16-5 リリアンさんのお菓子をいただく会
ぽーん、と、魔法オーブンのベルが鳴る。
「……出来ましたね!」
リリアンは分厚いミトンをはめて、魔法オーブンを開ける。甘い香りと熱がじわりと庫内から流れ出て来る。プレートを掴んで引き出すと、こんもりふんわりと盛り上がったカップケーキたちが現れた。
「……こんなに膨らむんですのね……!」
アンジェが隣で感慨深げに呟いたのに気が付くと、リリアンは嬉しそうに笑う。
「はい。アンジェ様、とってもお上手でした。美味しそうですね」
「そうかしら……中が変になっていたりしませんこと?」
「そこは、魔法オーブンを信じてくださいっ」
リリアンはクスクス笑いながら、予め敷いておいた濡れ布巾の上にプレ ートを置く。誰がどこにトッピングしたのかを覚えているようで、ウィンスロー様、シャイアさん、グレースさん、ルナ様、とトングで次々に取り分けていく。名前を呼ばれた令嬢は頬を赤らめて自分のカップケーキを受け取り、ふわふわの生地から立ち昇る甘い香りにうっとりと目を細めた。リリアンは各自の皿の端にホイップクリームを絞って回る。チーズやベーコンを選んだ者にはクリームの代わりにバターを沿えてやる。フェリクスとイザベラもアンジェが運んだ自分のカップケーキを受け取ると、その仕上がりに目を見開いていた。
それぞれが自分の皿を持って東屋に戻り、みな出来立てのカップケーキを早速食べる。
「…………まあ」
アンジェは一口食べるなり驚いて目を見開いた。トッピングはチョコチップを選んだが、チョコが高熱で溶けてふわふわの生地に沁み込み、口の中で香り高く広がる。生地も表面はサクサクとした触感があり、口当たりも軽やかだ。何より一切れ口に入れると、香ばしい温かさがほわっと広がる。
「どうですか、アンジェ様」
「とても美味しいわ、リリアンさん」
「アンジェ様が生まれて初めてご自分で作ったお菓子です」
隣に座るリリアンは、紫の瞳をきらきらさせてアンジェの顔を覗き込む。
「ええ、その感動もありますわ……けれどわたくし、出来たてのお菓子というものを食べたのも、生まれて初めてなのではないかと思いますの」
アンジェは小さく切ったカップケーキにたっぷりクリームを乗せて食べる。泡立てたばかりの少しゆるいクリームが、ケーキの余熱で甘やかに口の中で溶けていく。
「……温かくて、軽やかで。つい先ほどまで、卵や小麦粉や、別々のものだったのに……混ぜて焼くと、こんなに素晴らしいものに変身するだなんて……頭で分かっていたつもりでも、実際この手でやるまでは、そんな単純なことも分かっていなかったのですね」
「うふふ、嬉しいです、アンジェ様」
リリアンはニコニコと笑った。
「出来たてのお菓子の美味しさは、作った人にしか分からないんです。カフェで食べても、お店で買っても、家のパティシエが作っても、食べる頃には冷めています。もちろん冷めた時に美味しくなるように作ってはいるんですけど、オーブンから出したてのこの美味しさには敵いません」
えへへ、と、笑う少女は、どこか得意げだ。
「それが好きで……いっぱい、作ってました」
「そうでしたのね」
アンジェも微笑み返して、菓子作りの工程を思い出した。卵を割るのさえ生まれて初めてだったのに、材料を集め、状態を確認しながら一処に混ぜ合わせていくのは、まるで魔法のようだった──
東屋のあちこちでも、美味しい、素敵、素晴らしい、と歓声が上がっている。ルナは自分のスカラバディと半分ずつ交換して感想を言い合っている。通りすがりの生徒たちが羨ましそうにその様子を横目に見ながら通り過ぎる。お菓子屋さんみたいな匂いがするね。今日はセルヴェール様のサロンだって。あそこにもテーブルがあるよ、そこで作ったのかな? お菓子って自分で作れるの?
