18-1 茹で汁は捨てるなよ、それにモチゴメを浸すからな
リリアン・スウィートという少女が、全く見知らぬ誰かに取って代わってしまったかのようだった。
もともと菓子作りの時の溌溂ぶりは別人のようだったが、それは彼女の新たな一面と捉え、好ましく受け入れていた。その時と同じように、生徒会メンバーを前にしても物怖じせず、活動内容についてプレゼンテーションをしているリリアン。原稿を一緒に考え、何度も練習に付き合ったはずなのに、話している内容が全く耳に入ってこない。可愛らしい顔が、紫の瞳が、ストロベリーブロンドが、精巧な贋作を見せつけられているような心地にさせられる。
リリアンと連れ立って時間ギリギリに大会議室に戻り、別々の席に座った。イザベラはアンジェの顔を見て何か言いたそうに僅かばかり首を傾げたが、フェリクスが入室したのでそれも阻まれる。開会の挨拶。定例報告に今日の議題。冬至祭や新年会などのイベント実務に関するものがてきぱきと捌かれ、最後に取り上げられたのが、お菓子クラブ設立申請の件だった。
(定例会の直前で、良かったのかもしれない……)
質疑応答に答えているリリアンの横顔を見ながら、アンジェは考える。
(こんな気持ちで……真っ当に振る舞えるとは思えなくてよ……)
(ここに座っている間は、誰からも話しかけられないし、笑顔を取り繕う必要もない……議題を聞いていれば、気も紛れるわ)
実際、全くもって気が紛れてなどいないが、アンジェは敢えてそうなのだと思い込もうと努めた。夢の中の祥子が恋人との関係を精算した時、心を押し殺して仕事に没頭していた、それを思い出したのだ──なにか、違うことを考えようとしていないと、腹の底から黒い渦が溢れ出して涙と嗚咽をまき散らしてしまいそうだった。
(祥子……)
(助けて、祥子……)
机の上で重ね合わせた手に、ぎり、と力が籠る。
起案者席のリリアンの横には、設立メンバー代表としてルナが座り、ニヤニヤしながらフェリクスなど生徒会メンバーを見回している。
(エリオット・アンダーソンのシナリオは、どんなイベントがあったのかしら……)
(思い出すのよ、アンジェリーク……!)
数年越しに再会した幼馴染ということは、彼もシルバーヴェイルに住んでいたのか。サッカーの試合を見に行ったような気がする。どこか準備室のようなところで、子供の頃の話をしたような気がする。シナリオに悪役令嬢は出て来たか。攻略対象が関わるようなことはあったか──ぎりぎりと歯を食いしばりたい衝動を抑えていると、それでは、と議長席のフェリクスが明るい声を出した。
「満場一致で、お菓子クラブ設立を可決するものとする」
「あ、あ、ありがとうございます!!!!!!!」
リリアンがその場に飛び上がり、フェリクスは微笑みながらゆっくりと拍手をした。副会長が、他のメンバーがそれに倣い、大会議室はたくさんの祝福に包まれた。リリアンは方々にぺこぺこと頭を下げて回り、ルナも目を細めて拍手している。口許を隠して、顔を真っ赤にして、ルナに何か話しかけるリリアン。ルナは頷き、リリアンはぱっとアンジェの方を振り向いて、ぱたぱたと駆けてくる。
「アンジェ様っ、アンジェ様っ! 可決、可決ですっ、アンジェ様っ!」
好物を掘り当てた子犬のような顔。無邪気で、可愛らしくて──恋などまだ知らず、自分を慕ってくれているのだと思っていた、リリアンの顔。
「ええ、見ていましたわ。おめでとう」
拍手しながら渾身の力を込めて、比喩でなく本当にやっとのことで、顔を笑顔の形に動かす。どんなことがあっても動揺せずに微笑んでいられるように、それは貴女がフェリクス様とどうにかなった時を想定して、練習してきた筈なのに。
「おめでとう、アンジェちゃん、リリアンさん」
アンジェの隣のイザベラが、白魚のような手で優雅に拍手しながらそっとアンジェの顔を覗き込む。
「アンジェちゃん、とても心配そうに見ていたものね。ホッとしたでしょう」
