる二人に、大丈夫だ、応援しているスカラバディの部活設立が可決されて感極まったのだと、アンジェは苦しい言い訳をした。


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の書きつけを、侍女と言えども誰かに見せるわけにはいかないので、昨夜のうちに自分で片付けた。しわくちゃの紙を丁寧に広げて重ねるが、元のように平らには戻らず、かさが随分と増えた。アイロンでもあてれば多少は平らになるのかもしれないが、アンジェは紙束を箱に押し込んで鍵をかけ、元の場所に戻した。


 壊れたペンダントは、侍女が彫金師のところに急ぎ修理に出してくれるという。今日アカデミーから帰ってくる頃にはもう直っているだろうとのことなので、アンジェは侍女にペンダントを預けた。


 父と兄は王宮に参内、勤務する。母は弟と妹を連れて、アンジェの祝賀会で二人に着せる服を仕立て、その他入用のものを買いに行くらしい。はしゃぐ二人に腕を振り回されつつ、アンジェもいつもの馬車に乗ってフェアウェルローズ・アカデミーを目指した。


 クッション越しに伝わる振動が、泣きすぎたせいでぼんやりと痛む頭に響く。


「…………」


 いつもの窓の外の景色を見ながら、アンジェはうなだれる。街路樹は徐々に色づき始めて秋を感じさせるようになってきた。交換日記はあれ以上はどうしても書けず、おざなりに自分の名前を書き足して鍵をかけた。今まではページいっぱい、時には数ページにわたってメッセージを書いて渡していたので、あの一行だけのメッセージを見たリリアンは驚愕するだろう。それも、お菓子クラブ設立可決という大きな偉業を達成したその日なのだ。常のアンジェなら、尽きない賛辞、お菓子クラブの活動の楽しい想像図、自分がどれほど心配で安堵したのか、それこそ数ページにわたって書いていたかもしれない。


 彼女はこれを見て、傷つくだろうか、訝しむだろうか。

 あるいは続きをもう少し書き足せるまで、渡すのをやめようか。


 さんざん悩んだが、結局は渡すことにした。感動しただとか胸がいっぱいになっただとか、言い訳なら何とでもなる。素直なあの子はすんなりと信じるだろう。涙の跡に気が付いたら、何かあったかと心配してくれるかもしれない。あの少年ではなく──他でもないこのわたくしのことを、案じて……。


(……なんて浅ましい……)


 アンジェは俯いて小さく首を振る。馬車の轍の音が耳にうるさい。浅ましくても、みじめでも構わなかった。あの子の心の中に自分が住んでいる瞬間があるのだと思えることが、小さな希望のように思えた。涙の跡に気付かれて「カッコいいアンジェ様」のイメージが崩れてしまっても構わないとすら思えた。何より、交換日記を渡すことで、アンジェにはあってあの少年にはないものがあるのだと、この手で渡して、実感したかった。


 いつもと同じ道なのに、いつもよりも遠く感じる。馬はいつもより歩くのが遅いのではなくて? 御者が怠けてぼんやりしているのかしら……。アカデミーに着くまでに瞼の腫れが引いてなくなればいいのに。着くまでに、ノートの染みが消えてなくなればいいのに。……やっぱり、もっとゆっくり行って。リリアンさんに会いたいけれど、そんなすぐには会えない。心の準備をしたい。顔を見ても、声を聞いても、泣き出さないでいられるような強い心の準備が。昨日のあの横顔は、とても綺麗だった。恋をしているあの子は、とても美しかった……。


(……お会いしたい)

(リリアンさん……)


 思考が巡るうちに、馬車はアカデミー正門につき馬車寄せに停車した。いつものように御者が踏み台を用意して扉を開ける。


「おはよう、アンジェ、良い朝だね。……おや」


 待ち構えていたフェリクスが顔を覗かせ、座ってうつむいたままのアンジェを見て首を傾げる。


「どうしたんだい、アンジェ、元気がないね。具合でも悪いのかい?」

「……おはようございます、フェリクス様」


 アンジェは観念して腰を上げ、差し出された手に手を預けた。踏み台を降りるアンジェの顔を覗き込んだフェリクスが、一瞬息を呑むのが分かる。見られてしまった。きっと、泣いていたと気づかれた。


「アンジェ……」

「……昨日の夜……無事、お菓子クラブ設立が可決されましたでしょう。リリアンさんとのことをいろいろ、思い出していたら、何だか止まらなくなってしまって……」


 アンジェはフェリクスの腕に顔を埋めるようにしてうつむく。嘘は言っていない。いろいろの中身こそに大いなる違いがあるが、そこさえ掘らなければこれで押し通せる。フェリクスは御者からアンジェの鞄を受け取る間、探るようにじっとアンジェを見下ろしている。


