4-3-10 理想の企業
恵麻がスパイとして迎えた初日は、予想していた以上に何事もなく終わった。
それから数日。
小桜は毎晩、自室のモニターに映し出される映像を確認し続けていた。
スパイ眼鏡は問題なく機能し、映像も音声も鮮明だ。恵麻が出入りする部署、社員同士のやり取り、施設内の設備──映るものは増えていくのに、決定的な異変だけは一向に見えてこない。
「今日も空振り、かな……」
小桜は背もたれへ身を預け、小さく息をつく。
「でも、ちゃんと動いてるなら、いつか収穫はあるよね」
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
「サーラ」
静かな声が部屋に響く。
グラビティウムだった。
「おぬしは、本当に何も起きていないと思うか?」
小桜は首をかしげる。
「え?」
「映像を、もう一度よく見てみるがよい」
言われるまま、数日分の記録を高速で再生する。
社員たちは朝になると席へ着き、決められた業務を淡々とこなし、時間になれば移動する。
誰も無駄話をしない。
誰も暇そうにしない。
誰も苛立たない。
誰も失敗しない。
映像が流れるほど、その整然とした光景だけが繰り返されていく。
小桜は再生を止めた。
「……あれ?」
違和感は、ごく小さなものだった。
しかし、一度気付いてしまうと、もう見過ごせない。
「雑談してる人が……一人もいない」
「そうだ」
グラビティウムが静かに頷く。
「人は理性だけで生きる存在ではない。多少の私語も、気の緩みも、失敗もある。それが集団というものだ」
画面には、今日も変わらぬ光景が映っている。
「だが、この組織には揺らぎがない」
小桜は映像へ視線を戻した。
確かに効率は良い。
理想の企業と言われれば、それまでかもしれない。
それでも、どこか息苦しい。
まるで全員が、同じ見えない規律に従って動いているような──そんな異様さがあった。
「……完璧すぎる」
思わず漏れた言葉に、グラビティウムが静かに応じる。
「自然な統制ではない可能性を考えるべきだ」
「魔法……?」
「その可能性は十分ある」
部屋に静寂が落ちた。
小桜はゆっくりと眼鏡の設計図を開く。
「この眼鏡は映像も音も拾える」
指先で回路図をなぞる。
「でも、それだけ」
ようやく気付いた。
この装置は現代技術を魔法で補っただけのものだ。
魔法そのものを観測する手段は、最初から持っていない。
「……私の設計ミスだ」
小桜は拳を握る。
「最初から、そこまで考えるべきだった」
「失敗ではない」
グラビティウムが静かに言う。
「ここまで調べたからこそ、足りぬものが分かった」
その一言で、小桜の表情が少しだけ和らいだ。
「なら、次は」
「現場だ」
迷いなく返ってくる。
「おぬし自身の目で確かめよ」
小桜は息を呑んだ。
ゼノン本社へ潜入する。その危険性は十分理解している。もし正体が露見すれば、自分だけでは済まない。
恵麻まで巻き込むことになるかもしれない。
それでも──。
モニターに映る整然とした職場を見つめながら、小桜は静かに立ち上がった。
「……やるしかないね。私が動かなきゃ、この謎は解けない。それに、このままじゃ恵麻さんまで、あの場所に飲み込まれてしまうかもしれない」
グラビティウムは静かに頷く。
「その決断の速さこそ、おぬしの強みだ。だが忘れるな。ゼノンは単なる企業ではない。相手は強大だ。失敗は許されぬ」
小桜は口元に小さく笑みを浮かべた。
「念入りに準備するよ。真正面から行くほど無謀じゃないって」
そう言うと、机に広げた資料へ視線を落とす。
「それに、こういう潜入工作なら、昔から何度もやってきた」
前世の記憶がふと脳裏をよぎる。敵地への潜入も、情報収集も、マスターウィザードとしては決して珍しい任務ではなかった。
「今回は魔法じゃなくて、この世界の技術も使える。だったら、むしろ前よりやりやすいくらいかな」
グラビティウムは短く息をつく。
「その自信は嫌いではない。だが、自信と油断は紙一重だ」
「分かってるって」
小桜は笑って頷いた。
「グラビティウムもいるんだから大丈夫。万が一の時はちゃんとフォローしてね」
「承知している。我も全力で支援しよう」
小桜はノートPCを閉じると、机に積まれた資料へ手を伸ばした。
ゼノン本社の構造、入館手続き、監視カメラの配置。一つひとつ確認しながら、頭の中で潜入の手順を組み立てていく。
やがて小さく息を吐き、自分に言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫。私なら、きっとできる」
その瞳には、もう迷いは残っていなかった。
ブクマで小桜たちの応援をお願いします!




