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4-1-11 智絵里1

小桜は、まろをしっかりと抱きかかえたまま、意を決してマンションのエントランスに設置されたインターホンの呼び出しボタンを押した。


智絵里の部屋番号は、まろが何とか教えてくれた──ということにしておく。


小桜はカメラに映るよう、抱きかかえたまろを少し持ち上げながら声をかけた。


「えっと、初めまして。私は小桜っていいます。智絵里さん……まろを連れてきたよ。無事だったんだけど、部屋に入れないみたいで」


しばらくしてモニターが点灯し、そこに智絵里の顔が映し出される。


その表情は、驚きと安堵が入り混じったように見えた。


「……まろ?」


智絵里は目を見開いたあと、慌てた様子で何かを操作し、すぐにオートロックが解除された。


小桜は胸をなで下ろしながらも、想像以上にあっさり通れてしまったことに、かえって妙な不安を覚える。


「ふむ、上手くいきすぎだな」


グラビティウムが小さく呟いた。


姿は見えない。だが、その声だけは不思議とすぐ隣に立っているような感覚を伴っている。


「大丈夫だよ」


小桜は小声で返した。


「さっき智絵里ちゃん、コンビニでキャットフード買ってたから。きっと、まろの餌を切らして慌ててたんだと思う。そこに、ちょうどまろを連れた私が来たから……たぶん入れてくれるかなって」


「ほう。そこまで読んでいたか」


グラビティウムは感心したように低く笑った。


「伊達にファンやってないからね」


小桜はそう返しながら、エレベーターへ乗り込む。


やがて智絵里の部屋の前へ辿り着くと、玄関のドアがわずかに開き、その隙間から智絵里が顔を覗かせた。


「……入って」


どこか疲れ切ったような声だった。


小桜が中へ入ると、智絵里は短く礼を言い、すぐにまろを抱き寄せる。


「まろ……帰ってきたのね。ごめんね、餌切らしちゃってて……今すぐ用意するから」


智絵里は急ぐようにキャットフードを皿へ開け、まろが食べ始めるのを見届けると、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


その姿に小桜も安堵しかけたが、同時に、部屋の空気に妙な重たさを感じ取っていた。


室内は広く、洒落た家具で統一されている。


観葉植物や間接照明、整えられたインテリアには、SNSで見ていた“智絵里らしさ”も確かに残っていた。


部屋の隅には、配信で使っていたと思われるリングライトや化粧品が雑然と並んでいる。テーブルには開きかけのノートと学校のプリントまで置かれていて、つい最近までは、ごく普通の女子高生の生活がそこにあったことを感じさせた。


だが、その日常の上から覆い被さるように、塩の入った小皿や、意味の分からない図形を書き殴ったメモが点々と置かれている。


厚手のカーテンは昼間だというのに完全に閉じ切られ、空気は淀み、どこか息苦しい。明かりは点いているのに、部屋全体が薄暗く感じられた。


「ねえ、智絵里さん。少しだけ窓、開けてもいい? 空気入れ替えたほうが楽になると思うんだけど」


小桜が遠慮がちに言うと、智絵里ははっとしたように振り返った。


そして次の瞬間、怯えたように首を横へ振る。


「ダメ」


その声には、はっきりとした恐怖が滲んでいた。


「悪い霊が入ってきちゃうから。窓は絶対に開けられないの」


「悪い霊……?」


小桜は思わず眉をひそめた。


冗談や配信用の演出を口にしている顔ではない。


智絵里は本気で怯えていた。


「最近、ずっと感じるの。何かが近くにいるって……だから外を開けちゃダメなの。悪い気が入ってくるから」


智絵里はそう言いながら、自分の腕をそっと抱く。


以前SNSで見ていた、明るく堂々とした人気インフルエンサーの姿とは、まるで別人だった。


小桜は戸惑いながらも、どうにか空気を和らげようと微笑む。


「でも、まろもちゃんと帰ってきたし、大丈夫だよ。霊なんて、たぶん気のせい──」


だが、その瞬間だった。


智絵里の視線が、鋭く小桜を射抜く。


「違うの、小桜ちゃん」


その声に、小桜の背筋がわずかに強張った。


「私、あなたがまろを連れてくるところ……先に見えてたの」


「……え?」


「だから、ちゃんとキャットフードも買っておいたの。あなたが来るって、分かってたから」


小桜は息を呑んだ。


自分は、智絵里の行動を読んでここまで来たつもりだった。


だがもし、それすら彼女に見透かされていたのだとしたら──。


胸の奥に、冷たいものがじわりと広がっていく。


「……どういうこと?」


「予知だよ」


智絵里は当然のように答えた。


「最近ね、少しだけ未来が見えるようになったの。だから、小桜ちゃんがここへ来ることも、まろを連れてくることも、なんとなくだけど分かってた」


そう語る智絵里の横顔は、不思議なほど穏やかだった。まろが餌を食べる姿を見つめるその微笑みは優しい。


それなのに、小桜にはどこか異様なものに見えてしまう。


智絵里が、本気で“見えている”と信じていることが伝わってきたからだ。


「そ、そうなんだ……智絵里さん、なんだかすごいね」


小桜は努めて平静を装った。


だが内心では、不安が急速に膨らみ始めていた。


これは単なる思い込みなのか。


それとも、本当に何か異常な力が働いているのか。


「……前は、こんなんじゃなかったの」


智絵里は小さく呟き、まろの背を撫でた。


「最初は、ちょっと勘が鋭いだけだと思ってた。でも最近は、頭の中に急に知らない景色が浮かぶの。見たこともない場所とか、知らないはずの言葉とか……」


その声には、配信で見せていた自信満々な響きはなかった。むしろ、自分の身に起きている異変を、誰より本人が恐れているようにも見えた。


「小桜ちゃんも、もっと信じたほうがいいよ」


智絵里は静かに言った。


「未来ってね、ちゃんと見えるの。少しだけだけど……確実に」


その口調は夢を語るようにも聞こえた。


だが同時に、何かに追い詰められている人間特有の危うさも滲んでいる。


「……気をつけろ」


グラビティウムが低く囁いた。


「何か、尋常ではない気配がする」


小桜は小さく頷く。


智絵里の言葉は真実なのか。


それとも彼女は、何か得体の知れないものへ呑み込まれ始めているのか。


小桜の胸には、不安と同時に、彼女を助けたいという感情が強く芽生え始めていた。

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