4-2-10 恵麻1
恵麻にとって、ゼノンという企業は理想そのものだった。
革新的な研究で世界を変える。
その理念に魅了され、大学の研究室で実績を積みながら、いつかその一員になることを夢見て努力を続けてきた。
そんなある日、大学で開催されたゼノン主催の企業セミナーに参加した恵麻は、そこで研究員アランと出会った。
彼はゼノンの研究の最前線について熱心に語りながら、参加者一人ひとりの質問にも丁寧に答えていた。
恵麻も自身の研究テーマに関する質問を投げかけたところ、アランは興味深そうに耳を傾けた。
セミナー終了後、彼は自ら恵麻へ声をかけてきた。
「君の研究、面白いね。ゼノンの方向性にも通じるところがある。よければ詳しく話を聞かせてもらえないか?」
そう言われた瞬間、恵麻の胸は高鳴った。
憧れ続けてきたゼノンの研究員に、自分の研究を評価された。
それだけで十分だった。
それからアランとは何度か個人的に会うようになり、研究や将来の目標について語り合う機会が増えていった。
「君みたいな人材がゼノンには必要だ」
アランはそう言って恵麻を評価した。
その言葉を聞くたびに、恵麻は自分の努力が認められたような気持ちになった。
やがてアランは、ゼノンのインターン枠に推薦するとまで申し出た。
彼の後押しがなければ、夢のようなゼノンでのインターンなど叶うはずもなかった。
恵麻にとってアランは恩人であり、憧れの存在だった。
インターンとしてゼノンに加わった恵麻は、アランのサポートを受けながら日々業務に励んだ。
しかし彼女が触れられるのは表面的なデータや補助作業ばかりで、研究の核心部分にアクセスすることは許されなかった。
それでも不満はなかった。
今は学ぶ時期なのだと、自分に言い聞かせていた。
いつかアランのように、本格的な研究を任される日が来る。
そう信じていたからだ。
そんなある日、アランがいつになく深刻な表情で恵麻を呼び出した。
人気の少ない休憩室で向かい合った彼は、目の下に濃い隈を浮かべていた。
「実は最近、社内で株価の低迷が問題になっていて、その責任を研究部門へ押し付けようとする動きがあるんだ」
「研究部門に……?」
恵麻は戸惑った。
ゼノンは業界トップクラスの企業だ。
株価低迷など想像もしたことがなかった。
しかしアランの表情は真剣そのものだった。
「僕も追及されている。実験データの改竄が問題視されていてね」
アランは苦しそうに視線を落とした。
「でも、あれは会社の指示だったんだ。それなのに全部僕の責任にされそうなんだよ」
恵麻は思わず息を呑んだ。
理想だと思っていた企業の裏側に、そんな話があるなど信じたくなかった。
だが、目の前で疲れ切った表情を見せるアランを疑うこともできなかった。
「本当は研究に集中したい。でも今はそれどころじゃない」
アランは力なく笑った。
「もし責任を押し付けられたら、僕はゼノンにいられなくなるかもしれない」
その姿に、恵麻の胸は強く締め付けられた。
「それは、あまりにも理不尽です」
思わず声が漏れる。
「アランさんのせいじゃないのに……」
「そうだよ。でも、僕にはどうしようもない」
アランは小さく首を振った。
そして、少しだけ声を落とした。
「それに、僕がこんな話をするのは君しかいないからなんだ」
恵麻は言葉を失う。
頼られた。
必要とされた。
ただそれだけで胸が熱くなった。
その言葉が本当かどうかを考えるより先に、力になりたいという気持ちが膨らんでいく。
「……実は、僕、妻と別れる決心をしたんだ」
「えっ?」
不意の告白に、恵麻は目を見開いた。
「ずっと迷っていた。でも、君と出会って気付いたんだ」
アランは真っ直ぐ彼女を見つめる。
「自分が本当に大切にしたいのは誰なのかって」
突然の言葉だった。
戸惑わないはずがない。
それでも恵麻は、その真意を疑うより先に、アランの真剣な眼差しを受け止めようとしていた。
「それで、僕は君に頼りたいんだ」
その言葉に、恵麻は疑いを持つどころか、アランへの信頼をさらに深めてしまった。
「私にできることなら、何でもします」
その答えを聞くと、アランは安堵したように微笑んだ。
恵麻はその笑顔を見ながら、自分の選択はきっと間違っていないのだと思い込もうとしていた。
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