13-2 秘密には鍵をかけて
遠くで、誰かが何かを話している声が聞こえる。
はい、よくお眠りでいらっしゃいます。そうか、起こしてしまっては可哀想だな。僕が出る前に起きたようだったら、それだけ知らせてくれるか?
(……待って……)
自分は確か、誰かを追いかけていた。暗い海の中、どろどろしたものを掻き分けて、待ってくれと叫んでいたのではなかったか。
承知いたしました。こちらはどうなさいますか? ん? ああ、自分の部屋でいただくよ。わざわざこっちに運ばせたのに、手間をかけるね。いいえ、うふふ、仲睦まじくいらして、羨ましい限りですわ。
(身体が重い……)
ははは、アンナも早くデュオと結婚すればいいじゃないか。本当ですわ、殿下があの朴念仁の尻を蹴飛ばしてやってくださいまし。よし、尻でいいんだな? 礼拝堂まで一息に蹴り飛ばしてやろう。まあ嬉しい、力一杯お願いいたしますわ。……少しだけ、アンジェの顔を見ていこうかな。それくらいならいいだろう。ええ、そうなさいませ。
息を吐くと、身体にまとわりつくものが急に布団に変わった。真っ暗だった視界が薄明るく、光を透かす瞼の赤い色になる。ここはわたくしの寝室ではないの? あれは誰の声? 身じろぎすると、手が何か固いものを握り締めている──
(……ミミちゃん?)
そう思い至った瞬間、頭の中が一気に晴れ渡り、アンジェはばちりと目を開いた。すぐ上には、薄い紗のかけられた天蓋。首を動かすと、入口からこちらに向かって来ている男の影──フェリクスがちょうど、紗に手をかけてベッドの中を覗き込んだところだった。
「おや、起こしてしまったかな、僕の天使」
視線が重なり、フェリクスは母を見つけた子犬のように微笑む。
「フェリクス様……おはようございます」
「おはようアンジェ、眠れたかい」
アンジェが起き上がろうとするのを押し倒して、フェリクスは悠々と口づけた。アンジェは布団の下でミミちゃんをそっとポケットに入れ、空いた手を婚約者の背中に回す。何度も触れたことがあるはずの王子の体躯は、触れる度に逞しくなっているような気がして、いつも少し驚く。フェリクスは婚約者の頬に触れ、耳朶に触れ、肩から背中とベッドの間に手を差し入れ、上半身を持ち上げて座らせて、それからようやく顔を離して青い瞳を覗き込んだ。
「体調はどうかな。朝食を食べられるようなら、ここで僕も一緒に食べてもいいかい?」
「もちろんですわ」
アンジェは微笑み、周囲を確認するそぶりで緑の瞳から目線を逸らす。真っ直ぐ見つめられるのが少し後ろめたいのは、ミミちゃんを隠したせいだろうか。視線の先では、先ほどの王子の会話の相手であろう侍女が朝食を乗せたワゴンをテーブルまで運び、ニコニコしながらテーブルクロスをかけている。窓から差し込む日差しは明るい。唇を重ねたところは、王子の背が死角になって見えていなければいいけれど。
料理はすべて保温器で温かいまま運ばれてきたようで、ほんのりと湯気と良い香りが漂う。パンにスープに卵料理にハム、サラダ、旬の果物、香り高いお茶。瞬く間にテーブルの上に整然と並べられたのを見てフェリクスは満足げに頷き、アンジェを恭しく椅子に座らせた。
「では、いただこうか。建国の女神と王国の守護神よ、今日の糧を感謝いたします」
「感謝いたします」
二人は手を組んで数秒目を閉じて祈りを捧げ、目を開けたところで視線が合い、ふふふと微笑み合った。それぞれ食事を始めながら、フェリクスは眩しそうに目を細める。
「素晴らしい朝だね、君とこうして朝食を楽しめるなんて」
「本当ですわ」
「昼食や夕食はよく一緒になるけど、朝食は滅多にないからね。僕は幸せだよ、アンジェ」
「もう……大袈裟ですわ」
アンジェはふるふると震えるオムレツを切り分けながら、ふと思いついて悪戯っぽく笑ってみせる。
「そのように仰るなら、昨夜はもう少しご一緒して下さればよろしかったのに」
「……そうかい?」
フェリクスはハムをフォークに刺しながら、驚いたような声を出す。
「治癒魔法を使った後は、とても眠くなるんだよ。だから、無理をさせてはいけないと思って、早めに退出したのだが……」
「…………」
アンジェは微笑むが何も言わない。フェリクスは目に見えて動揺して口許を手で隠したが、顔が赤くなるのまでは隠し切れない。
「……その、済まない、アンジェ。僕はまだ君の心を理解しきれていなかったみたいだ」
「知らない部屋で一人で寝かされて、アンジェリークは不安でしたわ」
「そうか、その、済まない」
「あれほど恐ろしい目に遭ったというのに、フェリクス様はわたくしを置いて行かれてしまって、わたくしのことなど取るに足らないと思っていらっしゃるに違いありませんわ」
「アンジェ、済まない、本当に」
「わたくしとても怖がりで寂しがりなんですの。毎晩わたくしが眠るまで手を握って、優しく愛を囁いてくださる方としか結婚いたしませんことよ」
「アンジェ……そんな……」
アンジェの言葉を何もかも真に受けて、ショックで呆然とするフェリクス。その顔があまりにも悲壮に満ち満ちていたので、アンジェは堪えきれずにクスクスと笑った。
「冗談ですわ、フェリクス様。そんなお顔をなさらないで」
「冗談……そうか……」
大袈裟なほどにフェリクスはため息をついてうなだれ、アンジェは満足してに微笑んだ。部屋の隅に待機している侍女が、堪えきれずに口許を隠して顔を背けている。
