4-1-2 知らない妹
杏子が自宅の玄関をくぐった瞬間、胸の奥に微かな違和感が走った。
あれほど不思議な体験をした直後だというのに、自宅は何一つ変わらぬ姿でそこにあり、リビングからは家族の穏やかな話し声が聞こえてくる。まるで、自分だけが異質な夢から帰ってきたかのようだった。
杏子は小さく息をつき、少しだけ肩の力を抜きながらリビングへ足を踏み入れる。
その瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、見覚えのない少女の姿だった。
「杏子、おかえり!」
明るい声でそう呼びかけてきた少女は、まるで以前からそこにいたかのように、家族の輪の中へ自然に溶け込んでいた。
肩まで伸びた黒髪に、大きな瞳。年齢は十五、六歳ほどだろうか。母は特に気にした様子もなく、「小桜、ちゃんと挨拶しなさい」と促す。
すると少女は、少し照れたように笑みを浮かべた。
「おかえり、お姉ちゃん」
杏子は一瞬、言葉を失った。
自分に妹などいなかったはずだ。
それなのに、その少女は“突然現れた他人”ではなく、まるで長いあいだ家族として暮らしてきた存在のように、あまりにも自然にそこへ存在している。
違和感があるはずなのに、その違和感自体が周囲から否定されているようだった。
「……小桜ちゃん?」
戸惑いながら名前を呼ぶと、少女は嬉しそうに頷いた。
「うん、杏子お姉ちゃん。どうしたの? 疲れてる?」
心配そうに顔を覗き込む姿には、作ったような不自然さは感じられない。
杏子は何かの冗談かとも思ったが、両親はそれを当然のことのように受け入れている。やがて杏子は、自分の方こそ何かを忘れているのではないかと思い始めていた。
あの不可解な体験の影響で、記憶が混乱しているのかもしれない。
そう考えれば辻褄は合う。だが、それでも胸の奥には小さな棘のような違和感が残り続けていた。
もしかすると、小桜は自分を監視するために送り込まれた存在なのではないか──そんな不安が、ふと頭をもたげる。
それから数日が過ぎ、杏子は注意深く小桜を観察するようになった。
しかし、小桜はどこにでもいる普通の高校一年生にしか見えなかった。勉強や部活動に励み、友人たちとも楽しそうに過ごしている。杏子に対しても素直に懐いており、姉として慕っている様子が自然に伝わってきた。
少なくとも、誰かに命じられて監視を行っているようには見えない。
それでも杏子は、疑念を完全には捨て切れなかった。
一方で、杏子自身も大学生活へ戻り、少しずつ元の日常へ馴染もうとしていた。だが、あの異世界での体験だけは、どうしても頭から離れなかった。
魔法に触れた瞬間の感覚は、今でも驚くほど鮮明に残っている。
魔法学校で学んだ知識もまた、夢や妄想ではなく、確かな記憶として彼女の中に存在していた。
もっとも、この現代日本には魔力の源そのものが存在しない。
知識があっても、それを行使する術がないのだ。
杏子は大学の講義の合間に図書館へ通い、魔法について調べ始めた。科学理論やエネルギー工学の書籍を読み漁り、現代技術によって魔法を再現する方法がないかと思考を巡らせる。
しかし、手に入るのは物理学や工学の理論ばかりで、魔法の再現へ繋がるようなものは見つからない。
インターネットで「魔法」と検索しても、表示されるのは娯楽作品やオカルトめいた記事ばかりだった。
それでも杏子は諦めなかった。
夜になると自室へ戻り、大学で集めた資料や異世界で得た知識を書き留めたノートを机に広げる。
窓の外では夜の帳が静かに降り、家の中もすでに寝静まっていた。
デスクライトだけが薄暗い部屋を照らし、その光の中で杏子は資料を睨み続ける。少しでも突破口を見つけようと、思考を止めることができなかった。
この世界には魔法が存在しない。それなのに、自分の中には今でも、あの世界の記憶だけが鮮明に残り続けている。
そして不思議なことに、記憶を辿れば辿るほど、最後に思い浮かぶのは決まってひとりの少女だった。
自分を打ち破り、姑息な手段でこの世界へ送り返した、あの忌々しい少女の姿が。
そんな時だった。
控えめなノック音のあと、部屋のドアがゆっくり開く。
振り返ると、パジャマ姿の小桜が立っていた。
「お姉ちゃん、もう夜中だよ。いつまで起きてるの?」
少し不機嫌そうに眉をひそめながら、小桜が言う。
「ごめん、あと少しだけ……」
そう答えかけた杏子は、ふと違和感を覚えた。
小桜の目が、一瞬だけ妙に冷たく見えたのだ。
まるで他人を見るような、静かで冷ややかな視線だった。
──どんなに調べても無駄だよ。
──この世界には、魔法なんて存在しないんだから。
小桜の瞳が、そう語った気がした。
「……やっぱり、あなた……」
思わず口をつきかけた言葉を、杏子は飲み込む。
改めて見れば、そこにいるのは今まで通りの小桜だった。姉を心配して部屋へ来ただけの、ごく普通の妹にしか見えない。
杏子は、小桜が自分の調べ物を知っているはずがないことを思い出し、浮かび上がった疑念を無理やり頭の隅へ押しやった。
「わかった。もう少しだけ調べたら寝るよ」
杏子は小桜から視線を逸らすように言った。
小桜はその言葉に少し安心したような表情を見せ、「おやすみ」と静かに部屋を後にする。
ドアが閉まり、再び静寂が戻ってきた。
杏子は深く息を吐き、机に視線を落とす。
小桜はあまりにも自然に、この世界へ溶け込みすぎている。
それが、どうしても気にかかった。
もし彼女が何らかの目的を持って自分の側にいるのだとしたら、その理由を突き止めなければならない。
そして同時に、魔法を現代で再現する方法についても、必ず突破口を見つけ出したい。
その静かな決意だけが、深夜の部屋の中で、消えない火のように杏子の胸に残り続けていた。
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