「……ええ、イザベラ様、生きた心地がしませんでしたわ」
イザベラは二人を見比べてふふふと笑う。
「アンジェちゃん、恋敵でも射殺さんばかりの悲壮な顔だったのだもの」
恋敵。
「そんな……顔を、していましたかしら」
「ええ、それはもう。無事に可決されて、ほんによかったこと」
(……………………)
「うふふ、アンジェ様のおかげでちゃんと話せました」
「そうね、子リスちゃん、よくできました」
「えへへへ~」
言葉を継げなくなってしまったアンジェの横で、イザベラに褒められて嬉しそうにはしゃぐリリアン。いつもと変わらない可愛らしい笑顔が、手を伸ばせばすぐに触れられそうなところにあるストロベリーブロンドが、硝子の器に閉じ込められているように遠く思える。あれは、わたくしが触れて良いものだったのだろうか? わたくしが思うよりずっと繊細で、秘密を隠していて、慎重に接しなければならないものだったということなのだろうか? アンジェがリリアンから視線を外せなくなっているのに気が付いて、リリアンがアンジェの方を見てにこりと笑う。机の横を回り込んで、わざわざアンジェの隣までやって来る。アンジェが立ち上がって迎えると、リリアンは躊躇いなくアンジェに飛びついた。
「アンジェ様!」
「リリアンさん……」
ぎゅう、と、小さな手が可愛い力で自分を拘束する。
「アンジェ様、私、嬉しいです、まだ信じられないです」
見下ろすアンジェの視界の中で、潤んだすみれ色の瞳からポロリ、ポロリ、と涙が零れる。指先でそれを拭うと、誤魔化すようにえへへと笑い、アンジェの制服に顔を埋める。
やめて、お願い。
そんなにしたら、心臓の音が聞こえてしまう。
(リリアンさん……)
ルナがイザベラの隣に歩み寄って、ニヤニヤしながら何か言葉を交わしているのが見える。既にフェリクスが閉会を宣言したらしく、他の生徒会メンバーは片付けの準備をしつつある。自分の荷物をまとめたフェリクスが、ニコニコしながらこちらに向かってくる。視線が合う。フェリクス様、優しい方。どうか今のわたくしを見ないでくださいまし、何もかもぐちゃぐちゃで、きっと酷い顔をしているから──こんな気持ちなのに、リリアンさんに触れることが出来て嬉しいと思ってしまうわたくしを、どうか見ないで。アンジェは俯くが視線から逃げられないことは分かっている、それでも、俯いて、どこかに隠れたかった。
「……アンジェ、リリアンくん」
フェリクスは二人の様子を見るや少し頬を染め、それから手塩にかけた花が初めて咲いた時のように微笑んだ。
「お菓子クラブ設立おめでとう」
「ありがとうございますっ!」
「素晴らしいプレゼンテーションだった。やはり君は次世代の生徒会長の器だね」
リリアンは顔を上げる。その拍子にまたポロポロと涙がこぼれて、えへへ、すみません、と言いながら手で拭うが、零れるものは止まらない。
「あ……あれ、すみません、なんか、あれ」
「リリアンさん、大丈夫よ」
アンジェがうさぎ刺繍のハンカチを出して瞳の周りを軽く拭った。何度この子の涙を見たことだろう、何度それを拭ってやっただろう。幼馴染だという彼は、この子をリコと親しげに呼ぶあの少年は、何度この涙を見て、手を差し伸べてやったのだろう。彼女が何歳の時から、その隣に寄り添っていたのだろう?
「アンジェ様、ごめんなさい、私、子供みたい」
「……頑張っていらしたものね。その努力が、素晴らしい成果に結びつきましたわ」
「はい……はい……」
泣いてまたアンジェの胸に顔を埋めたリリアン、その肩に手を添えるアンジェ。イザベラがルナをつついて何事か囁き、ルナも頷く。フェリクスがニコニコして二人を見守っている──どうかまだ、誰も話しかけないで。もう少しだけこうさせて。そうでないと、わたくしも泣きそうになっているのに気が付かれてしまう。もう少しだけ。お願い。
リリアンのストロベリーブロンドを撫でようとした手の震えは、どうしても、抑えることが出来なかった。




