変な患者
30年の大台を過ぎ、40年に差し掛かろうという吉田泰三の医者として生きた年数を振り返れば、“奇妙な事”にはそれなりに遭遇してきたつもりだった。
大学病院の幽霊や稀な事件・事故に見舞われた患者、精神的に不安定な相手との遭遇なんてものは可愛いもので、凄まじいものでは霊安室の中で動く遺体を目撃した事さえあった。死後硬直や体内で発生したガスの影響によりそういう事が起こり得ると吉田は先輩に教えて貰ったが、それは今でも常識的に納得出来たとは言い難い人生で最も奇怪な体験として彼の記憶に刻まれている。
───今日までは。
「──次の方、どうぞ」
それは日も落ちようかという時間、吉田にとって今日最後の診察となるだろう相手が診察室の戸を開いた。
「失礼。いつもすまないね」
「ああ、あなたでしたか〿〿〿〿さん」
それは見知った相手だった。近隣の住人で、初診の際に『病院の近くに越しておいて間違いはなかった』とまで言っていたから酷く印象に残っていた。
実際、約10年の付き合いになるがその中で〿〿〿〿は度々怪我や病に掛かって来院した。傷病の傾向に統一性は無く、元来の虚弱な体質により多種多様な症例を病院に持ち込むその存在は院内でちょっとした名物になっている。
何を隠そう吉田が経験した“奇妙な事件・事故による患者”とはここ10年における〿〿〿〿一人を差すと言っても過言ではない。
どんな状態でも〿〿〿〿は最後には五体満足でケロリとして退院するか、病院がお手上げ状態になった後でも後日平然と快復し別の傷病を伴って病院に現れる。
虚弱でありながら謎の不死身さを持っているのが〿〿〿〿という患者のもう一つの特徴だった。
「本日はどういった症状で?」
診察の定型に沿いながら、吉田はどこかワクワクと何かを期待していた。吉田はマッドではないが、他にはない症例の数々を自分に持ち込んでは生還する〿〿〿〿との年月の中で多少医者としては不適格な人格が育まれてしまったのかもしれない。
───今回も何か奇妙な事が起こり、そして何事もなく終わるだろう。
吉田はそう思っていた。
「目が痛くてね。左目に内側、より正確には眼底側から圧迫感を感じる」
「──目、ですか」
存外地味な症状に吉田の私情は鎮まり、真面目で経験豊富な医者としての当然の側面だけが残る。
「本来なら眼科の受け持ちなのだろうけれど、診察券を通したら自然と君へ送られてしまった。完全に私の主治医として見られているね、吉田君」
「まあ、そうですね」
言ってはなんだが、初診以来この病院内で〿〿〿〿という患者の事を最もよく理解しているのは吉田だった。その事実とこれまでに〿〿〿〿が生還を果たした実績から〿〿〿〿の事は吉田が対応するというのがいつしか定型になっていた。
ただ、前述した通り〿〿〿〿が快復した事例の全てに吉田が有効に貢献出来たとは言い難い。中にはほとんど何も出来なかった事さえある。
吉田の自認はあくまで平凡な一医者で、〿〿〿〿は腐れ縁の患者でしかなかった。
「──分かりました。ちょっと見てみますね」
〿〿〿〿の左目瞼に触れ、開いて固定しペンライトで中を覗く。
差し向けられた光源を見つめ返す眼球。
多少充血しているように見えなくもなかったが、来院した〿〿〿〿らしからぬ健康的な状態がそこにはあった。特にこれと言った異常は見つからず、子供が痒いからと手で擦ってしまった目の方がまだ重症に吉田には見えた。
かと言ってこの患者の性質上、単なる勘違いや仮病である可能性はほとんどあり得なかった。
だとすればこれはやはり自分の手には負えないと吉田は判断する。
「……やっぱり眼科に行きましょう。専門から見れば恐らく何か見つかると思います」
「そうか。やはりそうなるか」
「…何か問題でも?」
吉田がそう聞いたのは、〿〿〿〿がまるで眼科の世話になる事を渋っているように見えたからだ。だが、その問いへの答えはイエスでもノーでも無かった。もしかしたら答えですら無かったのかもしれない。
「問題が無かった事が問題になるかもしれない」
「……?」
この病院内で最も〿〿〿〿と関わりがあるのは吉田で、扱いや体質、過去の傷病歴を熟知しているのも吉田だ。それは事実である。
だが最上の理解は完全な理解を意味しない。
特に病院ではお手上げとなった状態から〿〿〿〿がどこか快復し再び現れた時など、驚く吉田たちの疑問に〿〿〿〿がまともに答えた事など一度も無かっただろう。
だが今回の〿〿〿〿の発言ははぐらかした訳ではないように吉田は感じた。
それは寧ろ何かを懸念しているように聞こえた。
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その後、院内の眼科部へ引き継いだ〿〿〿〿に吉田が直接関わる事は無かったが、患者への縁からカルテを見せて貰う事が出来た。
その結果は──清々しいまでの原因不明。
外観からの分析では何も分からず、眼球のCTスキャンまで撮っていたが何も分からないという結論が覆る事は無かった。
まあ大体、〿〿〿〿という患者の病歴を見ると5分の1程度の確率でこういった事が起こり得る。
「こういうパターンは2、3日で普通に快復するか。逆に悪化する。気を張っとけよ。悪化したら多分新症例だ。酷ければ論文が書ける」
「うわぁ…悪化しない事を祈りますね」
これまでの経験上のアドバイスをしつつ眼科医にカルテを返し、その日の勤務時間を既に終えていた吉田は暗くなった窓の外を横目に仮眠室へ向かう。
明日は朝が早い。家に帰っている時間を睡眠に当てたかった。
仮眠室のベッドに横たわり目を閉じる───が。
「……眠れねぇ」
気になるのはやはり、〿〿〿〿の事。単なる経験則だが、少なくとも〿〿〿〿が来院して“何も無かった”という事はこれまでに一度も無かった。
今回も確実に何かが起きる。
嵐の前の静けさ、何かの前触れを感じるようで緊張と不安とそこそこの期待が吉田の中で渦巻き、中々意識を落ち着かせてくれない。
結局、吉田が寝入ったのは自宅まで帰った場合の睡眠時間よりも押した時刻であり───。
吉田泰三は翌日寝坊した。
───だが、それを病院側や同僚から咎められる事はなかった。




