開幕からクライマックス
昨日、私の片目は酷く痛んだ。視界も何だか歪んでいる。当然医者に掛かったが、掛かり付け医からしても原因不明で心因性の何かではないかとの事だ。
心因性、便利な言葉だ。心は未知であるからこそ、知識で得られない解答の理由を人は心に当て嵌めたがる。
実際のところ、全てが終わってみてから結果を振り返ればそれは当たらずも遠からずだった。
だがこの時点では、少なくとも対外的にという枕詞さえ付くが身体的な原因はなかったのだ。そう判断したのは私ではなく医者だったが、私の判断は端からあまり宛てにならないので大した問題ではなかっただろう。
慣れた話、聞き飽きた話、日常的非日常、怪奇的平熱。
可能性こそ幾らでも並べられたが、それらは到達可能な無数の道の一つでしかなかった。
だからこそこの時点で私はあらゆる道を逸れて状況が狂い出しているとは知らなかったし、気付いたところで何かを出来た訳でもなかっただろう。
端的に言って、私には状況の進行を留める気も全く無かったのだ。
『後日何かあれば再度来院』という事後対応を前提とした退院措置を受け入れた私は、結局軽い痛み止めだけ処方され帰宅した。
けれど薬は飲まない。何故ならそれは治療薬ではないから。痛みを抑える必要は私にはない。だから我が家の箪笥の奥にはそうして無駄に積み上げられてしまった種々の鎮痛剤が収められている。
───元から痛みには強かった。
痛覚が鈍い訳ではない。寧ろ感覚は人より鋭い方だろう。その上で、眼球の内側で何かが沸騰して割れるような痛みというのは大した物ではなかった。
寧ろ継続して観察するべきだと思った。
日が落ちて暫く、そのまま状態の進行を眺めていると何かが決定的な閾値を超えてしまったのが分かった。
具体的には、そう、罅が入ったのだろう。
体温より熱く、ぬらりとした血の感触が眼窩から頬を伝って流れていく。
私は使い古した引き出しから新品の包帯を取り出し、それで左目を覆い閉じた。けれど包帯の下から湧き上がる血は留まる事無く、幾重かに巻いた白の表層に容易く沁み出してそれを赤く染めてしまった。
今回もまた尋常ならざるようで、今回は尋常ならざるようだった。
それは程度の差と慣れの問題であったと言えるだろう。
現状だけで判断するなら、今よりも酷い状態に陥った事は幾らでもある。誰も気付かない谷底で腐りながら燻っていた思い出はそう簡単に色褪せない。
だが、恐らくはその上で私は自らが気付きかけているそれに見ない振りをしたかったのではないだろうか。
自分の考えは分かる。しかし何故そう思考してしまっているのか、それが生まれる理由を私は知らない。明らかに出来ていない。
だからこそそれは制御の出来ないエラーだった。
───嗚呼、本当はとっくに気付いていた。ともすれば歩き出しの序盤から知っているのだから。
その上で、やはり私が観測を確定する事は無い。
あの状況から素直に寝床に入ったのは、恐らくは最早それ以外にするべき事も出来る事もなかったからだろう。
左目から流れ出した血によって寝床は事前の想定通り赤く染まっていた。
───少し予定外だったのは、最早完全に顔の左側に視界らしき要素をまるで感じなかったことか。
『塞がれている』が故の視界不良ではなく、『そもそも何も感知出来ていない』が故の視界無効。
「………はぁ」
予感に従って左目に指を突き入れれば、そこにあるべき包帯のヴェールは失われていて更にその奥にあるべきものも無くなっていた。
私の指先は本来触れるべきでない位置から肉膜に覆われた頭蓋骨を感じている。
ここで漸く私は枕元へ振り向いた。血を余計に浴びない為に、左半身を下に横向きで寝た私の枕は当然眼窩から垂れた血で真っ赤になっていたが、よく見ると“垂れた”と表するより激しく飛び散ったと表現出来る模様が枕とその下の寝床の上に描かれている。
そして私は既に更なる痕跡も見つけている。
血に染まった寝床の上、薄く透明な膜のようなそれを私は拾い上げる。
見慣れてはいないが見飽きてはいた。
何故ならそれは、私の左目の角膜の破片だったから。




