4-1-20 紫音2
夕暮れの帰り道、部活を終えた紫音は、自宅へ向かって静かな住宅街を歩いていた。
身体にはまだ稽古の熱が残っている。竹刀を振り続けた腕の重さや、踏み込みの感触が、わずかな疲労とともに心地よく残っていた。
だがその一方で、頭の中には先日の小桜との試合が何度も浮かんでは消えていた。
あの異様な反応速度。
相手の動きを“見てから”避けているとは思えないほどの身のこなし。
まるで、こちらの動きを先に知っていたかのようだった。
紫音は小さく息を吐く。
「……次は、もっと上手くやらないと」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた、そのときだった。
路地の奥から、押し殺したような悲鳴が聞こえた。
紫音は足を止める。
視線を向けると、別の高校の制服を着た数人の男子が、一人の女子生徒を囲んでいた。女子生徒は怯えた表情で後ずさりし、逃げ場を失っている。
その光景を見た瞬間、紫音の胸に鋭い緊張が走った。
考えるより先に、身体が動いていた。
「ちょっと、やめなさいよ。彼女が困っているじゃない」
静かな声だった。
だが、その場の空気を断ち切るような鋭さがあった。
男子たちは一斉に振り返り、紫音の姿を見ると嘲るように笑う。
「なんだよ、王子様気取りか?」
「関係ないなら引っ込んでろって」
紫音は答えず、手に持っていた竹刀袋から練習用の竹刀を抜いた。
夕暮れの薄明かりの中で、竹刀の先端が静かに揺れる。
すると、その中でも特に体格の良い男子が前へ出た。
「俺、フルコンタクト空手やってんだよ」
男は肩を鳴らしながら笑う。
「竹刀なんかで止められると思ってんの?」
その言葉に、紫音はわずかに息を詰めた。
フルコンタクト空手。
実戦的な打撃を主体とする格闘技だ。防具もなく、打ち合いを前提とした戦い方は、競技剣道とはまるで違う。
それでも、ここで退くわけにはいかなかった。
紫音はゆっくりと重心を落とし、相手の動きを見据える。
男は挑発するような笑みを浮かべると、躊躇なく踏み込んできた。
速い。
紫音が反応するより先に、重い拳が肩へ叩き込まれる。
鈍い衝撃が身体を揺らし、思わず足がもつれた。
「っ……!」
さらに二発、三発と打撃が飛ぶ。
剣道の間合いではない。竹刀を構えるより先に懐へ入り込まれ、紫音は防戦一方に追い込まれていく。
腹部へ深く拳がめり込み、呼吸が止まった。
肺の空気が一瞬で押し出され、視界が白く霞む。
「どうしたよ、剣道部?」
男は嘲るように笑いながら、紫音の竹刀を掴み、そのまま力任せに引き寄せた。
バランスを崩した紫音の背中が、路地裏の壁へ強く叩きつけられる。
息ができない。
喉が焼けるように苦しかった。
肺の空気が押し潰され、視界が白く霞む。
──まずい。
本能的な恐怖が全身を駆け巡った、その瞬間だった。
不意に、胸の奥から静かな声が響く。
(──この程度の輩、我が突きの敵ではない)
あまりにも落ち着いた声だった。
紫音が恐怖で震えているにもかかわらず、その声だけは不思議なほど静かで、確信に満ちていた。
次の瞬間、紫音の身体が半ば反射的に動く。
竹刀を握る両手が自然に中央へ定まり、足が滑るように踏み込む。
剣先が、一直線に伸びた。
それは剣道の試合で使うような穏やかな突きではなかった。
迷いも、躊躇もなく、相手の中心を正確に貫くためだけの一撃。
空気を裂く鋭い音が響いた。
「がっ……!?」
男の身体が大きくのけぞる。
竹刀の切っ先は喉ではなく、寸前で軌道を逸れ、胸の中心へ深く突き刺さっていた。
男は息を詰まらせるように目を見開く。そのまま数歩よろめき、地面へ崩れ落ちた。
辺りが静まり返った。
倒れた男を見下ろしながら、紫音は自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえるのを感じていた。
(……今の、私……?)
自分で放ったはずなのに、まるで誰か別の人間が動いたようだった。
一直線に“貫く”感覚。
あまりにも自然で、あまりにも危険な動きだった。
もし、直前で軌道がずれていなかったら。
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走る。
周囲にいた男子たちは顔色を変え、一斉に逃げ出していく。
絡まれていた女子生徒が、半泣きのまま駆け寄ってきた。
「あ、ありがとうございます……!」
紫音はようやく竹刀を下ろした。
緊張が解けた途端、遅れて手が震えていることに気づく。
「ううん……君が無事なら、それでいいから」
そう答えながらも、紫音の胸には妙なざわめきが残っていた。
自分は、本当にただ必死だっただけなのか。
あの瞬間、自分の中で何か別のものが動いた気がした。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
女子生徒にそう告げると、紫音は静かに歩き出した。
夕暮れの風が頬を撫でる。
だが心の奥には、拭いきれない違和感だけが静かに残り続けていた。
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