4-1-6 姉の豹変
杏子は、震える手で小桜からスマホを受け取った。
その画面には、ただ淡く光る《魔導AI》のアイコンが静かに浮かんでいるだけだった。
だが杏子の瞳には、それ以上のものが映っていた。
失われたはずの世界。
二度と触れられないと思っていた力。
そして、自分が置き去りにされた過去──それらすべてへ、再び手が届くかもしれないという狂おしいほどの渇望が、その目には滲んでいた。
小桜はそんな姉の横顔を静かに見つめる。
嫌な予感がしていた。この先へ進めば、きっと杏子は戻れなくなる。
それでも小桜は、止めなかった。
杏子は小さく息を呑み、意を決したようにアイコンへ指を触れる。
その瞬間だった。
スマホ画面が、音もなく漆黒へ染まった。
表示されているのは、何もない黒い空間。
ただ画面の片隅で、小さなカーソルだけが静かに点滅している。
不気味なほど静かな画面だった。
小桜は思わず身構える。
だが杏子は、その異様な静寂に呑まれるように、かすれた声を漏らした。
「……魔力転送……」
その言葉が口をついた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
まるで閉ざされていた何かが解放されたかのように、杏子の周囲で見えない風が渦を巻き、長い髪がふわりと揺れる。
次の瞬間、杏子の身体を、懐かしい感覚が貫いた。
失われたはずの魔力。
異世界で何度も感じてきた、あの奔流。
それが確かに、自分の中へ流れ込んできている。
杏子は息を呑み、その場で震えた。
そして次第に、その表情が恍惚へ変わっていく。
「……あぁ……」
漏れた声には、歓喜すら滲んでいた。
「やっぱり……!」
杏子は思わず笑みを浮かべる。
その笑みは次第に抑えきれない高揚へ変わり、やがて半ば狂気じみた笑いとなって部屋へ響いた。
「私にも……まだ魔力が宿っていたのね……!」
杏子は高揚したまま、天へ掲げるように手を伸ばす。
その目は熱に浮かされたように輝いていた。
「小桜……見える!? これが私の魔法の力よ! 私は、まだ終わってなかったの!」
小桜はその姿を見つめながら、小さく息を呑んだ。
予想していた。
だが実際に目の当たりにすると、想像以上だった。
杏子は魔法へ触れた瞬間、まるで別人のようになっていた。
興奮したまま手のひらへ意識を集中させる。
すると、その掌の上に小さな炎が揺らめいた。
赤く淡い火。
ほんの小さな火種だったが、それは確かに異世界の魔法だった。
炎は次第に勢いを増し、燃え上がろうとする──
だが次の瞬間。
ふっと、蝋燭の火が消えるように炎が消滅した。
「……え?」
杏子の笑みが止まる。
手のひらを見つめたまま、彼女は呆然と目を見開いた。
「な、なんで……?」
再び魔力を集中しようとする。
だが、もう何も起こらない。
スマホ画面には、無機質な文字が表示されていた。
《本日の転送上限に達しました》
その一文を見た瞬間、杏子の表情から熱が引いていく。
まるで、突然夢から叩き起こされたようだった。
小桜は静かにため息をついた。
「……やっぱりね」
その声はどこか冷静だった。
「そんな簡単に、大量の魔力を転送できるはずないと思ってた」
杏子はゆっくりと顔を上げる。
その頬はみるみる赤く染まっていった。
「……騙されたってこと?」
声が震えている。
「私に、こんな期待をさせておいて……!」
怒りと羞恥が入り混じった感情が、杏子の表情を歪ませていた。
「小桜……これも、あんたが仕組んだことなの?」
小桜は静かに首を横へ振る。
「違うよ、お姉ちゃん。何が起きるかなんて、私にもわからなかった。でもね、異世界から魔力を引っ張ってくるなんて、そんな都合のいい話ないって」
小桜はそっと手を差し出した。
「……返して、お姉ちゃん」
杏子は一瞬だけスマホを握り締める。
その指先には、まだ先ほど触れた魔力の感覚を手放したくないという未練が滲んでいた。
だが、やがて力なく息を吐くと、杏子はゆっくりとスマホを小桜へ返した。
小桜はそれを受け取り、軽く視線を落とす。
「たぶん、これは本当に“少しだけ”なの。向こう側から、一日に使える最低限の魔力を転送してるだけ」
だが杏子は、その説明を受け入れられなかった。
「そんなはずない……!」
声が裏返る。
「あの感覚は本物だった! 私は確かに、あの時の力を取り戻しかけていたのに……!」
小桜は姉の剣幕へ気圧されながらも、できるだけ穏やかに言葉を返す。
「お姉ちゃん、期待しすぎてたんじゃないかな……。そもそも魔導AIだって、本当に異世界と繋がってるのか完全には──」
「違う!!」
杏子は思わず叫んでいた。
その目には涙が滲んでいる。
「私は、本気で信じたのよ……!」
唇を震わせながら、小桜を睨む。
「この世界でも、もう一度魔法を取り戻せるって……! それが私にとって、どれだけ大事だったか、小桜には分からないでしょう!?」
その叫びに、小桜は胸を痛めた。
本当は、もっと何か言うべきなのかもしれない。これ以上深入りしないよう止めるべきだったのかもしれない。
だが、もう隠し通せる段階ではなかった。杏子は遅かれ早かれ、自分で魔法へ辿り着いていただろう。
それなら、せめて自分の目の届く場所で確かめた方が良かった──小桜は半ば自分に言い聞かせるように、そう考えるしかなかった。
小桜は静かに視線を落とした。
「……お姉ちゃん、今日はもう寝た方がいいよ」
疲れたような声だった。
「落ち着いたら、また話そう」
杏子は悔しそうに唇を噛み締め、小桜を睨みつける。
「……もういい。出ていって」
杏子は低い声で呟いた。
「……うん」
小桜は小さく頷き、スマホを握り締める。そして部屋を出る直前、静かな声で言った。
「おやすみ、お姉ちゃん」
返事はない。
扉が閉まる音だけが、静まり返った部屋に小さく響いた。
廊下へ出た小桜は、足を止めて小さく息を吐いた。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせる。
けれど胸の奥には、薄く冷たい不安だけが静かに残り続けていた。
だが何も言い返さず、そのまま背を向けた。
肩を小さく震わせながら部屋を出ていく後ろ姿は、どこか痛々しかった。
小桜はその背中を見送りながら、静かにスマホを握り締める。
胸の奥に残っていた嫌な予感が、ゆっくりと形を持ち始めていた。
だが同時に、恐れていたことが現実になり始めているとも感じていた。
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