15-4 補正の行き届くところ
別の日の放課後、アンジェとリリアンはクラウスを訪ねた。面談室に二人並んで向き合い、あのピクニックの日に話したことを──リリアンのことは伏せ、アンジェの前世の記憶について共有したことを説明する。クラウスはいつものように穏やかな表情で頷きながら聞き入っていた。
乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」のシナリオについて、クラウスはアンジェからほぼ全てのシナリオについて聞かされている。悪役令嬢が婚約破棄を受け入れられず、攻略対象を取り戻せるという甘言を真に受け、クーデター組織に取り込まれて行く。それが怖い、恐ろしい、そう言って涙を堪えきれなかった新入生のアンジェにどれほど戸惑ったことだろう。落ち着きなさい、夢は夢なのだから、と宥めにかかったクラウスに、先生も無関係ではいられない、貴方もわたくしと一緒に彼に弓を引くのだと叫んでしまったことを、何度後悔しただろう。
「セルヴェールの知るシナリオに沿うよう見えない力が働いている、というのは十分あり得ますね」
博識で、冷静沈着で、いつも穏やかなクラウス。ゲームでは図書館での本のやり取りを通して主人公との仲が深まっていく。リリアンはクラウスに限らず教師と面談室で話すのが初めてなようで、言葉少なに中の様子をきょろきょろと窺っている。
「先日の階段転落事件も不可解で──殿下から聞いていますか?」
「いいえ、フェリクス様は何も……」
「心配かけまいとしているのかな、僕から聞いたことは内密に。実はもう、あそこに鋼線を取り付けた者は捕まっているんです」
「えっ」
「本当ですの……?」
「はい」
息を呑んだ少女二人に、クラウスは眼鏡をかけ直しながら頷いて見せる。
「僕も調査団に入っていましたので、生体追跡などを魔法で手伝いました。それで捕まった犯人なのですが、事件の前後一時間ほど、記憶が抜け落ちていたんです」
「そんなことが……可能ですの……?」
「…………」
アンジェは顔から血の気が引く。隣のリリアンは何も言わず、何か探るような目つきでじっとクラウスを見つめている。
「それについての理論は専門になってしまうので、興味があればまた別日に。事件の経過としては、今は記憶を復活させようとしているところです」
「そうでしたの……何も存じ上げませんでしたわ……」
「殿下なりのご配慮なのでしょう。……これは僕個人の憶測ですが」
クラウスは二人の目を交互に見つめ、慎重に言葉を選びながら続けた。
「あの事件を起こすことそのものに……シナリオに沿わせる何らかの働かきかけがあった、というのは、十分に考えられます」
「…………」
「それは……」
誰が、何のために。
「……アシュフォード先生も、お分かりにならない事ですわね……」
「済みません……」
申し訳なさそうに頭を下げた婚約者の異母兄に、アンジェはとんでもありません、と慌てて手を差し伸べた。
「アシュフォード先生、ありがとうございます。先生がお力添えくださると思うと、わたくしもリリアンさんも心強いですわ」
「大したことは出来ていませんが……二人とも、くれぐれも気をつけなさい。セルヴェールのシナリオにないことも起こるかもしれません」
「はい、ありがとうございます。……そろそろお時間ですわね。今日はありがとうございました」
「……ありがとうございました、アシュフォード先生」
「またいつでも来なさい」
席を立ち、アンジェとリリアンは一礼して、面談室から出る。クラウスも立ち上がりながら二人が立ち去るのを見送る。一人きりなった面談室でクラウスは椅子の位置を直し、机の上の埃を払い、自分の資料を手に抱えて、ずれた眼鏡をくいと直す。刹那、フェリクスに似た顔が、苦々しく歪められた。
「…………」
眼鏡に触れた手がそのまま口と鼻を覆う。一度持った資料を机に戻し、ポケットからハンカチを取り出す。それで口を覆い、げほごほとせき込み──ゆっくりと下ろしたハンカチに、鮮烈な赤が刻み込まれていた。クラウスは何の感動もなくハンカチを汚した色をじっと見つめる。鼻から垂れる一筋をもう一度拭いて、増えた色を確かめて、小さく舌打ちした。
「セレネス・シャイアン……」
呟きは誰にも気取られることなく、面談室の床にこぼれ落ちて消えていった。




