4-2-23 リアルの実戦
菫は智絵里のマンションを遠目に確認すると、隣接する建物の屋上へ静かに身を潜めた。双眼鏡を構え、周囲を慎重に観察する。
やがて、カーテン越しに複数の人影が映るのを見て、わずかに眉をひそめた。
「やっぱり誰かが手を貸している。智絵里一人で、こんな事態を乗り越えられるわけがない」
OracleLionの「慎重に」という忠告が頭をよぎる。
だが菫は唇を噛み、その言葉を振り払った。
この機を逃せば、智絵里と、その背後にいる者たちはさらに厄介な障害になるかもしれない。その焦りにも似た思いが、彼女の判断を少しずつ鈍らせていた。
持参したアーチェリーセットを手際よく組み立て、矢筒を肩に背負う。
ひときわ冷え込む夜気を肺いっぱいに吸い込み、マンションの窓へ狙いを定める。
スマホの画面に浮かぶ魔導AIの補助術式が淡く輝き、矢先へわずかに魔力が流れ込んだ。
「……これで終わりにする」
低く呟いた瞬間、矢は疾風のように放たれる。
魔導AIによって軌道は極限まで研ぎ澄まされていた。
狙いは寸分違わない。
しかし、矢は窓へ鋭く突き刺さるだけで、堅牢な防犯ガラスを貫くことはできなかった。
「ちっ……強化ガラスか」
舌打ちしながら次の矢をつがえようとした、その時だった。
部屋の中で人影が動く。
窓際へ近づく人物。
そして、好奇心からか、それとも状況を確かめようとしたのか、窓が静かに開かれた。
その一瞬の隙を逃さず、菫は二射目を放つ。
だが──。
放ったはずの矢が消えた。
次の瞬間には、窓辺の女がそれを握っていた。
「な……!?」
菫は思わず目を見開いた。
女性はまるで最初から飛んでくる軌道を知っていたかのように矢を受け止め、こちらを真っ直ぐ見つめている。
そして、意味ありげな微笑を浮かべた。
次の瞬間。
女性は掴んだ矢を軽く構え、そのまま投げ返してきた。
放たれた矢は一直線に夜空を裂き、恐るべき精度で飛来する。
次の瞬間、菫が握っていたアーチェリーへ深々と突き刺さった。
激しい衝撃が腕へ伝わり、彼女は思わずその場へ尻もちをつく。
「な、なんなのよ……あれ……」
震える声が漏れる。
その時だった。
遠くから、低く囁くような声が風に乗って届いた気がした。
「カヴァリナ──」
誰かの名前を呼んだようにも、呪文のようにも聞こえた。
考える余裕すらない。
菫の頭は恐怖と混乱で真っ白になっていた。
慌ててアーチェリーを拾おうとするが、震える指先ではうまく掴めない。
窓際の女性は、なおもこちらを静かに見つめ続けている。
その視線だけで、全身が凍りつくようだった。
「ここは……まずい……!」
必死に立ち上がろうとする。
しかし腰が抜け、思うように力が入らない。
かつて絶対の自信を持って弓を引いていた少女は、今やただ一つ、「逃げたい」という思いだけに支配されていた。
—-
小桜はカーテンの隙間から、紫音が投げ返した矢が夜空を一直線に飛んでいく様子を見届け、思わず息を呑んだ。
まるで槍でも投げるような一投だった。
矢は遠くの建物にいた狙撃者のアーチェリーへ、寸分違わず突き刺さっている。
「紫音先輩……やり過ぎないでくださいね」
思わず慌てた声を上げると、窓際に立つ紫音は肩越しに振り返り、小さく笑った。
「あっちも威嚇のつもりだったみたいだからね。お返しに、少しだけ驚いてもらっただけ」
あまりにも余裕のある口調だった。
小桜は苦笑しながら、小さく息をつく。
緊急事態だったとはいえ、紫音が再インストールした魔導AIの力を、安全に引き出せるよう調整したのは自分だった。
だが、その判断は本当に正しかったのだろうか。そんな思いが一瞬だけ胸をよぎる。
「でも、矢を素手で掴むなんて……普通の人にはできませんよ。相手、本当に腰を抜かしてるかもしれません」
「なら、それでいいじゃない」
紫音は淡々と答えた。
「少なくとも、しばらくは軽率に近づこうとは思わないはず。智絵里さんへ危害を加える余裕もなくなるでしょ」
そう言って再び窓の外へ視線を向ける。
相手がまだ屋上から立ち去ったことを確認すると、その表情がわずかに引き締まった。
「小桜。相手の正体も目的もまだ分からない。だから、最後まで気を抜かないこと」
落ち着いたその声に、小桜は小さく頷く。
紫音がいてくれる安心感は確かにあった。
それでも胸の奥には、説明のつかない緊張が静かに残り続けている。
その不安が、ただの思い過ごしであってほしい──そう願いながら、小桜は夜の街を見つめ続けた。
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