パウンドケーキとカップケーキを食べているサロンメンバー、様子を窺っている生徒たち。青空と芝生の間にたゆたう甘い香り。リリアンは一つ一つを確かめるように見回すと、大きく大きく息を吐き出して、それからにんまりと微笑んだ。
「アンジェ様」
「なあに、リリアンさん」
「私、今日、頑張って良かったです」
「ええ、みなさん喜んでくださいましたわね」
「はい、それもなんですけど」
リリアンはアンジェの手をそっと取ると、その手の甲を優しく撫でる。
「アンジェ様が一緒に作って下さって。出来たてを、美味しいと言ってくださって……私の好きなものを、みなさんに、……アンジェ様に知っていただけて。それが嬉しいです」
「……リリアンさん」
「ありがとうございました、アンジェ様」
上目遣いに微笑むリリアンの笑顔に吸い込まれてしまいそうだ。手が触れ合うところが熱い。痺れるような身震いが、ぞわりと指先から全身へと広がっていく。ああ、この笑顔。この眼差し。他でもないわたくしにだけ向けてくださっている。可愛い可愛い、わたくしの──
「今日は素晴らしい会に招いてくれてありがとう、アンジェ、リリアンくん」
肩越しに婚約者の声が降ってきて、アンジェはぎくりと身体を強張らせた。フェリクスはイザベラとカップケーキの感想について語り合っていたが、会話のキリが良くなったという事なのだろうか。アンジェはリリアンの手を離し──名残惜しくて、思わず一度ぎゅっと握った──フェリクスの方に向き直る。
「……ありがとうございます、フェリクス様」
「僕は感動したよ、素晴らしい腕前だね、リリアンくん。君の菓子は一流の部類に入るといって間違いないだろう」
フェリクスが微笑みかけると、リリアンがぴゃっと飛び上がった。上気した頬、驚きに見開かれた瞳。それらがアンジェをすり抜けて、隣の王子へと注がれる。
「菓子クラブの立ち上げ、ぜひ僕にも協力させてほしい。イザベラもアンジェも、ここにいるメンバーの皆も、こぞって協力してくれることだろう。君の菓子にはそれだけの価値がある」
「うわあ、殿下、本当ですか! 嬉しいですっ!」
「もちろんだとも。クラブ設立申請が受理されれば予算が下りるから、それで機材なども購入できるようになるよ」
「すす、すごい、予算だなんて! 魔法オーブンがクラブで使えるんでしょうか!」
「きっとそうなるだろう」
何故だろう、どうしてだろう。この二人が話しているのを聞くにつけ、悪役令嬢がゲーム画面で「泥棒猫!」と叫ぶ場面が頭に思い浮かんでしまうのは。
フェリクスは変わらず自分に優しく愛情を注いでくれている、心変わりする様子はない、時々二人を眺めて妙に上機嫌なことが増えたくらいだ。
(わたくしが……取られたくないのは……)
「それでね、フェリクスくんと話していたのだけれど」
フェリクスの更に隣から、イザベラが微笑みかける。
「もうすぐアンジェちゃんのお誕生日でしょう。身内だけお招きして、王宮で祝賀会を予定していますのよ」
「そうなんだ、僕がセルヴェール公爵に無理を聞いていただいてね。他ならぬ大切なアンジェの十六歳の誕生日、僕のこの手で祝いたいんだ」
にこにこと頷くフェリクス。リリアンは無邪気に瞳を輝かせ、アンジェが離した手で口許を隠し、すごい、と呟く。
「お城でお祝いなんて、アンジェ様、本当にお姫様ですね!」
「あはは、そうだね、アンジェは僕の愛しい姫君だ。リリアンくんは可愛らしい表現をするね」
「……あっ、す、すみません」
「アンジェちゃんの子リスは本当に可愛らしいこと、童話から抜け出したようでしてよ」
「イザベラの言う通りだね。その僕の愛する姫の誕生日をお城で祝うわけなのだけれど、そこでだ、リリアンくん」
