13-3 秘密には鍵をかけて
「無神経にもほどがありましてよ殿下! 殿下がお気にかけあそばす女性はセルヴェール様ただお一人! 昨夜だって人がせっかくイザベラ殿下にお願い申し上げて一番可愛らしい寝間着をご用意しましたのに、ろくに愛でもせずにさっさとご退出なさって! セルヴェール様、お眠りになってからはうなされておいででしたわよ、お可哀想に、何度手を握って差し上げたいと思ったことか! やはりお言いつけなど無視して殿下を呼びに行くべきでしたわ! まったく! セルヴェール様、どんなにお優しくても男は根がみな朴念仁なのですよ、お分かりになったでしょう! 王子殿下だからと遠慮などなさらず、しっかりお叱りなさいませ!!!」
侍女のアンナは十年以上フェリクスの近習を務めていて、アンジェとも顔見知りの仲だ。婚約したばかりの幼い頃は、フェリクスの用事が終わるのを待っている間、絵本を読んだりままごとをしたりと一緒に遊んでくれた。その彼女が頭に角でも生やす勢いでガミガミとフェリクスを叱りつけ、フェリクスは雷に怯える子犬のようにしおしおとして説教されるがままになっている。
「よろしいですこと、アンナは殿下の侍女ですが、お二人に関しては全面的にセルヴェール様のお味方ですからね! 可愛い可愛いセルヴェール様を泣かせたら、この首をかけてでも物申しますわ!!!!!」
「分かった、分かったよアンナ、君をクビになどするものか、僕が悪かった、許してくれ」
「謝る相手が違うでしょう!!!!」
「アンジェ……」
「私! 片付けがありますので! 殿下がご出立なされるまで戻って来ませんわ! まだお時間もございますからお二人ともごゆっくりお召し上がりくださいませ!!!!!!!」
フェリクスが何か言う前に、侍女はぷりぷり怒りながらワゴンを押して客室を出て行ってしまった。アンジェは去って行く彼女の背中を視線で追いつつ、あれだけ怒り散らしても仕事の所作が完璧なのは素晴らしいと感心していると、フェリクスがしおしおしたままチラリとアンジェの様子をうかがう。
「アンジェ……」
「……はい」
「その……」
アンジェが身体ごとフェリクスの方に向き直ると、王子は瞳を伏せ、テーブルに手をついて深々と頭を下げた。
「……済まなかった。僕がいろいろと無神経だった」
「…………」
「この通りだ」
アンジェは正直なところ侍女の勢いに気圧されて胸の痛みなど消し飛んでしまったのだが、フェリクスのあまりに真剣かつ悲壮な様子に思わずごくりと唾をのむ。
「……フェリクス様、お顔を上げてくださいまし」
「…………」
フェリクスはゆっくりと顔を上げて、悲しげにアンジェを見つめる。
そうだ、この人の緑色の瞳は、いつだって真摯な光を宿している。
「確かにわたくし、先ほどのフェリクス様のお言葉に少しばかり思うところがありましたけれど……自分でもそれが何なのか気が付く前に、アンナさんに全て言われてしまいましたわ」
「アンジェ……」
「きっとわたくしが感じた以上にアンナさんが怒って下さったから、こうして心穏やかにフェリクス様とお話しすることが出来るのでしょう。お優しいフェリクス様がどなたにどのようなご配慮なさろうと、アンジェリークにはそれを止める権利はありません」
アンジェはにこりと微笑んで見せる。
「ただ……リリアンさんには、わたくし自身が彼女になにかして差し上げたかったのです。それをフェリクス様に取られてしまったように感じたのかもしれませんわ」
「そうか……」
フェリクスもアンジェにつられて微笑み返す。
「そうだね、それがいい。スウィート嬢は君のスカラバディなのだから」
「はい、そうさせていただけると嬉しいですわ」
「じゃあ……僕のことを許してくれるかい、アンジェ」
「わたくしは、もとよりフェリクス様に怒ってなどおりませんことよ」
「そうか……ありがとう、アンジェ」
フェリクスは心底安堵して笑い、背もたれにどさりとよりかかった。それからすぐに立ち上がりアンジェの席までやって来ると、覆い被さるようにしてキスを落とす。アンジェの顔を両手で包み込むようにして瞳を覗き込み、もう一度長々と求めてから、悩ましげにため息をついた。
「……今日も君が泊まってくれたらいいのにな」
「まあ、何故ですの?」
「もちろん、可愛い寝間着を着た君が眠るまで、その手を握っているんだ。僕は君と結婚したいからね」
「もう……冗談と申しましたのに、フェリクス様ったら」
「もういっそこのまま本当に結婚してしまおうか。そうしたら君をセルヴェール邸に帰さなくていいし、毎晩一緒に眠れる」
