悪夢的現実の目覚め
灰色の雲の上の空を、ちっぽけで巨大な鯨の群れが泳いでいる。
その暗い巨影から届く深い悲鳴の残響はオーロラのように広がり、切り出された彼らの傷口から垂れ流される流血は空に鮮やかな銀河を彩る。
苦節久遠。
その鯨は行き着いた果てであり、遥かな未来であり、捨て去った結末であり、研ぎ澄まされた極みであり、だからこそ始まりに近く、根源であり、彼らの遥かな旧い姿に酷似しているか同一だった。
そのまま暫く鯨の群れ眺めていると、元より傷を負っていた群れの幾匹かが血を吐きながら脱落していく。彼らの濁った断末魔は空によく響くが滞留する事はなく拭われる。
鯨たちの悲鳴は連なって、逃げ惑うその数は徐々に減っていく。
生命が生命である以上、その型式に拘るなら寿命という物は常に付き纏う。鯨たちは己の死〿と巡り会い、何よりも妥当な結末を辿った。
墜落して来る巨体は灰色の大気圏に接近するに連れて炎上する。暗い空との境界線である灰色の雲に触れる頃、鯨の遺骸の一部は煙へ変じて浮雲に混ざり、その他の多くが灰として大地に降り始めた。
この手で軽く掬えてしまう、吐息で簡単に飛ばせてしまう灰の一粒一粒が鯨の成れ果てだった。
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「……ん」
常緑樹にも関わらず不自然に紅葉した生垣の中で目を覚ます。
気絶していた。打撲と掠り傷塗れだが骨折はしていない。全身が古い痛みを感じているが大した問題ではない。走れる。
建物の3階から落下してこの程度で済んだのは幸運と言えるだろう。折れた枝葉を身体から払って立ち上がれば、病院内は未だ騒がしいが中にいる諸々が出て来ているような事はなかった。
「助けて!! 助けてッ!やだ…! どうして、何で!?」
どうやらこの状況の例外は私だけでは無かったようで、院内から齎された変化に順応出来なかった異端の悲鳴とそれを追いかける医療従事者の咆哮が聞こえてくる。
私が割った窓のある3階の中でも、逃げた私を後回しにして近場の異端を捕まえる事に専念しているようだった。
「やめろ放せやだやだやだやめろ!!!!」
「ぎゃぁああああああああッ!!!!」
麻酔という概念は無くなったらしい。
皮を剥ぐ音と共に継続する断末魔のような絶叫が、痛みのあまり異端が気絶するまで病院内から鳴り響いていた。
そして私もあまりうかうかはしていられない。
彼らの処置が済めば、次は私なのだから。
太陽は空の中心で固定されているが、時刻としては現在が午前8時頃だ。
私が眼球の破片を袋に詰めて玄関から出たのが午前6時17分16秒であり、時刻を正午と仮定した場合の体内時計や人間活動のズレの謎はこれにより解消された形になる。
アレは単に通勤ラッシュ前、人々が巣穴から溢れ出る前だったのだ。
「……尤も、今の彼らを人と称していいかは怪しいかな」
裏路地の物陰に身を隠し、表通りで起きている事を俯瞰する。
ほとんどが不定形で皮の無い肉と血と化膿で構築された人々の中にあって、概ね星型──一つの胴体につき頭と四肢を突起として持つ──異端はそれはよく目立つ。
だが、良くも悪くも彼らは医者ではなかった。その気質故に間違いを正そうとせず、また大勢が問題に関与しようとせずに無視する事を選んでいた。
だが、世の中はそうした一般人ばかりではない。より観察していると、従来型の人類を積極的に追い回す個体がいる事に気が付く。
「助けて! 誰か助けて!? 誰もいないの!? 皆どこなの!?」
逃げている一人の足に、血に濡れた触手が絡みつく。もつれた足に倒れ込む身体。そんな彼女の身体に影が差す。
「───あ」
それは太く練り上げられた触手の束、ちょっとした肉の塔とすら呼べるもの。
そんな物が自分に向けて振り下ろされるのを、女はただ自分に降り掛かった運命を最後まで理解出来ないままに見つめる事しか出来なかった。
衝撃、破砕音。
断末魔すら出せず逝けた事はせめてもの幸運だっただろうか。
一方で従来型人類の女性を一人ミンチにした現行の肉塊型人類は困惑しているように見えた。まるで地面のシミ、たった今自らが叩き潰したそれが生きていない事を理解していないように、残骸としか呼べないそれに触れたり呼び掛けたりしている。
「──端から殺す気はなかった。制圧、拘束のつもりだった…か」
振る舞いからして恐らくそれは警官だった。あるいは警官としての役割を持つ何か。
従来型人類が現行人類からどういった扱われ方をしているかは不明だが、どうやら少なくとも現行人類側は従来型人類へ同族意識を持っているらしい。
恐らく彼らからしてみれば、『昨日まで自分と同じ肉塊だった家族や友人が突然よく分からない星型の生物に変貌した』という認識なのだろう。
「結果、何も知らない従来型人類は周囲の人間全てが突然化け物になったと思い逃走……」
そんな状況で、家族からすれば逃げた従来型人類を捕まえようと警察や知り合いを頼るのは至って自然な反応だ。
今も表通りではパジャマ姿の子供が肉塊の高く持ち上げられて泣き喚いている。程なくして伸ばされた触手が肉と皮膚の境界を探し、唇と瞼に取り付いた。
間違った物を、有り得ない物を、その奥の梱包された中身を取り出すように、肉塊は子供の包み紙を強引に剥ぎ取った。
血が飛び散り、閉じる事の出来ない目がグルグルと高速で回転する。
肉塊──大人たちは困惑している。包み紙を取り払ったのにその中に有るべき子供の姿が戻ってこない。
だから彼らは止まる事無くもっと多くを剥ぎ取って、泣き喚き抵抗していた子供が全く動かなくなっても懸命に何かを探そうとして、結果としてぐちゃぐちゃになった残骸だけが残った。
どうにもならない残骸を搔き集めて、あるいはその中から家族を探そうとする肉塊の姿はいっそ哀れだった。