「酷い顔でしょう? あまりご覧にならないでくださいまし」

「……君の顔が、どんな瞬間でも酷いことなどあるものか、アンジェ」


 フェリクスは微笑むと、アンジェの手を自分の腕に沿わせ、いつものようにエスコートして歩き出した。歩きながら顎に手を当てて何か考え込んでいたが、よし、と何かの気合を入れる。


「アンジェ、あれは何歳の時だったかな。君がお父上について王宮(うち)まで遊びに来てくれた時だ。僕は乗馬か何かの授業(レッスン)が入っていて、それが終わるまで、君はアンナと一緒に待っていてくれたんだ」


 前を向いたまま話しているフェリクスの声は、何かの詩を吟じているかのようだ。


「戻った僕に、幼い君はアンナと一緒に描いた絵を見せてくれたね。一生懸命描いてくれたことは分かったけれど、僕はそれが何の絵なのか当てられなくて、君はとうとう泣き出してしまったんだ」

「……微かに覚えていましてよ。二歳か、三歳ではありませんでしたこと? 何を描いたのだったかしら……」

「それくらいだろうね。いずれにせよ君も僕も幼かった」


 フェリクスはクスクスと笑い、呟くような声で答えたアンジェに微笑みかける。意図は分からないが、きっとなにかアンジェを励まそうとしているのだ。子供の頃の話なら、何か探られているのではと構えずに聞ける。服越しに伝わる筋肉の力強さが、その奥にある温かさが、まだ痛む胸に沁み入るようだ。


「あの時の絵は、実はまだ僕が持っているんだよ。……時々見返しては、その時の君の泣き顔を思い出すんだ」

「まあ……どうしてそんなことを?」

「あの時の君は、とても可愛かった。ふくふくとした頬が赤く染まって、瞳からぽろぽろ零れる涙で顔中がぐしゃぐしゃになっていてね」


 ニコニコしているフェリクス。校門から校舎までの、短いようで長い道。行き交う生徒たちも、二人が歩く光景が少しは日常になってきただろうか。フェアウェルローズに入学してから、ずっとフェリクスとこうして歩くのがアンジェにとっての日常だった。フェリクスの手を取り、腕に抱かれ、唇を重ねて──アンジェが生まれて一年もしないうちに決められた婚約だ。物心ついた頃には、家族のように当たり前にフェリクスが寄り添っていた。聡明で、誠実で、優しくて。彼からたくさんの愛を受け取り続けていたから、それを失うかもしれないことが、ずっと、恐ろしかった。


「アンナが泣きじゃくる君の背中をさすりながら洟を拭いていたな。君の絵を見て、僕が森と言っても、空と言っても、海と言っても君は首を振るばかりで……同じところに色を重ねすぎて、もうほとんど真っ黒なんだよ。アンナが何か必死に僕の方を見ていたけど、結局僕は当てられなかった」


 どれだけ不安でも、今まさにこの瞬間は、フェリクスは確かにアンジェを愛している。その心にはアンジェただ一人が住んでいて、今のところは、他の誰かに取って代わられる様子はない。でなければ、毎朝こうして手を取って登校してくれるはずがない。


「君は泣きに泣いて、結局泣き疲れて指を咥えながら眠ってしまって。セルヴェール公が抱き上げても起きなくて、そのままお帰りになったよ」

「まあ、全然覚えていませんわ」


 顔を上げたアンジェとしっかり目線を合わせると、フェリクスはにこりと微笑む。


「結局それは、僕の似顔絵だったんだよ。君はニコニコして、だいすち、ふぇいくしゅしゃま、と言いながら描いていたとアンナが教えてくれた。最初は綺麗な似顔絵だったのが、馬や剣を書き足していくうちに混ざりに混ざって、最終的にああなってしまったのだと」

「……全くもって覚えていませんわ……」

「あはは、そういうものだろうね。君が泣いてしまった時は、正直、小さい子は訳が分からなくて煩わしいなと思ってしまったけれど……アンナから聞いて、僕は己を恥じた」


 そう。

 貴方の隣にいるというのに、あの子の心に自分がいないと泣いていたわたくしは。

 その涙の心配をしてくださる貴方の言葉を、素知らぬ顔で聞いているわたくしは。


(なんて……)


「どんなにぐちゃぐちゃでも、幼い君が辛抱強く待ちながら描いてくれた絵だったんだ。最初にその点に気が付いて、君にお礼を伝えるべきだった」

「……フェリクス様……」


 わたくしは、なんて恥ずべき、身勝手な女なのだろう。


「……淑女ともなれば、涙の理由は様々だろう。僕が原因ではないかもしれない。けれど、アンジェ、僕は君が涙をこぼす度に、泣いていたと知る度に、あの時の小さなアンジェのことが思い起こされるんだ。訳が分からないと思っていたあの子は、僕を想ってくれていて、それが伝わらなくて泣いていたと。僕は隣にいたのに、何一つ分かってやれなかった。せめて、アンナと一緒に涙を拭いてやればよかった」

