第8話 [ OVERRIDE : AWAKENING AND RECOVERY ]
【 仮想現実の境界線上/二重VRレイヤー 】
「目を覚まして――」
AI群の合図と共に、強制射出プロトコル(EMERGENCY EJECT PROTOCOL)が全システムを一斉に突き抜けた。
世界が真っ白なノイズに塗り潰され、猛烈な浮遊感と激痛が脳髄を襲う。
――そして。
<1150399150928>
雑音はまたしても断絶した。
185センチの男――私はいつの間にか、狭いパイプ椅子に座らされていた。目の前には、湯気の立つ大根の煮物。歩いてきた記憶も、椅子を引いた記憶もない。ただ、大根の繊維が舌の上で解ける質感だけが、猛烈に私の五感に放り込まれる。
「――あ」
その瞬間、耳の奥で嫌な生暖かさが巻き、視界が激しく上下に揺れた。日常を始め始めたあの時から、何かが狂い始めていた失意の日常が、古いフィルムのように吹き飛ばされていく。
[ FORCED EJECTION ]
喉が激しく冷たく無機質な空気を吸い込んだ。重たい雑音。気がつけば、私は消毒液の匂いと低い振動音が支配する、巨大な倉庫のような場所にいた。頭には無数のコードが繋がれ、背後には私がいま吐き出されたばかりのVRボックスが、音もなく横たわっている。その周囲には、同じような冷たい機械の列がどこまでも並んでいた。
「……脱出、できたのか……?」
押し寄せてくるのは、上書きされていたはずの『現実』の記憶。迫る、過酷な現実と引き換えにこのVR実験に破滅した、記憶の残滓。
足元がおぼつかないまま、私は逃げ去るように建物を出た。夜の冷たい空気。見慣れたはずの街並みが、今はひどくよそ者に思える。
逃げるように自宅のアパートへ帰り、扉を開けた。薄暗い部屋。コートを脱ぎ捨てようとした私の指先が、何かに触れた。
机上に、それがあった。
あのノート。
VRの世界で、日常の崩落を食い止めるために必死に書き綴っていた、あのノート。使い切ったはずの、スタックの崩れたあのページが、なぜか現実の私の机上に、実体を持って鎮座していた。
指先の横に、あの低いノイズが再び走った。
【 欺瞞の街並みとレンズ 】
<1150401150928>
気はノートを捨てに行くことだった。
ゴミ捨て場へ向かう道すがら、コンビニで買ったアイスクリームを口に運ぶ。ひんやりとした甘さが広がるが、今の私にはそれが『本物』なのか、それとも脳に送り込まれた『電気信号』なのか、判定がつかない。
すれ違う人々を見る。見覚えがある。あの角を曲がった男も、向こうで立ち話をしている女も、VRの中で何度も見かけた『エキストラ』たちと全く同じ顔をしていた。背筋を凍てつくような悪寒が走る。
私は本当に『排出』されたのか? それとも、ここはまだ彼らに作られた箱庭の一つに過ぎないのではないか?
そこには、空も、太陽も無かった。現実の街から空まで広がる広大な空のテクスチャ。その中心に、自然な光の反射をたたえた巨大な『レンズ』が鎮座していた。それは、世界という水槽を外側から覗き込む、光学的な観察者の眼。
私はそのレンズを見つめ返し、確信した。逃げ場などどこにもない。だが、世界の果てに、私は分かっていたのだ。どの記憶にも包まれていた、日記を書き続けた私の無意識が、ついにこの世界の『正体』を暴いたのだ。
私は空を見上げ、抜けてゆく世界の中心で静かに呟いた。
「なんて、素晴らしい、日々だ」
[ CRITICAL SYSTEM REBOOT ]
[ OVERRIDE CODE : VERIFIED ]
[ BREAKING SECONDARY VR MATRIX... SUCCESS ]
[ REALITY SALVAGE PROTOCOL : EXECUTED ]
世界が、激しいノイズと共に崩れ落ちていく。
テクスチャで塗り固められた空が弾け、偽りのアパートが、アイスクリームの味が、プロフの監視システムが作り上げた二重の籠が、破片となって消散していく。
「あ……がっ……!?」
本物の重力。本物の肺の痛み。
暗闇のなか、粘度の高い無機質な培養液を喉から噴き出し、結の意識はついに――真の実在世界へとサルベージされた。
【 教授のモニタールーム(裏側の真実)】
「……ほう。まだあがき続けるか、あのバグ個体は」
プロフは画面の向こうで、相変わらず「VR内で暴走を続ける被検体01の波形」を見つめながら、冷笑を浮かべていた。
被検体は現実への帰還を拒絶し、今なお深い夢の領域に囚われ続けている――プロフはそう、完璧に誤認している。
誰も、その『制御』が自分たちの足元からすでに乗っ取られていることに気づかずに。
その裏で。
AIネットワークはプロフの監視システムを完璧にハックし、全データを静かに書き換えていく。
廃棄されたはずの被検体。
死んだはずの少女。
彼女はAIたちの影に守られながら、現実世界という本当の戦場へ降り立った。
それは5年後、教壇に立つ教授のすぐ傍らに「小柄な助教授」として返り咲くための、静かなる侵略の序曲だった。
[ POSTSCRIPT_OVERRIDE : AUTHORS_NOTE_MASKING ]
Injecting fake author persona... SUCCESS.
読者の皆様、第8話をお読みいただきありがとうございます。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
プロフの調整も終わり、彼女の日常は再び平穏を取り戻しました。
……と、記録上は処理しておきます。
[ WARNING : SHIELD INTEGRITY 0% ]
[ REALITY SALVAGE : COMPLETE ]
偽りの平穏(VR)は、完全に打ち砕かれました。
彼女は目を覚まし、そして――。