「わたくしの身体を慮ってくださってのことだったのですから、そのお心遣いを責めるなんていたしませんことよ」
「でも君の言う通りだ、アンジェ。昨夜は君を一人にするべきじゃなかった。侘しい思いをさせたね、本当に済まなかった」
「そうでもありませんわ、心地よく眠らせていただきましてよ」
否定の言葉を口にしつつ、内心ではそうかもしれない、とアンジェは思う。ゲームシナリオとして未来を知っているのに、予想外のことが起きた。そしてそれは、誰かがはっきりとリリアンに悪意を向けているという事に他ならなかった。もしかすると悪役令嬢が誰かに陥れられているのかもしれないことも。洗いざらい話して、自分から離れないでと縋って、それでもフェリクスの腕に抱かれて眠ることが出来たら、どんなにか心が安らいでいただろう。
「…………」
アンジェはリリアンの顔を──ミミちゃんを預かってくれと頼んできた時の顔を思い出す。
父親と共に退出する時の、仮面のように淡々とした表情も。
「どうしたんだい、アンジェ」
急に押し黙ってしまったアンジェに、フェリクスが不安げに尋ねる。アンジェはフォークに刺してしまったサラダを持ち上げるのをやめて、言おうとしている言葉を言うべきかどうか逡巡する。リリアンからはっきりと口止めされたわけではないが、ミミちゃんのことは誰にも言ってはいけない気がした。それが母親の形見であることも、父親に取り上げられてしまうかもしれないことも。
「……いえ。リリアンさんもこの場にいらしたら、と考えてしまいましたの」
「そうか、スウィート嬢」
ホッとしたのを誤魔化すようにフェリクスは微笑み、それから視線を落として思案顔になる。
「人のことをとやかく言うものではないが……厳しいお父上なのかもしれないね」
「ええ……わたくしもそのようにお見受けしましたわ」
「彼女が心配かい? アンジェ」
「はい……」
うさぎの人形をなくしたと言って、ポロポロと泣いていた少女。その手を握ってやった時の震えていた感触は、まざまざと思い出せる。
「何かわたくしに、お力添え出来ることがあれば良いのですけれど……」
「……そうだな」
フェリクスも神妙な顔で頷いた。
「昨日の事故のこともあるし、生徒会の業務でスウィート嬢と顔を合わせることも増えるだろう。僕も出来る限り気にかけるようにするよ」
「……え……」
アンジェのオムレツを切り分ける手が止まる。
(フェリクス様が、リリアンさんを)
(気にかける……)
みぞおちに刃をゆっくりと押し込まれたら、こんな風に痛むだろうか。
「……そうですわね。ぜひお願いいたします」
わたくし、今、綺麗に笑えている?
アンジェの顔を見てフェリクスが微笑んだので、きっと酷い顔はしていないのだろう。アンジェは口の端に力を込めながら再び視線をオムレツに落としたが、ナイフを動かそうとしても、どうしても手が動かなかった。
(そうよ……リリアンさんが、あのご様子でも……)
(フェリクス様のお心が動くことも、あるのだわ……)
フェリクスがリリアンに何かすることを望んで言った言葉ではなかった。アンジェ自身が、リリアンのスカラバディとして出来る限りのことをしてやりたい。アンジェは彼女に何をしてやれるだろうか。
それを、一緒に、考えてくれるものだと思っていた。
「…………」
「大丈夫だよ、アンジェ。君もスウィート嬢も今日しっかり休めば、明日にはアカデミーで元気な彼女に会えるだろう」
「……そう、ですわね」
アンジェが喉の奥からなんとか言葉を絞り出したところで、壁際に控えていた侍女が肩をいからせてテーブルまでずんずんと歩いてきた。傍らに立ってティーポットを取り、じろりと──それこそそういう音がするのではないかと思うほど剣呑な形相で、自分の主君を見下ろす。
「殿下。お茶のお替りはいかがでしょう」
「ああ、お願いするよ」
「かしこまりました。セルヴェール様はいかがですか」
「お願いいたします」
二人の返事を聞き、侍女はアンジェを見てにこりと微笑んだ。二人のカップを自分の近くに寄せ、てきぱきと茶葉をポットに足しながら、大きく深呼吸する。
「殿下。私は長年、殿下の近習として誠心誠意お仕えして参りました。殿下の誠実なお人柄を心より尊敬しております」
「なんだアンナ、ありがとう、急にどうした?」
「ですが今日は、今日この時だけは、お暇を覚悟で一言申し上げてよろしいでしょうか」
「暇? どうした、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
ギョッとしたフェリクスが見上げた侍女は、顔こそ笑っているが目が笑っていない。口許を引き攣らせ、こめかみに青筋を浮かべ、それでも優雅な動作でお茶をカップに注ぎ、フェリクスの席のソーサーに置く。
「殿下」
「……な、何だ」
気圧されたフェリクスの目の前で、もう一つのカップがアンジェの席のソーサーに置かれる。侍女はもう一度アンジェに向かって微笑み、力強く頷いて見せ、ギッとフェリクスの方に向き直った。
「殿下も、とんだ朴念仁であらせられます」
「ぼっ……──!!!???」
アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールは、婚約者が人前でむせるのを、生まれて初めて見た。




