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18-2 茹で汁は捨てるなよ、それにモチゴメを浸すからな

 セルヴェール家では特別な用事や体調を崩したりしていない限り、食事は家族そろって食堂で食べることになっている。アンジェが帰宅するとちょうど夕食時で、姉の帰宅にはしゃぐ弟と妹に捕まってしまった。制服のまま夕食をとり、試験勉強を理由に早々に自室に退出する。ついてきた侍女がアンジェを部屋着に着替えさせ、脱いだ制服にアイロンをあてるために持って行った。この時期からお勉強だなんてさすがはアンジェお嬢様、また湯浴みの時に伺いますね、といつものように微笑む彼女が扉を締めるまでの時間が、いやに長く感じられた。


「…………」


 扉が閉まり、足音が遠のく。

 もう夜は冷えるからと焚いていった暖炉の中で、新しい薪が小さく爆ぜる。


 机の前に座ってノートや教科書を適当に開くそぶりをしていたが、アンジェは鞄からリネンの袋を──その中の交換日記を取り出した。変わらず白く、金の箔押しが魔法ランプの光にぴかぴかと照らされている。部屋着の胸元からペンダントを取り出して鍵を開け、一番新しいページを見る。



──アンジェさま


明日、生と会で発表、きんちょします。でもアンジェさまとたくさんれんしゅうしたので、大丈夫と思います。アンジェさまがこれを見るころには、もう発表はおわっていますか。かけつされているといいです。


アンジェさまのパーティーのお菓子、いろいろ考えています。出来たてが美味しいものなら、フオンダンショコラでしょうか。クレームブリユレをその場で仕上げるのもすてきです。出来たてあつあつのビスケットもおいしいです。おしろのパティシエさんが、どんなお菓子を作るのかも知りたいです。ペストリはどんなところなんでしょう。


早くクラブが始まって、アンジェさまとたくさんお菓子を作りたいです。かんたんでおいしいお菓子のレシピ、いっぱいあります。かわいいお菓子もいっぱいあります。アンジェさまはかんたんとかわいいの、どっちからやりたいですか。


リリアン



「…………」


 いつもと変わらない、角ばって、どこか幼くて、でもニコニコしながら書いたであろうことが容易に想像できる内容だった。ノートの端の方に、ケーキやプリンの落書きが添えられている。絵もさほど上手いとは言えず、文字と同じく漂う無骨な雰囲気に、アンジェは思わず苦笑いを浮かべた。


(……いつものリリアンさんね……)


 昨日までの自分なら、この文面を見て微笑み、リリアンが書いていた様子を思い浮かべ(アンジェの脳内ではリリアンは寝間着姿にねじり鉢巻きをしていた)、筆跡をなぞりながら、返事はどうしようか、明日は何を話そうかと思いを馳せていたに違いない。その時間はとろけるように甘く柔らかく、他の何にも──フェリクスとのキスですら、取って代わることはできない大切な時間だった。


「…………」


 机の上で、ペンダントが魔法ランプの光を受けて鈍く光っている。


(……何を……書いたら、いいかしら……)


 アンジェはのろのろと引き出しを開け、つけペンと色インクボトルを取り出す。いつかリリアンが聞いてきた、濃紺に金のラメが入り混じるものだ。他家に嫁いだ姉の一人が贈ってくれた誕生日プレゼント。開けた時は驚いて、嬉しくて、一度試し書きをしただけで、勿体なくて使うことが出来なかった。フェリクスに宛てて誕生日カードを書く時におそるおそる使って、それから家族や友人へのカードにも使うようになって。大切に使っていたインクは、リリアンとの交換日記で使うようになってから一気に減り、もう半分ほどになっただろうか。



──リリアンさん


お菓子クラブの設立可決、おめでとう。



「…………」


 丁寧に書きつけたところで手が止まる。続きの文章が思い浮かび、帯のように文字が脳内を流れていく。アンジェはつけペンを一度インク壺に浸してもう一度構え直す。頭に流れていく文字を捕らえようと、ノートに書いた自分の字を凝視する。


(素晴らしいプレゼンでしたわ、リリアンさん。フェリクス様の言う通り、貴女は人の上に立つ器をお持ちなのかもしれません。これから一緒に頑張りましょう)

(定例会前の出来事は、とても驚きました。アンダーソンさんはシルバーヴェイルにいらした頃の幼馴染なのでしょうか? お互いに、愛称で呼び合っているのが、お二人の仲睦まじさを感じさせました)

(リオは分かるけれど、どうしてリリアンさんはリコなのでしょう?)

(持っていらしたクッキーも、とても美味しそうでしたね)


「…………」


 ペン先が震えるばかりで全く動かない。視界が揺らいで、鼻の奥がつんと痛くなる。


(リリアンさんは……彼に……)


 ずっと堪えていた涙が、じりじりと頬を伝っていく。


(どうして……ずっと……黙って……)

(……わたくし……とても……リリアンさんも、同じだと……)


 涙は二粒、三粒と溢れ、アンジェは身体を曲げて口許を押さえる。


(書けない……書けないわ……)

(こんな、恨みがましい文章、とても書けない……)


 青い瞳の欠片のような一滴が、お菓子クラブ、の文字のあたりにぽとりと落ちた。半渇きだったインクが水を得てさっと広がり、水滴が薄青に染まる。


「あっ、……」


 咄嗟にアンジェはチリ紙で水分を吸わせたが、輪ジミとなって残ってしまった。少し歪んだ輪郭の内側が、金色のラメを含んで僅かにきらきらと光る。


「……ああ……」


 紙を破ってしまおうかとも思ったが、ここは丁度ページをめくったところで、裏側には先ほどのリリアンからのメッセージとケーキの絵が書かれている。これを破くわけにはいかない。妙に聡いところもある子だから、これでは涙の跡だと気付かれてしまう。もう一粒、二粒、今度は何も書いていないところに落ちる。魔法ランプの光を反射してゆらゆらと揺れる。チリ紙で拭っても、真っ新だった頃に戻せるわけではない。


