4-3-9 スパイ・ミッション
朝八時三十分。恵麻は研究施設の入り口でセキュリティチェックを受けていた。
指紋認証に続き、虹彩認証が行われる。わずか数秒の手順に過ぎないはずなのに、その時間が今日は妙に長く感じられた。
眼鏡に視線を向けられるたび、胸の鼓動が少しだけ速くなる。
(本当に大丈夫だよね)
内心で何度もそう繰り返す。
「はい、大丈夫です」
係員の一言とともにゲートが開き、恵麻は気づかれないよう小さく息を吐いた。
周囲では他の職員たちが慣れた様子で次々と施設へ入っていく。その何気ない日常に、自分だけが過剰に身構えていることが少し可笑しくもあった。
「おはようございます!」
いつも通り挨拶をしながらデスクへ向かう。
インターンとしての仕事は多岐にわたるが、基本は雑務が中心だ。今日も上司から一日の予定を伝えられる。
「恵麻さん、まずは昨日のデータ整理をお願いね。あと、会議室に資料を届けてほしい」
「はい、分かりました」
パソコンを起動し、昨日担当した資料のバックアップデータを整理していく。
上司が近づくたび、眼鏡に気づかれるのではないかと一瞬身構える。
しかし飛んでくるのは仕事の話ばかりで、誰一人として眼鏡を気にする様子はなかった。
十時を過ぎると、技術部門から依頼された機器点検の補助が始まる。
施設内で使用される端末や備品の状態を確認し、不具合があれば記録して修理依頼を出す。技術担当者の説明を受けながら、一つひとつ慎重に作業を進めていく。
「これでオッケーですか?」
「完璧。いい仕事してるね」
その言葉にほっとしながらも、恵麻は無意識に眼鏡へ触れそうになり、慌てて手を下ろした。
十二時になると昼休憩だ。
同じインターンの仲間たちと食堂へ向かい、窓際の席で日替わりのカレーを囲む。
「最近、機密エリアに入る仕事が増えてきたよね」
「うん。緊張するけど、やりがいもあるよ」
そんな会話を聞きながら、恵麻の胸は少しだけ高鳴った。
今日、自分も機密エリアへ入る。
眼鏡は本当に見つからないのだろうか。
午後一時からは書類整理や在庫確認などのデスクワークが続いた。
部署間の連絡役として施設内を何度も行き来するが、誰も彼女を呼び止めない。
何事もない。
それがかえって落ち着かず、恵麻は自分が少し神経質になりすぎていることを自覚し始めていた。
午後二時三十分。
いよいよ今日の予定である機密エリアでの作業が始まる。
スマートフォンを預け、再び厳重なセキュリティチェックを受ける。
胸の奥がどくりと鳴る。
それでも、眼鏡について指摘されることはなかった。
静かにゲートが開く。
(本当に、通れちゃった)
少し拍子抜けしながら、恵麻はエリア内へ足を踏み入れた。
ここでは特殊な機器のデータバックアップを担当する。
指導役の先輩が付き添い、丁寧に手順を説明してくれる。
「このケーブルを繋げて、こちらの端末でデータを確認して」
「はい」
言われた通り慎重に作業を進め、バックアップは問題なく終了した。
「お疲れ様! 今日は完璧だったよ」
「ありがとうございます」
笑顔で答えながらも、恵麻は心のどこかで拍子抜けしていた。
午後四時にはチームミーティングが開かれ、今日の進捗を報告し合う。
「本日担当した作業は順調に進み、問題ありませんでした」
簡潔な報告に上司は満足そうに頷く。
「その調子で引き続き頑張って」
「はい」
午後五時。
使用した機材を片付け、書類を整理し、業務完了のメールを送信する。
そして午後六時。
セキュリティカードを返却し、施設を後にした。
帰り道、人気のない場所で眼鏡を外すと、ようやく肩の力が抜けた。
今日は一日中、些細な物音や視線にまで気を張り続けていた。
それなのに、特別なことは何一つ起こらなかった。
ゼノンの仕事は終始平穏で、不審な出来事も見当たらない。
(もしかして、本当に何もないのかな)
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
恵麻はスマホの通信アプリを開き、小桜への報告内容を頭の中で整理した。
「異常なし」
たったそれだけの報告で終わらせていいものか、最後まで迷いながら。
ブクマで小桜たちの応援をお願いします!




