4-1-13 鏡の暴走
「智絵里さん、もうやめて!」
小桜が制止の声を上げる。
だが智絵里は、その言葉など最初から聞こえていないかのように、静かな笑みを浮かべたままスマホを操作し始めた。
画面に表示されているのは、小桜のスマホにも存在している、あの魔導AIアプリのアイコンだった。
そして、智絵里がそれをタップした瞬間──
『本日の魔力転送が上限に達しました。現在の魔力蓄積率は100%です』
冷たく無機質な音声が、部屋に響き渡る。
その直後だった。
智絵里の身体から、さらに濃密な魔力が噴き出すように立ち上った。
部屋の空気が一変する。
重い。
まるで深海の底へ沈められたかのような圧迫感が、小桜の全身へ容赦なくのしかかった。
壁際の小物がかすかに震え、照明が不規則に明滅する。
配信画面のコメント欄も、一気にざわめき始めた。
『え、今なんか揺れた?』
『演出?』
『後ろ、誰かいる……?』
小桜の喉が強張る。
何かが来る。
その確信が現実へ変わるまで、ほんの数秒もかからなかった。
突如として、智絵里の背後に淡い光が浮かび上がる。
最初はぼんやりとした輪郭に過ぎなかったそれは、ゆっくりと人の形を取り始め、やがて一人の女性の姿へ変わっていった。
長い髪。
揺らめく衣。
鏡面のような淡い光を纏った、美しくも異様な存在。
その姿は、まるで古代の精霊が実体化したかのような神秘性と、肌を刺すような威圧感を同時に放っていた。
「……ようやく」
その存在は、恍惚とした声で呟く。
「ようやく、届いた……」
小桜は息を飲んだ。
その魔力の質、その存在感。
間違いない。
目の前にいるのは、伝説の魔法デバイス《双魚の鏡》──その真名、“アルシディア”だった。
アルシディアは、智絵里を見下ろしていた。
その眼差しには、懐かしさにも似た感情が宿っている。
だが同時に、それはあまりにも一方的で、危うい執着だった。
「ようやく……あなたを見つけた」
その言葉を聞いた瞬間、小桜の脳裏に、ある少女の姿がよぎる。
かつての親友──シェリー。
だが違う。智絵里はシェリーではない。
似ていても、別人だ。
「離れなさい!」
小桜は咄嗟に叫んだ。
しかしアルシディアは、小桜の声など意に介さない。
次の瞬間、智絵里の身体へ向けて、強い魔力を流し込み始めた。
「っ……!」
智絵里の身体が大きく震える。
苦しそうに息を荒げながらも、彼女はどこか恍惚とした笑みを浮かべていた。
その姿は、小桜の胸を激しくざわつかせる。
アルシディアに侵食されているのに、智絵里自身はそれを“救い”だと思い込み始めている。
「いかん!」
グラビティウムが鋭く怒鳴った。
「彼女はただの人間だ! そんな無理な魔力同期を続ければ、肉体が耐えられん!」
だが、アルシディアの瞳は揺らがない。
その視線は、智絵里の奥にいる“誰か”だけを探していた。
「私は……シェリーに会いたかった……」
その呟きと同時に、智絵里が苦悶の声を漏らす。
指先が痙攣し、呼吸が乱れ、肌にはうっすらと魔力の光が浮かび始めている。
このままでは危険だ。
小桜は直感する。
智絵里の精神も肉体も、アルシディアに呑み込まれてしまう。
「シェリーはここにはいない!」
小桜は必死に叫んだ。
「彼女は、元の世界で静かに眠ってる! 智絵里さんは、シェリーじゃない!」
その言葉に、アルシディアの動きが一瞬だけ止まる。
揺らぐように、その表情が歪んだ。
だが次の瞬間には、再び智絵里へ手を伸ばしていた。
まるで、その現実を認めることを拒絶するかのように。
「……まさか」
グラビティウムが低く呟く。
「サーラが転生したことで、他のデバイスたちまで、かつての主を探し始めているのか……?」
その言葉に、小桜はハッと息を飲んだ。
自分が現代へ転生したことは、それだけで終わる話ではなかったのかもしれない。
マスターウィザードの転生という異常事態が、何らかの形で世界に波紋を広げているのだとしたら──。
彼らは自らの“主人”を求めてこの世界へ干渉し、そしてアルシディアは、シェリーに似た智絵里へ辿り着いてしまった。
だが、それは決して救いではない。
智絵里は、智絵里だ。
誰かの代わりにされていい存在ではない。
そんな中、智絵里がふらりと立ち上がった。
その瞳には、熱に浮かされたような強い光が宿っている。
彼女はカメラへ向き直り、まるで何かに啓示を受けた預言者のような声で言った。
「みんな、聞いて」
コメント欄が一気に流れる。
智絵里は恍惚とした笑みを浮かべたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「私は、今日から“魔導士”として生まれ変わるの」
その声音は、以前の智絵里とはまるで別人だった。
柔らかな親しみやすさは消え失せ、代わりにどこか冷たく、絶対的な確信だけが宿っている。
「これからは、もっと多くの人に“本当の力”を見せてあげる」
「智絵里、やめて!」
小桜が叫ぶ。
だが智絵里は振り返らない。
彼女はスマホを握りしめたまま、ふらりと玄関へ向かって歩き出す。
まるで、自分が選ばれた存在だと信じ切っているかのように。
「……もう遅い」
グラビティウムが苦々しく呟いた。
「彼女は、自分が魔導の使い手だと信じ始めてしまった」
小桜は立ち尽くしたまま、去っていく智絵里の背中を見つめるしかなかった。
その姿は、憧れていたインフルエンサーのものとは思えなかった。
何か別の存在へ変わり始めている。
そんな恐怖が、静かに胸の奥へ広がっていく。
それでも小桜は、強く拳を握り締めた。
智絵里を止めなければならない。
彼女が完全に壊れてしまう前に。
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