第3章:乾燥させた紫煙と、波打ち際の軍紀違反?
1.ニューギニアへの航路と、一本のタバコ
食後の穏やかな時間が、無人島の浜辺に流れていた。
佐藤上等兵は、三八式歩兵銃の背嚢から、大切そうに一本の平たいタバコを取り出した。
「ふぅ……。漂流した時はどうなることかと思ったが、天日干しをしておいて大正解であったな」
彼は、あらかじめ砂浜の上でじっくりと天日干しをして完全に乾燥させておいた、奇跡的に無事だったマッチを擦った。そして、パチパチと爆ぜる焚き火の火を器用にタバコの先端へと移す。
吸い込まれた息と共に、タバコの先端が赤く燃え上がり、ふうっ、と佐藤上等兵の口から美しい紫煙が吐き出された。南国の強い潮風に乗って、独特の煙の匂いが周囲へと緩やかになびいていく。軍人としての張り詰めた緊張が、その一本の煙と共に少しだけ解きほぐれていくようだった。
「しかし……ここは一体、どの辺りなのだろうな」
佐藤上等兵は、紫煙の向こうにある水平線を険しい目で見つめながら、ぽつりと呟いた。
「我が連隊を乗せた輸送船は、確かに大東亜戦争の最前線、ニューギニア方面に向かって航行していたはずなのだが。米軍の潜水艦に雷撃され、気がつけばこの島だ」
海からひょっこり顔を出し、自慢の金髪をいじっていた人魚のロロが、サファイアブルーの瞳をまたたかせて退屈そうに言った。
「この辺りで、こんな小さな島はここだけよ。時計も時代もめちゃくちゃな、ただの迷子の島なんだから」
「ふむ……そうか。ならば、ロロ殿。少しお願いがあるのだが」
佐藤上等兵はタバコを指に挟み、真面目な顔で海辺の人魚に向き直った。
「すまんが、沈没した我が軍の輸送船のハッチから、生活に必要な物資を海中から運んできてはくれないだろうか? 見ての通り、この島には海と、数本の椰子の木、そして鬱蒼としたジャングルしかないのでな。今後の持久戦のためにも、軍の兵站物資がどうしても必要なのだ」
その言葉を聞いた瞬間、ロロの美しい顔がみるみるうちにムッとした怒りに染まっていった。
「――はあ!? 何それ!? 私をただの便利な使いっ走りか便利屋だとでも思ってるわけ!?」
ドッパーン!とロロが尾ひれで怒りの水飛沫を上げる。
「決して、決してそのようなつもりではないんだが……! 皇軍の物資調達の一環として、だな……!」
ガチガチの堅物軍人である佐藤上等兵は、女の子の怒りスイッチが全く理解できず、額にタラタラと冷や汗をかいて激しく狼狽し始めた。
2.騎士道精神と、目撃された修羅場
「ふん、言い訳は見苦しいわよ!」
ロロはふくれっ面をしながら、浅瀬の岩場に身体を寄せた。そして、水面から白いしなやかな両腕を伸ばすと、なんとあろうことか、大慌てでうろたえている佐藤上等兵の首元に、大胆にもその両手を優しく絡めつけたのだ。
至近距離で弾ける、金髪人魚の甘い香りと、潤んだ青い瞳。
「だったら、その……『騎士道精神』ってやつで、もっと可愛く私にお願いしてよ。そうしたら、考えてあげなくもないわよ?」
「し、しかし……っ!?」
首に人魚の手をかけられた佐藤上等兵は、顔を真っ赤にして完全にカチコチに硬直した。
「い、いかん! 皇軍の厳格なる『軍紀』を乱すわけにはいかんのだ! 現地の麗しき婦人と、このような……その、破廉恥な距離感になるなど、軍法会議モノであるぞ……!」
「なによそれ! それが命の恩人に対する最初の言葉なわけ!? 照れてるんじゃないわよ!」
「照れてなどおらん! 規律の問題だ!」
ロロがさらに顔を近づけ、佐藤上等兵が「ううむ、これまでか……」と南国の空を仰いで決死の覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
ぞわっ……。
佐藤上等兵の背筋に、尋常ではない強烈な「視線」が確実に突き刺さった。
ただ事ではない殺気(?)を感じ、佐藤上等兵がロボットのような動きで恐る恐る背後を振り返る。
そこには――
アニメキャラTにグレーのスウェット姿のまま、呆然と立ち尽くす私と、その横で完全に頭を抱えているクマのぬいぐるみの姿があった。
「「…………」」
社交不安障害の私は、現代の学校でも見たことがないような「大人の濃厚な修羅場」を最前線で目撃してしまい、顔どころか、耳の裏まで真っ赤に染め上げて震えていた。完全に、見てはいけないものを見てしまった子供の表情だった。
「ち、違う! 誤解だ、水瀬殿!! クマ殿!!」
佐藤上等兵は飛び退くようにしてロロの手を振りほどき、悲痛な声を上げて両手をブンブンと振った。
「断じて不純異性交遊などではない! 私はただ、軍の生存に必要な物資の調達を、現地協力者であるロロ殿に命令していただけなんだ!!」
『命令』。そのお堅くて思いやりのない一言が、乙女心に火をつけた。
「――この、大バカ変態上等兵ーーーーっ!!!」
パチィィィィン!!!
静かな無人島に、もの凄く乾いた、小気味の良い打撃音が響き渡った。
ロロは涙目で力いっぱい佐藤上等兵の頬にビンタを喰らわせると、「もう知らないんだから!」とばかりに、サファイアブルーの尾ひれを激しく翻して海の底深くへと猛スピードで潜っていってしまった。
「ぐはっ……!?」
激しい戦闘や漂流にも耐えた佐藤上等兵だったが、女の子からの初めての容赦ないビンタの衝撃に、目を白黒させながら砂浜の上に見事な尻餅をついた。
静まり返る無人島の浜辺。
頬を真っ赤に腫らし、呆然と砂浜に座り込んだ佐藤上等兵は、腫れた顔のまま、なぜか一番近くにいた動く毛玉を見上げて、掠れた声で呟いた。
「……だ、大丈夫だ」
「いや、大丈夫じゃないのはお前の頭の方クマ……」
クマが本当に呆れたように深いツッコミを入れ、私はただただ、真っ赤になった顔を隠すように両手で覆うのだった。
(第3章・完)




