4-3-25 富士の女神
杏子たちは緊張した面持ちで周囲を見回していた。
吹雪は収まりつつあったが、耳に届くのは風の音と、雪を踏みしめる自分たちの足音だけ。
それでも杏子は獅子の剣を握り直し、低く言った。
「……来るかもしれない。気を抜かないで」
その声に、聖奈も愛蓮も思わず背筋を伸ばす。
聖奈は周囲を見回しながら、不安そうに呟いた。
「本当に神様なんているの? これだけ警戒してるのに、影も形もないけど……」
その瞬間だった。
冷たい風が一陣、音もなく吹き抜ける。
肌を刺すような冷気が頬を撫で、空気そのものが張り詰めた。
全員が反射的に立ち止まる。
すると背後から、凛と澄んだ女性の声が静かに響いた。
「──そら、来てやったぞ?」
三人が一斉に振り返る。
そこには、いつの間にか一人の女性が立っていた。
純白の着物をまとい、長い黒髪を風になびかせた姿は、この雪山の景色に溶け込むように美しい。
しかし、その瞳だけは人を寄せつけぬ静かな威厳を宿していた。
聖奈は息を呑み、愛蓮も言葉を失う。
杏子だけが、その姿から目を逸らさず静かに問いかけた。
「……あなたが、この山の神?」
女性――コノハナサクヤは小さく頷く。
その何気ない仕草だけで、空気がさらに重く沈んだ。
「お前たちが何のためにここへ来たのかは分かっておる」
杏子がわずかに眉を動かす。
コノハナサクヤは獅子の剣へ視線を向け、静かに続けた。
「その剣──異世界より流れ着いた力であろう。この地では、さぞ心細かろうな」
獅子の剣が微かに震え、低く応じる。
「……やはり、この世界の神か。察しがいい」
コノハナサクヤは静かに頷いた。
その眼差しには敵意ではなく、長い時を見続けてきた者だけが持つ静かな憐憫が浮かんでいた。
「異世界からの迷い子よ。我の力を、お前に授けてもよい」
聖奈は思わず声を漏らす。
「なんて優しい神様なんだろう……それに、すごく綺麗……」
その言葉が終わるより早く、コノハナサクヤは淡々と続けた。
「──ただし、代償がいる」
空気が一変する。
「富士の火口へ身を投じよ。神への信を示せ」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
沈黙が流れ、ようやく聖奈が半ば悲鳴のような声を上げる。
「え、ええ!? 火口に飛び込めって……本気で言ってるんですか!?」
「そうだ」
コノハナサクヤは表情一つ変えず頷く。
「それが試練だ。神の加護を求めるなら、それに見合う覚悟を示せ」
そこには脅しも悪意も、命を奪おうという敵意すらない。
ただ、人が神に従うことを当然としているだけだった。
聖奈と愛蓮は思わず顔を見合わせる。
愛蓮が疲れ切ったように呟いた。
「……杏子さん。確かにあなたの言う通り、この神様、気まぐれすぎません?」
杏子は肩をすくめ、小さく笑う。
「神っていうのはお願いを聞いてくれる相手じゃない。人間が勝手にそう思ってるだけ。力を貸して欲しいなら、こっちが合わせるしかないのよ」
コノハナサクヤに促され、一行は火口へ向かって歩き出す。
標高を上げるにつれ景色は荒涼とし、雪に覆われた大地の下から熱気が立ち昇り始めた。
愛蓮が不安そうに口を開く。
「これ、本当に行くんですか? 富士山って火山活動は落ち着いてるんじゃ……」
杏子は前を向いたまま答えた。
「そうでもないみたいね。ほら、見てごらん」
その直後だった。
大地が低く唸り、足元が小さく揺れる。
火口の奥では赤黒いマグマが煮え立ち、時折火花を散らしながら激しく脈動していた。
聖奈は思わず一歩後ずさる。
「聞いてないよ! こんなの無理に決まってるじゃん!」
愛蓮も火口を見つめたまま、息を呑む。
「やっぱり……一筋縄ではいかないみたいですね」
杏子は静かにため息をつき、獅子の剣を肩へ担ぐ。
そして二人を振り返った。
「で、誰が行く?」
その一言で、空気が凍りつく。
聖奈は反射的に首を横へ振り、愛蓮も引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
コノハナサクヤはそんな三人を静かに見つめたまま告げる。
「誰でも構わぬ。ただし、覚悟なき者が身を投じれば──神の炎はその身を容赦なく焼き尽くそう」
杏子はその言葉を聞いて、小さく口元を緩めた。
「なるほど。なら、やるしかないわね」
そう言って二人へ視線を向ける。
「さあ、どうする?」
その瞳には、すでに迷いはなかった。
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