4-2-14 蘇るゼノン
ゼノン・サイエンス社は揺れていた。
不正データ改竄の問題が外部へ漏れるのは、もはや時間の問題だった。しかし、その前に社内では少しずつ変化が起こり始めていた。
一部の良識ある社員たちが、「これ以上、不正を見過ごすわけにはいかない」と立ち上がったのである。
彼らは幹部へ直接働きかけ、隠蔽体質を改めるための改革案を提出した。透明性を重視した新たな企業方針は少しずつ社内へ浸透し始め、それはゼノン再生への、確かな第一歩となっていった。
しかし、その輪の中にアランの姿はなかった。
彼は社内の変化に目を向けることなく、自分だけが傷つかずに済む道を探し続けていた。
社員たちが会社を変えようと奔走する中、彼だけは机に向かい、密かに別の計画を進めていた。
そんなある日。
恵麻のスマホへ一本のメッセージが届く。
『君しか頼れないんだ』
かつてなら、その一文だけで胸が熱くなっていただろう。
だが今は違う。
その短い文章からさえ、焦りと余裕のなさが透けて見えた。
指定されたカフェへ向かうと、アランは落ち着きなく周囲を見回しながら店へ入ってきた。
以前の余裕ある笑顔は消え失せ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
席へ着くなり、彼は声を潜めた。
「ゼノンはもう終わりだ」
絞り出すような声だった。
「社内では改革なんて言っているが、そんなものは綺麗事に過ぎない。問題が表に出れば全部終わる」
「それでも立て直そうとしている人たちがいます」
恵麻は静かに答えた。
「理想論だよ」
アランは首を振る。
「会社なんてそんなものじゃない。沈み始めた船からは、一番先に逃げた人間が生き残る」
そう言うと、鞄から一本のUSBメモリを取り出した。
「これはゼノンの機密データだ」
その声だけが、少しだけ自信を取り戻していた。
「これをライバル企業へ持っていけば、向こうは俺を歓迎してくれる。当然、君も一緒だ」
机の上へUSBメモリを滑らせる。
「ゼノンに残っても未来はない。でも、俺についてくれば君は守れる」
恵麻はそのUSBを見つめたまま、小さく目を閉じる。
「君は……まだ俺を信じてくれるよね?」
震えるような問いだった。
恵麻はゆっくり顔を上げる。
その瞳には怒りも憎しみもなかった。
ただ、静かな哀しみだけが宿っていた。
「信じていました」
静かに言う。
「アランさんのことも、ゼノンのことも」
少しだけ微笑む。
「でも今なら分かるんです」
一呼吸置いて続けた。
「私が愛していたのは、私が勝手に作り上げたあなたの幻影だったんだって」
アランは息を呑み、言葉を失う。
恵麻は穏やかな声のまま続けた。
「私はゼノンが好きです」
その一言に迷いはなかった。
「不正に苦しみながらも、それでも会社を立て直そうと立ち上がった人たちがいます。
あの人たちを見て、ようやく気づいたんです。
私も、その人たちと一緒に前を向いて歩きたい」
「そんなものは甘い!」
アランは思わず声を荒らげた。
「会社なんてどうでもいい! 俺は生き残らなきゃいけないんだ!」
その必死な叫びは、かつて恵麻が憧れた研究者の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
恵麻は悲しそうに微笑む。
「アランさん」
ゆっくり立ち上がる。
「さようなら。私は、幻に憧れるのはもうやめます」
そう言い残し、静かに歩き出した。
アランは慌てて立ち上がり、何かを呼び止めようと口を開く。
だが、その声は最後まで届くことはなかった。
—-
ゼノン社では、その後も改革が着実に進んでいった。
透明性を重視した新たな経営方針が打ち出され、不正データ改竄の責任を取る形で複数の幹部が辞任。新たな経営陣のもと、社内には少しずつ活気が戻り始めていた。
インターンである恵麻にできることは決して多くない。
それでも彼女は、自分にできる仕事へ真摯に向き合い続けた。
かつて誰かに認められるためだけに研究へ打ち込んでいた自分は、もういない。
目の前で懸命に会社を立て直そうとしている人たちと肩を並べ、その一員として歩いていきたい。
そう思えるようになっていた。
「ゼノンは、もっと良い会社になれる」
その言葉には、以前のような盲信はなかった。
理想だけでもなく、現実だけでもない。
傷つきながらも前へ進もうとする人たちを信じる──そんな穏やかな決意が宿っていた。
—-
それから、しばらく経ったある日の午後。
杏子の家のリビングでは、テレビから経済ニュースが流れていた。
「次の話題です。ゼノン・サイエンスが一時低迷していた株価を回復させ、新体制が市場から高い評価を受けています」
アナウンサーの声とともに、画面には新CEOが社員たちを前に演説する様子が映し出される。
「透明性を重視した新たな経営方針が投資家からも支持を集めています」
続いてコメンテーターの笹木が口を開く。
「今回の改革は企業体質そのものを見直した点が大きいですね。市場では、ゼノンは再び成長軌道へ戻るのではないかという期待が高まっています」
そのニュースを何気なく眺めていた小桜が、小さく呟いた。
「へぇ……彼がCEOなんだ」
「誰のこと?」
隣にいた杏子が、すぐに反応する。
小桜は肩をすくめた。
「さあ?」
「……知り合い?」
杏子は半ば冗談のつもりで尋ねる。
どう考えても、妹がゼノンの新CEOと関わっているはずがない。
「どうだろうね」
曖昧な笑みだけを残し、小桜は再びテレビへ視線を戻した。
杏子は少しだけ怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は何も聞かなかった。
テレビの中では、新CEOへ惜しみない拍手が送られている。
小桜はその光景を静かに見つめる。
そして誰にも気づかれないほど小さく、満足そうに微笑んだ。
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