「その日が来るのを楽しみにしておりますわ」
二人は額を寄せあい、クスクスと笑い合った。
* * * * *
フェリクスがアカデミーに登校する時間を見計らったかのように、セルヴェール公爵がアンジェを迎えに来たと侍女が告げにやって来た。食事は既に終えていたので二人して立ち上がり、機嫌が戻ったらしい侍女の案内で謁見室へと向かう。
「お父様、ちょうどいい時間にいらっしゃること。フェリクス様にお会いしたかったに違いありませんわ」
「僕もお会いしたかったところだ。大切なご令嬢の君にあんな怪我をさせてしまったのだから、せめて誠意をもって謝罪させていただきたい」
「フェリクス様は何の咎もありませんことよ?」
「それでもご挨拶したいんだよ、僕は」
いつもの調子が戻って来たフェリクスはにこりと微笑み、アンジェをエスコートしながら謁見室に入った。昨日のスウィート男爵が待っていた部屋よりは幾分立派な謁見室には、グレイヘアのセルヴェール公爵と、黒髪の若い男──アンジェの兄がそわそわしながら待っていた。
「……アンジェリーク!」
「アンジェ!」
父親も兄もアンジェの顔を見て思わず叫んでしまうが、すぐに姿勢を正してフェリクスに目礼する。
「フェリクス王太子殿下。この度は儂の娘に格別なご高配を賜り、誠にありがとうございました。何と御礼申し上げればよいか」
「セルヴェール公爵、顔を上げてください」
フェリクスはアンジェの父のすぐ横まで歩み寄ると、その年齢が刻まれた手をがしりと握り、自分が今その痛みを感じているかのように苦々しく顔をしかめた。
「僕がいながら大切なご令嬢を危険に晒し、大変な怪我まで負わせてしまって、僕の方こそお詫びのしようもないのです」
「おお、殿下、そのようなことは決して。娘には典医殿による治癒魔法を施していただいたと聞いておりますぞ。おかげで傷一つ残らず、前より肌が輝いているようにすら見えるというものです」
感動に打ち震える父と感極まる恋人が何やらダラダラと話している横にぼんやりと立っていると、父の横にいた兄、アレクサンドル・フィリプ・ドゥ・セルヴェールと目線が合った。アレクはアンジェと同じ青い瞳でニヤリと笑って肩をすくめて見せたので、アンジェも笑いながら兄の近くに寄る。
「何だ、ピンピンしてるな」
「アレク兄様がいらしてくださるなんて、意外ですわ」
「父上はこのまま参内して執務だからな、俺が家まで連れてくよ。おかげで仕事サボれるぜ」
「まあ、わたくしを口実になさったのね、悪いお兄様。……お母様は?」
「昨日からカンカンにお怒りで、今朝はそのせいで寝込んじまったよ」
「まあ大変、怖いわアレク兄様、可愛いアンジェを助けてくださいまし」
「やだよ、しっかり怒られな」
「もう、お兄様、お願い!」
アレクが意地悪く笑ったので、アンジェはその胸板をぽかぽかと殴った。フェリクスよりも年上の兄は、口調こそ粗野だがすぐ下の妹のアンジェのことを良く可愛がってくれている。アレクはハエでも払うようにアンジェの拳をシッシッと払う。二人がじゃれ合っている間も父と王子は申し訳ない、いやいや自分こそ申し訳ないを繰り返している。
(……お父様もお兄様も、わたくしを謝らせようとはなさらないわ……)
【本当に、出来の悪い娘でして、いやはや。ほら、お二人に謝るんだ】
【これはこれは、はは、直々のお言葉、このような娘に恐縮です】
スウィート男爵の声が反芻して、アンジェは兄を叩く手を止める。
フェリクスも、父も兄も、フェリクスの侍女も、典医達も。みなアンジェとリリアンのことを心配している。無事だったことを、怪我が治ったことを喜んでいる。寝込むほど怒り心頭だという母も、立腹しているのはアンジェが無茶をして怪我をしてしまったことで、根底にあるのはやはり心配だ。父は申し訳ないを連発しているが、それは王子の手厚い処遇に恐縮しているのであり、アンジェの至らなさを嘆いているのではない。
(……リリアンさん……)
「アンジェ?」
急に大人しくなった妹を不振がって、アレクが顔を覗き込んでくる。
「アレク兄様……お迎えに来てくださって、ありがとう」
「なんだ、しおらしいな。そんなに酷い怪我だったのか」
「顔からここまで、ものすごい痣になりましたの……魔法で綺麗に治していただきましたわ」
「うげっ、そんなとこまで!? 母上には言わない方がいいぞ」
「そういたします」
(リリアンさん……今、どんなお気持ちなのかしら……)
(リリアンさんのことを心配して……無事を喜んで……貴女を傷つけるなと、貴女に代わって怒ってくださるような方が、お近くにいるの……?)