(こんなこと……書けない……言う事も出来ない……)

(お付き合いしているのか、ただ想っているだけなのか……分からないけれど)

(自分には婚約者がいるくせに……リリアンさんには何もないと思っていただなんて、思い込みもいいところ……)


 アンジェはつけペンをペン立てに置く。大好きなうさぎのハンカチは制服と一緒に洗濯で持っていかれてしまった。せめてもうノートを汚さないようにと、身体を起こして、手の甲で涙を拭い続ける。


(お友達に、スカラバディに、想い人がいたから、何だというの……)

(何でもないことの筈だわ……祥子が使っていたノートにも、好きな人の名前を書くところがあった……)

(けれど……前と同じようにリリアンさんとお話できる気がしない……)


 全身の血液が逆流して黒く染まっていくようだ。夜の闇を塗りこめて、この乱れて行きどころのないバラバラの感情を、どこかに詰め込んで殺してくれたらいいのに。


(リリアンさんは悪くない……)

(あの時、あの少年に会わなければ……昨日までと同じでいられたのよ……)


 リコ。


 ぶっきらぼうに、当たり前のことのように、アンジェの知らない呼び方で彼女を呼んだ少年。まだどこかあどけなく、背も伸び切っていなくて、子供同士の延長のように軽口を叩いていた、幼馴染だという少年。フェリクスと比べるまでもない、男として、学生として、あるいは紳士として、未熟で、言葉遣いも粗野で。わたくしの可愛いリリアンさん、大切なリリアンさんに、何一つふさわしいとは思えない。


(……こんなことなら、いっそフェリクス様と懇意になっていただいたほうが良かったわ……)

(フェリクス様は素晴らしい方……)

(フェリクス様なら……きっと、リリアンさんを大切にしてくださる……)


 アンジェ。僕のアンジェ。

 愛しているよ、僕のアンジェリーク。


 堕ちていく思考を、婚約者の声が引き留める。彼の唇の優しさは、アンジェとリリアンの二人を眺めてニコニコしてる彼の顔は、今は眩しくて思い出したくない。アンジェは洟を啜って首を振り、書棚から乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の書きつけを入れてある箱を取り出した。鍵は引き出しの奥の二重底の下。取り出して鍵を開けて、書きつけを次々とめくる。あちこちに、ノートと同じような涙の跡が見える……。どこかにエリオット・アンダーソンについて書いていないか。彼の攻略のルート。今、二人はどのような関係なのだろうか? リリアンの片想いなのか、想いが届き始めているのか、あるいは再会する前から二人は両想いだったのか……。何でもいい、何か、手掛かりは。書いてあるのはフェリクスに関することばかりだ。


 少しでもシナリオを先回りして。

 それで、好感度が上がるイベントを、逆手に取って。


 それで……。


(……それで?)


 思い描いてしまった未来の想像は、夢と希望に満ちていて。


(お二人の仲を、卑怯な手で邪魔立てするというの?)


 リリアンにこの澱んだ胸の内を明かすことは出来ない。彼さえいなければ──彼さえいなくなれば、彼女の心の中に住んでいるのは自分一人になるはずだ。


(リリアンさんを階段から落とした、見えない力と同じように?)


 子爵などお父様に頼めば簡単に配置換えさせられるはずだ。首都(セレニアスタード)勤務ではなく、辺境の国境警備のような役職を与えて、家族もろとも引っ越しを余儀なくさせて……あの少年も、家族に帯同するだろうか。フェアウェルローズの寮に残るだろうか。それなら、フェリクスに頼んで、アンジェの名誉を棄損したと……。


(それこそ……)


 アンジェはセレネ・フェアウェルの書きつけをぐしゃりと握り潰す。その拳の上にもぽたぽたと涙が落ち続ける。


(それこそ、悪役令嬢そのものじゃない……)


 人はこんなにも、惨めな気持ちになれるものなのか。

 わたくしはここまで、愚かで、卑屈で、醜い心の女だったのか。


「…………ッ」


 衝動に任せて、アンジェはセレネ・フェアウェルの書きつけをぐしゃぐしゃと丸めては、ベッドに向かって投げつけた。ベッドの上が紙屑だらけになり、それでも鎮まらずに手近なものを掴んで投げ──投げた直後に気が付いたそれは、リリアンからもらったペンダントロケットだった。


「だめっ……」


 ロケットはベッドのヘッドボードと壁の隙間に落ちた。アンジェは駆け寄って細い隙間に手を伸ばす。小さな隙間なので指先しか入らず、魔法ランプを取り外して照らしてみると、途中で挟まってつっかえているらしい。咄嗟に定規を使って引き出そうとするが、なかなかうまく引っかからない。定規を動かす手に力を籠めると、ぶつん、と、強い手応えが返ってきた。思考が止まる。誰かが首をぎゅっと締めあげている──


 定規に引っかかった形で、ずるりと出て来た、大切な、大切なペンダント。


 おそるおそる摘まんだアンジェの目の前で、千切れた鎖が、だらりと垂れ下がる。


「ああ……!」


(なんて、馬鹿なことを……)


 悪役令嬢アンジェリークは、何よりも大切にしていたペンダントを握り締め、自分のベッドに伏せて泣くしかできなかった。




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