4-3-26 女神の加護
マグマが煮えたぎる火口を前に、一行は足を止めていた。
熱風が容赦なく吹きつけ、硫黄の匂いが鼻を刺す。赤黒い岩肌の向こうでは、煮え立つマグマが生き物のように脈動し、今にも噴き上がろうとしている。
杏子が静かに一歩前へ出る。
鋭い眼差しで火口を見据えたまま、低く口を開いた。
「……私が行ってもいいわ。でも、この戦いは、あなたが始めたものでしょう? 聖奈」
聖奈のスマホには、ブラゼリオンのアバターが静かに浮かび上がっていた。
「神の加護を受ければ、私は本来の力を取り戻せる。そうなれば、杏子に頼らずとも戦える」
聖奈は思わず杏子を見返す。
杏子は獅子の剣を手放す可能性を承知の上で、自分にこの試練を譲ろうとしている。
だが杏子は、そのことなど最初から分かっていたというように、小さく肩をすくめるだけだった。
言葉を失う聖奈へ、今度は愛蓮が真っ直ぐ視線を向ける。
そこには励ましだけではない、静かな期待が込められていた。
──リーダーはあなた。オラクルコードを導くのは、聖奈さんしかいない。
言葉はなくとも、その想いだけは痛いほど伝わってくる。
しかし聖奈の視線は、ゆっくりと煮えたぎる火口へ落ちていった。
足が震えている。
自分でも止められないほどに。
「……無理だよ」
かすれた声が漏れる。
「こんなの……無理に決まってる……!」
その言葉を聞き、杏子は小さくため息をついた。
そして、どこか皮肉げに笑う。
「ふぅん。持ち主の勇気を倍増させるのが、伝説のデバイス《獅子の剣》だったはずだけど?」
その一言に、聖奈は耐えきれず叫んだ。
「私はただの女子高生だったの! つい先日まで普通に学校へ行って、友達と遊んで……そんな毎日だったの! こんな場所で、命を懸ける覚悟なんて、いきなり持てるわけないじゃない!」
その叫びを聞いても、女神コノハナサクヤは何も言わない。
ただ興味を失ったような冷たい眼差しで、聖奈を見つめているだけだった。その無関心さが、かえって聖奈の胸を締めつける。
杏子は火口へ視線を戻した。
「時間をかけると、この気まぐれな神様の気が変わるかもしれないわね」
そう呟き、獅子の剣を構え直す。
「結局、私が行くしかなさそうね」
「杏子、待って!」
聖奈が慌てて声を上げる。
しかし杏子は振り返らなかった。
「愛蓮、お願い。私が飛び込む間だけでも、バリアを維持して」
一瞬、愛蓮の表情が強張る。
だが迷っている時間は無い。彼女は小さく息を吸い直した。
「はい。でも、どこまで耐えられるか分かりませんよ」
愛蓮は真剣な表情で頷き、カルタリスを呼ぶ。
白い光が杏子を包み込み、薄く揺らめく障壁を形作った。
杏子は静かに息を吸う。
そして獅子の剣を高く掲げた。
「吼えろ──ブラゼリオン!」
瞬間。
獅子の剣が黄金の炎をまとい、その熱量は火口から吹き上がる熱風さえ押し返した。
杏子は一切ためらうことなく駆け出す。
そのまま火口へと身を躍らせた。
轟々と吹き上がる熱風が全身を包み込む。
カルタリスの障壁が熱を受け止めるが、神域の熱量はあまりにも凄まじい。
光の膜は徐々に薄れ、今にも砕け散りそうだった。
「早く……もう持ちません!」
愛蓮が歯を食いしばる。
ついに白い障壁が霧散した瞬間──杏子の姿は灼熱の中へ飲み込まれた。
「杏子!」
「杏子さん!」
二人の悲鳴が響く。
直後。
火口の奥で轟音が炸裂した。
燃え盛る獅子の剣が一閃すると、煮え立つマグマは左右へ大きく裂け、その衝撃で噴火口を覆っていた岩盤が次々と砕け散る。
さらに杏子は返す刃で岩壁を薙ぎ払った。
崩れ落ちた大量の岩石がマグマへ雪崩れ込み、赤く煮えたぎる流れを次々と埋め尽くしていく。
轟音が徐々に遠ざかる。
やがて噴煙の向こうから、一人の人影がゆっくりと歩いてきた。
肩には獅子の剣。
その姿には傷一つ見当たらない。
「やれやれ」
杏子は肩を竦める。
「なんとか間に合ったわね」
コノハナサクヤは、その一部始終を淡々と眺めていた。
彼女にとっては予想外もなく、逸脱もなく、ただ収束していく結果だけがそこにあった。
やがて小さく息を吐く。
「……つまらぬ見世物だったな。まあ、約束は守ろう」
女神が静かに手を差し伸べる。
無数の光の粒が宙に集まり、一つの鞘を形作った。
黄金に輝くその鞘には神代文字が刻まれ、神聖な気配が静かに漂っている。
「神代の金属で作った鞘だ。この鞘に納めている間のみ、剣へ魔力が供給される」
杏子は受け取ると、軽く眺めて苦笑した。
「あら、素敵。でも随分と使い勝手が悪そうね」
「道具を使いこなせるかどうかは、持ち主の器量次第だ。無理なら返しても構わないぞ?」
女神は興味も期待もない口調で言い放つ。
そして視線だけを聖奈へ向けた。
冷たく。
値踏みするように。
「勇気が足りぬなら、さっさと帰るがよい。凡人には神の試練は重すぎるだろう」
その言葉だけを残し、コノハナサクヤの姿は雪煙とともに静かに消えた。
火口には再び静寂だけが残る。
杏子は獅子の剣を新たな鞘へ静かに納め、小さく微笑んだ。
「さて、これで準備は整ったわね」
その声を聞きながらも、聖奈は動けなかった。
女神の最後の言葉が、胸の奥で何度も反響している。
勇気が足りない。
凡人には神の試練は重すぎる。
その言葉を否定することが、今の自分にはできなかった。
「……私は……どうすれば……」
その小さな呟きだけが、静まり返った火口に消えていった。
《第五部につづく》
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