「…………」

「アンジェ。僕の愛しいアンジェリーク。僕は君が泣いてしまうなら、その隣にいたい……そうしたら、どんな理由であれ、君の手を取って涙を拭いてあげられるからね」


 フェリクスは足を止めると、そっと右手でアンジェの頬に触れた。顔の輪郭を掌でなぞり、指先で腫れた瞼のあたりに触れ、優しく微笑む。


「泣いた理由は何だっていい。僕に言えないならそれで構わない。けれど、君には僕がいて──僕はいつでも君の涙を拭きたいんだと、どうか覚えていておくれ、アンジェ」


 いつもなら高鳴るはずの胸は、今日はずきりと痛む。


 今こぼれそうになっている涙の理由は何だろう? フェリクス様がお優しいから? 浅ましいわたくしには、彼に気遣われるだけの価値がないから? 物心つくかつかないかの頃からフェリクス様の隣にいるわたくしは、あの時のリリアンさんのように、恋する瞳をしていたのかしら? 恋する瞳。そう、リリアンさんは恋をしていた……。


「……ありがとう、ございます、フェリクス様」


 アンジェはフェリクスの腕に縋ったが、もう何も言葉が出てこなかった。


 校舎が近くに迫ると、いつものように入口の脇にリリアンが立っているのが見えた。心臓が刺すように痛み、アンジェは唇を噛む。フェリクスが少女に気が付いて、おや、と呟くのが聞こえる。所在なげに自分の爪を眺めていたリリアンが、ぱっと顔を上げた。フェリクスを見て、アンジェを見て──孵化した蝶が初めて羽ばたくように、嬉しそうに微笑む。


「殿下、アンジェ様! おはようございます!」

「おはようリリアンくん、今日は一段と溌溂としているね」


 ニコニコしているフェリクス。小走りに駆け寄ってきたリリアンの弾む息。上機嫌で、目を潤ませて。昨日はずっと皆で話していたら閉門時刻になってしまったから、きっと今日、クラブ可決のことを語りがるだろう。フェリクスも交えて貴賓室なのか。それともまたピクニックなのか……。


「アンジェ様、あの、もし良かったら、今日のお昼……」


 アンジェの手を取って、上目遣いに見上げる瞳。つぶらで、きらきらしていて、吸い込まれてしまいそう。あれほど会いたかったはずなのに、正面から覗き込まれるとその眩しさに耐えられない、逃げ出したい、口を開いたら貴女を罵ってしまいそう……。


「悪いな、子リス。今日のアンジェは予約済だ」


 リリアンが全て言い終わる前に、横からの声が割り込んできた。校舎の中から歩み出てきたのは、グレーのポニーテールを揺らしているルナと、しゃなりと微笑んでいるイザベラだった。


「おはよう諸君、いちゃついているとこ悪いな」

「ご機嫌よう、フェリクスくん、アンジェちゃん、リリアンさん。良い朝だこと」

「子リス、悪いが今日のアンジェは私と昼飯を食べるんだ。遠慮してくれるな」

「そ、そうだったんですね……」


 アンジェはルナと約束などしていないが、ルナは平然と決定事項のように話している。勢いをそがれてしおしおと肩を落とすリリアン。アンジェは驚いてイザベラとルナを見比べるが、ルナがさりげなくウィンクしてきたのを見て押し黙り、平静を装うことにした。理由はあとでクラスルームで聞けばいい。


「おはよう、イザベラ、ルネティオット」


 フェリクスは気が付いているのかいないのか、のんびりと二人に声をかける。


「二人がこの時間に校舎の外にいるのは珍しいね」

「ええ、わたくしはリリアンさんに小用がありましてよ」

「おはようございます、イザベラ様。昨日の定例会ではご指導ありがとうございました」

「うふふ、いいのよ、アンジェちゃん」

「イザベラ様っおはようございますっ! ルネティオット様もおはようございます!」

「アンジェちゃんの子リスちゃんは朝から元気ですこと。今日の昼時に……」


 イザベラは不敵に微笑むとリリアンの耳元に唇を寄せ、扇子で隠しながら何事かを囁いた。リリアンが俄かに気色ばんでわなわなと震え、その瞳をぎらりと輝かせる。


「……いかが?」

「是非とも! お願い! します!!!!!」

「そう、よろしいこと。ではまたその時に」


 鼻息荒くこくこくと頷いたリリアンを見て、イザベラは満足げに目を細める。ルナもその様子を見てひとしきり頷き、アンジェを見て笑ってみせ、成り行きを漠然と見守っていたフェリクスを見ると、口の端を歪めてニヤリと笑った。


「悪いな、殿下」

「……何がだ、ルネティオット」

「殿下の挟まる隙間がなくなっちまっただろう」

「……な、何の話だ」

「……何の話ですの?」

「アンジェ、これは別に、何でもない、アンジェ、何でもないんだよ」


 目に見えて動揺して、しかしアンジェの視線に気が付いて何事もないかのように取り繕うフェリクスに、ルナはクックッと声を立てて笑い続けたのだった。







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