赤変
「──ところで吉田君、空はいつから赤かったかな」
衛生基準が大幅に引き下げられたらしい病院で診察を受ける合間、世間話の体で私は掛かり付け医にそう問いを投げた。
想定通りにあまり期待していなかった回答を彼は返す。
「えっと……専門外なのでよく分かりませんが太陽と地球の自転と公転がどうこうで10年くらい前から日本に夜はありませんよ」
その答えを経て私は思考する。
少なくとも私の認識上では昨日の時点では日没は実在した。
医者の反応によって推測できる可能性はやはり3つ。
私がおかしいか、医者がおかしいか、世界がおかしいか。
「10年間も太陽に照らされ続ければこの国はただでは済まないとは思わないかい?」
「……おっしゃる意味がよく分かりませんが、私が医大を出た頃から空は赤いのでかれこれ30年ですよ。本当に大丈夫ですか、〿〿〿〿さん? やっぱり瀉血します?」
数秒前の自分の回答と明らかに食い違った事を告げる彼は、自らの発言の違和感に気付く事無くサツマイモ大に丸々と肥えた“ヒル”を此方に押し付けようとして来る。
勿論遠慮した。
「青い空は懐かしいかい?」
「何を言ってるんですか? 空は元々赤じゃないですか」
「そうだったね。おかしな事を言った」
私は1秒前とは根本から変わってしまった医者へ適当にはぐらかして答える。彼の目は充血して、さっきまで手に握っていた“ヒル”は癒着してその一部と化していた。
皮膚が溶けるように爛れ始めるが、医者が痛みや違和感を感じているようには見えない。
雨漏りのようにポタポタと血と溶けた皮の混じった物が診察室の床に垂れる。
「…やっぱり入院しましょう、〿〿〿〿さん」
左目の事を加味しても私より治療を必要としていそうな医者はそう言って私へ手を伸ばす。
此方に配慮した提案に見えて、私にはそれは捕縛に近い動作に見えた。しかし未だ緩慢であるそれを立ち上がり数歩下がって回避した頃には、彼の左腕は“ヒル”の一部だった。
「残念だけど、遠慮しておこう」
此処に来るまでに、少し寄り道をしていた。病室で今何が起こっているか既に知っている私は、とてもではないがその一部になる気になれない。
「入院…ヒッ、必要……」
「いいや、不要だ」
言い切り、“ヒル”の一部となった彼を置いて診察室を飛び出す。
とっくに血と滲み出た体液で汚れた白衣と、辛うじて残り今まさに消え掛けている霊長類の骨格の名残だけが変態前の医者の存在を伝える痕跡だった。
錆と血に塗れた非衛生の権化と化した廊下を走り抜ける。道中、開け放たれた病室の中で腐ったベッドに横たわる肉繭のようなものを“看護師”が世話しているのが見えた。
“看護師”は自らの一部を均等に切り取って“患者”に分配している。かと思えば逆に“患者”を千切って頬張り始めた。
私の認識上では昨日までは違う姿をしていた彼らは、彼ら自身の認識上では少なくとも60年近くその姿であった事になる。
そんな彼らからして、今の私はどう見えているか。
既に彼らは発声をしなかった。だが私に対して“間違い”を見咎め、それに怯え、恐怖し、あるいは怒り修正を試みようと腐敗した吐息の咆哮を肉だくの医療従事者たちは上げた。
「──さて、逃げるか」
情けなく思われるかもしれないが、私は決してあらゆる苦境を覆せる万夫不当の英雄などではない。此処はさっさと逃げるに限る。
仮に世界全てが変わり果て、変わらない物がただ一つ残っていたとして。
異常なのは最早変わる事の出来なかったそれであり、修正され除かれるべきなのはやはり過去の正常性だ。
ただ、納得してそれを受け入れた上で、彼らが私へ意図する行為は不毛も不毛なものである。
連鎖する咆哮と廊下に溢れる肉の群れは私を正しくしようと義憤に駆られ、いっそ善意すら有った。
彼らからして私は医者の指示を聞かず逃げている重病人なのだから当然だ。
そんな肉の群れに廊下の前後を塞がれ、端的に言って私は追い詰められている。
ただ、世の中に完全性が存在しない以上、いつだって突破口はあるものだ。
残った右目で劣化した窓と地上3階下にある生垣の位置を確認する。
「吉田君によろしく伝えておいてくれ」
何だかんだで10年の付き合いだ。ちゃんとしたお別れは言えなかったし、もう二度と会う事もないだろうが、それでも払うべき敬意と礼はある。
最後の最後で彼に対する質疑から得た情報も有用なものだった。
だからこそ迫り来て爛れた触手を伸ばす肉の群れに最後にそう伝え、脆くなった窓を肘で割った私はそのまま外へ身を投げた。