脳裏に浮かぶ少女の面影は、いつも笑っているし、いつも泣いている。
(わたくし……リリアンさんのことを……何も知らない……)
(どうしたらお力になれるのでしょう……)
アンジェはハンカチを探してポケットをまさぐるが、見つかったのはハンカチではなくリリアンから預かったミミちゃんだった。予想外の握り心地に一瞬ぎくりとして、そろそろと指を離し、何も持たずにポケットから手を引く。
(せめて、お心の内を話してくださらないかしら……)
(けれど、いきなり面と向かって「悩みはない?」と尋ねても、話してくださるものではありませんわ……)
(何か……良い方法は……)
「本当に、ご令嬢は素晴らしい淑女です。身を挺してスカラバディを守るなど、言葉にするとありきたりですが、それを実行するにはどれだけの勇気が必要とされるでしょう。僕は彼女と婚約させていただいたことを誇りに思いますよ」
フェリクスと父の会話は昨日の晩餐と同じ内容になりつつある。
「勿体ないお言葉でございます、娘は殿下を想えばこそ何事も己に厳しく取り組んでいるようでして、我が娘ながらいじらしいものだと細君とも話しておりまして」
アンジェは記憶を辿る。こういう時、公爵令嬢アンジェリークのこれまでの人生の記憶はあまり役に立たない。自分で言うのもあれだが、生まれにも育ちにも恵まれたアンジェには、何かの問題に直面する機会が極端に少なかった。だから思い出すのは祥子の記憶だ。どこかで働いていた祥子。学生として勉強していた祥子。子供の頃から、友達と一緒に遊んでいた祥子……。そういえば、祥子がミミちゃんのようなお人形で遊んでいた頃、同じクラスのお友達とよく何かのやりとりをしていた。小さな紙に何か書いて、折りたたんで交換したり、一冊のノートを、皆で書き込みながら順番に回していったり。あれは──あれは、何というものだったか?
(交換……そうよ、交換……)
「そう、だからこそ僕は、血にまみれたご令嬢を見て、彼女を失ってはいけない、僕の命と引き換えにしてでも助けなくてはと、胸が震えたのです」
「なんと、光栄な娘でしょうか、殿下からそのようなお言葉を賜るなど」
可愛らしいイラストの表紙で、淡い色彩で。紙面にはあらかじめフキダシや質問が書かれていて、祥子も胸を高鳴らせながらそれぞれのコーナーに小さな秘密を書き込んでいた。確か、確か。こちらでも理解できる名前だったはず。
(交換……日記?)
思いついた、あるいは思い出した言葉。
それはぴったりと思索の枠にあてはまり、胸に沁み込んで行く。
(そうだわ……そんな名前だった……)
(お互いの秘密を書く枠がありましたっけ……)
「……アレク兄様」
「ん?」
「帰りに、少し寄り道をしても良いかしら」
「えー……ドレス買いたいとか靴見たいとかはダメだぞ」
「違いますわ」
アンジェは微笑みながら首を振る。
(そうよ……わたくしの……秘密を……)
「文房具屋さんですの」
「ハァ? 文房具?」
(リリアンさんに……)
兄の怪訝な声が、どこか心地良かった。