慌てふためくリリアン、コロコロと笑うイザベラ。フェリクスは何か期待しているような目でアンジェをチラリと見て微笑む。
「君の素晴らしい菓子を、祝賀会で出してみてはどうだろうか?」
「……えっ」
「──まあ」
アンジェとリリアンは思わず顔を見合わせる。驚いていたリリアンの顔が、アンジェ、フェリクス、イザベラを見比べているうちにじわじわと喜びに上書きされていく。少し開いた唇が微笑みの形になる。頬がほんのりと染まっていく。紫の瞳がきらきらと潤む。
ああ、なんて綺麗なの。
「いっ……、い、いいんですかっ!? そんな、大事なパーティーに、わ、わ、わわ、私なんかの」
「謙遜することはない、君の菓子は本当に素晴らしい。僕とイザベラが保証する」
「今日のパウンドケーキでもよろしいのよ、一品、二品、華を添えていただければと思いましたの。アンジェちゃんも喜ぶのではないかしら?」
「ええ、イザベラ様、それはもう……大切なリリアンさんの、こんなに美味しいお菓子でお祝いしていただけるなんて、これに勝る喜びがあるでしょうか?」
「生徒会会員は全員招待する予定だしね。クラブの宣伝にもなるだろう」
「わ、わ、わ、そ、そんな」
こんなにも素直で、愛らしい彼女を、わたくしでなくとも愛さずにはいられない。
「ありがとうございます!!!!! 嬉しいです、光栄です、信じられないです!!!」
【……残念だよ、アンジェリーク】
微笑むリリアンの笑顔に、記憶の底から沁み出した冷たい声が重なる。
それは聞き間違いようのない──目の前の婚約者の、聞いたはずのない、だが確かに聞いた声。
(そうだわ……わたくしの誕生日……)
アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールが十六歳を迎える、ただ一度の誕生日。
それは、乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の攻略対象攻略ルートにおいて、攻略対象と悪役令嬢の婚約破棄が決定的となる事件が起こる日だ。
「…………」
「何がいいでしょう、今日のように作って持って行けばいいんでしょうか!」
「あら、王宮の菓子厨房では作っていただけないの? せっかくなら今いただいたような出来たてをいただきたいわ」
「それはいいね。僕からもぜひお願いしたい」
「ぺ、ぺ、ぺ、ぺ、菓子厨房に!? 私が!?」
記憶が押し寄せて、次々と扉が開いていく。三人のはしゃぐ声が、室内で聞く遠雷のようによく聞き取れない。とても大きな手が全身を握り潰そうとしているかのようで、身動きが取れない、息が出来ない。
「ねえ、アンジェ様、どうでしょう、もしそうなったら、私とても──」
嬉しそうにはしゃいでいたリリアンが、どこも見ていないアンジェの顔を見て、震えている指先を見て、ゆっくりと目を見開く。
「……アンジェ?」
フェリクスが怪訝そうにアンジェの顔を覗き込むと、ようやくそれで呪縛が解けた。リリアンを見ると険しい顔をしている、きっと気付かれてしまった。イザベラを、フェリクスを見る、二人共心配そうに自分を見ている。いけない、余計なご心配をおかけしては。せっかく素敵なご提案をしてくださったのに、台無しにしては。
「顔色が良くないな、また具合が悪くなったのかい?」
大丈夫、目の前の婚約者はわたくしに優しい──まだ、優しい。
アンジェは自分自身を励ますようにそう言い聞かせ、首を振り、微笑んで見せた。
「わたくし、感動で……胸がいっぱいになってしまいましたの」
何度も鍛えて来た微笑みは、こんな時ですら完璧だ。
アンジェを嘲笑うように、東屋を吹き抜ける風が赤い巻き毛を揺らしていった。




