4-1-23 胸の奥の炎
翌日、紫音が剣道場に姿を現すと、そこに小桜の姿はなかった。
いつもなら、明るい声や軽やかな足音が道場の空気を和らげているはずなのに、その日は妙に静まり返っている。朝の挨拶を交わす部員たちの声さえ、どこかよそよそしく感じられた。
紫音は胸の奥に小さな違和感を覚えながら、顧問のもとへ歩み寄った。
「小桜さん、今日はお休みですか?」
顧問は一瞬だけ言葉を選ぶような表情を見せ、それから静かに頷いた。
「ああ。しばらく部活を休むことになったんだ」
そして少し視線を伏せる。
「……あんな事があった後だからな。無理もないだろう」
紫音の胸に、重いものが落ちる。
自分との練習試合。あの片手突き。
確かに小桜は首を押さえていた。痛そうにしていたことも覚えている。
だが、それほどだったのだろうか。
紫音にはどうしても信じられなかった。
あれほどの反応速度。あれほどの身のこなし。
自分の突きを最後まで見切っていた相手が、たった一度の打突で部活を休むなど。
むしろ、何か別の理由があるのではないかとさえ思えた。
小桜はまだ何か隠している。
まだ本気を見せていない。
そんな確信にも似た思いが、紫音の胸から離れなかった。
「来月の大会には……出てくるんでしょうか」
思わず問い返すと、顧問は短く答えた。
「そう聞いている」
それ以上は何も語らなかった。
紫音もそれ以上聞くことができず、自分の場所へ戻った。
しかし胸の奥に灯った暗い炎だけは、消えるどころか静かに燃え続けていた。
それが焦りなのか、執着なのか、紫音自身にもまだ分からなかった。
—-
その日から、紫音は一人で猛特訓を始めた。
小桜との勝負で感じた、自分に足りないもの。
突きを極めたと思っていた。
だが、それだけでは届かなかった。小桜は最後まで反応していた。避け続けていた。
あの異常な反射速度と判断力を思い出すたび、紫音の中に焦燥にも似た感情が湧き上がる。
もっと速く。もっと正確に。もっと深く。
道場には連日、鋭い打突音が響いた。
突き。また突き。そして、さらに突き。
その執念にも似た稽古ぶりに、部員たちは次第に距離を置くようになっていく。
以前の紫音は厳しくとも面倒見の良い先輩だった。
だが今は違う。
竹刀を握る姿にはどこか近寄り難い気迫が漂い、誰も気軽に声を掛けられなくなっていた。
気付けば、彼女の周囲だけ空気が張り詰めている。
紫音はそんな変化に気づいていなかった。
いや、気づいていたとしても、どうでもよかった。
頭の中を占めているのは、小桜との再戦だけ。
あの日、自分は勝った。
それなのに、なぜか負けたような感覚だけが消えない。
それを振り払うように竹刀を振るたび、胸の奥の暗い炎はむしろ勢いを増していった。
そしていつしか、もう一度勝ちたいという願いは、勝たなければならないという執念へと変わり始めていた。
—-
そして、試合の日がやって来た。
会場へ向かう紫音の足取りは静かだった。
不思議なほど心は落ち着いている。
だが、その静けさとは裏腹に、胸の奥では何かが歓喜していた。
小桜と戦える。
その事実を思うだけで、抑えようとしても口元に笑みが浮かぶ。
勝ちたい。否──
今度こそ、自分の方が上だと証明したい。
その思いだけが、胸の奥で熱を帯びながら膨れ上がっていた。
試合が始まると、その実力は観客の予想を大きく超えた。
紫音は相手の動きを見極める。
そして迷わず突く。
鋭く。正確に。無駄なく。
相手が対応する暇すら与えない。
一瞬で勝負が決まる。その圧倒的な強さに、会場は次第にざわめき始めた。
「すごい……」
「あの人、本当に高校生?」
「強いというより、何だか怖い……」
そんな声が観客席から漏れ聞こえる。
中には試合直前になって棄権を申し出る選手まで現れた。
紫音は勝ち続けた。
誰も彼女を止められない。
誰も彼女に届かない。
だが、そのたびに胸の奥には説明のつかない空虚さが広がっていく。
勝っている。圧倒している。それなのに、まるで満たされなかった。
違う。
自分が戦いたい相手は、こんな相手ではない。
小桜だ。
あの少女だけが、自分の突きに反応した。
あの少女だけが、自分を本気にさせた。
その思いは、試合を重ねるごとに強くなっていった。
—-
そして決勝戦を前にした頃だった。
会場の一角がざわつき始める。
紫音も何気なく視線を向けた。
その瞬間、思わず息を呑む。
入口に立っていたのは、小桜だった。
肩まで伸びた黒髪。
見慣れた道着姿。
しばらく姿を見なかった少女が、まるで何事もなかったかのようにそこに立っている。
どうやら彼女も順当に勝ち上がってきたらしい。
小桜は静かに会場を見渡し、やがて紫音へ視線を向けた。
目が合う。
そして、ほんのわずかに微笑む。
それだけだった。
それだけなのに、紫音の胸の奥で押し込めていた感情が一気に燃え上がった。
会いたかった。
戦いたかった。
確かめたかった。
自分の剣が、今度こそ届くのかを。
小桜の登場によって、会場の空気は大きく変わり始めていた。
これまで観客たちを支配していた緊張は、いつしか期待へと変わっている。
誰もが、この決勝戦を見たいと思っていた。
紫音は竹刀を強く握り締める。
胸の奥で燃え上がる炎は、もはや抑えようもなかった。
これは単なる大会の決勝ではない。
自分が積み重ねてきたすべてをぶつけるための戦いだった。
小桜に勝つ。
そのためなら、何を失っても構わない。
そう思った瞬間でさえ、紫音は自分がおかしいとは少しも思わなかった。
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