4-2-7 逃げる女
ファミレスの店内を料理を運ぶ店員が行き交う中、杏子と謎の女は向かい合い、小さな声で言葉を交わしていた。
その様子を少し離れた席から、小桜がそれとなく見守り、会話に耳を澄ませている。
女は小さく首を振った。
「名前は……言えません。もちろん、どこの企業に関わっているかも」
杏子は表情を崩さない。
「では、笹木へ渡した資料は?」
問いを重ねると、女の眉がわずかに曇る。
「それも話せません。話したら……今度は私が消されます」
その言葉だけを残し、女は静かに椅子を引いた。
迷いを振り切るようにコートの襟を合わせると、そのまま足早に店を出ていく。
「ちょ、ちょっと待って!」
杏子は反射的に立ち上がり、その背中を追おうとした。
だが、一歩踏み出した瞬間、ちょうど料理を運んできた店員と肩がぶつかる。
「きゃっ!」
トレーが大きく傾き、グラスの氷が涼やかな音を立てて揺れた。
杏子は咄嗟に両手を伸ばえ、倒れかけた店員を支える。
「す、すみません!」
「い、いえ! こちらこそ申し訳ありません!」
互いに頭を下げる、そのわずかな数秒。
しかし、その短い空白だけで十分だった。
入口へ視線を戻したときには、女の姿はすでに人混みへ紛れ、どこにも見当たらない。
杏子は小さく息をのみ、唇をかすかに噛んだ。
「待ちなさい!」
その声だけが店内に響く。
小桜は状況を一瞬で察すると、テーブルの伝票をひょいと杏子へ押しつけ、軽く手を振った。
「お姉ちゃんお願い! 私、追う!」
「あっ、ちょっと、待っ──」
制止の言葉は最後まで届かなかった。
小桜はもう店の扉を押し開け、迷うことなく女の後を追って飛び出している。
杏子はその背中をしばらく見送り、小さく息を吐いた。
「……気を付けなさいよ」
静かにそう呟くと、伝票を手に取り、乱れた様子を見せることもなくレジへ向かって歩き出した。
—-
小桜は急ぎ足で女の後を追う。
女は人混みを縫うように歩きながら、ときおり足を止めて周囲へ視線を巡らせる。
そのたびに小桜は電柱や看板の陰へ身を寄せ、一定の距離を保ちながら後を追った。
「……尾行に慣れてる?」
思わず小さく呟く。
女は繁華街を抜けると、人通りの少ない裏路地へ入っていく。
その背中を見失わないよう角を曲がった瞬間──
女の姿が消えた。
「えっ……?」
思わず足を止める。
路地は行き止まりだった。
古びたコンクリートの壁と、雨風にさらされた木箱が積み重なっているだけで、人が身を隠せるような場所は見当たらない。
小桜は周囲を見回した。
(曲がってから、まだ数秒しか経ってない……)
逃げ切れる距離ではない。
それなのに、気配だけが跡形もなく消えている。
背筋を冷たいものが走った。
(まさか……)
慎重に一歩踏み出した、その瞬間だった。
「あなたも、ゼノンを潰したいのかしら?」
声が聞こえた瞬間、小桜は振り返る。
そこには女が立っていた。
俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
目が合う。
その瞬間、小桜は違和感を覚えた。
さっきまで怯えていたはずの目が、まるで別人のように笑っている。
口元も笑う。頬も笑う。
だが、瞳だけは笑っていない。
「ふふ……」
喉の奥で小さく笑い声が漏れる。
何かが壊れてしまった人間のものだった。
「あなたも……敵なのね」
小桜は無意識に一歩後ずさる。
その動きに合わせるように、女も一歩だけ前へ出た。
その距離の詰め方が、人間というより獲物へ近づく獣のようで、小桜は初めて本能的な恐怖を覚えた。
今になってようやく理解する。
彼女は逃げていたのではない。
こちらを、この場所まで誘い込んでいたのだ。
「しまった……」
完全に一杯食わされた。
その瞬間、ポケットのスマホから、低く響く声が漏れる。
「見事に主導権を譲ったな、サーラ」
グラビティウムの声音には、わずかな皮肉と呆れが混じっていた。
「……今それ言う?」
小桜は小さく唇を尖らせる。
だが、反論する余裕はない。
女はゆっくりと距離を詰めながら口を開いた。
「何かを知りたいなら、まずはあなたが正直に答えなさい」
冷たい笑みを浮かべたまま、小桜を見据える。
「その答え次第で……話くらいは聞いてあげる」
そう言うと、女はコートの内ポケットへ静かに手を差し入れた。
取り出したのは、一台のスマホだった。
その画面へ視線を落とした女の口元に、意味ありげな笑みが浮かぶ。
小桜は無意識に息をのむ。
女は何も言わない。
ただ静かに、スマホの画面へ指を伸ばした。
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