4-1-10 今日の魔法
小桜は智絵里の後を追い、遠目からその様子を観察していた。
智絵里は足早に歩きながらも、何度も後ろを振り返り、時折ショーウィンドウのガラスへ視線を滑らせている。誰かにつけられていないか確認しているような、不自然な警戒ぶりだった。
だが、小桜は一定の距離を保ちながら、人混みに紛れるように静かについていく。
「ふむ、身のこなしは鈍っておらんな」
グラビティウムが感心したように呟いた。
「魔力を失ってなお、その追尾術を維持しているとは。さすがはマスターウィザードだ。そうでなければ、実戦であの技法は役に立たん」
小桜は少しだけ得意げに笑った。
「まあ、普段は役立たないけどね」
そっけなく返しながらも、その表情にはわずかな満足感が滲んでいる。異世界で叩き込まれた訓練の多くは、現代日本では持て余すものばかりだ。けれど、こうして不意に役立つ瞬間があると、長い年月をかけて積み重ねてきたものが無駄ではなかったような気がした。
やがて智絵里が曲がった先に現れたのは、少し奥まった場所に建つ高級マンションだった。
モダンで洗練された外観の建物で、エントランスには防犯カメラやカードキーの認証装置がいくつも設置されている。住民以外を簡単に寄せ付けない空気があり、智絵里も周囲を一度だけ確認すると、そのまま足早に中へ入っていった。
小桜はその様子を見届け、小さく肩を落とす。
「さすがに、あそこには入れないよ……」
「まあ無理もあるまい」
グラビティウムが静かに応じた。
「警備の整った場所へ侵入するほどの術式は、今のおぬしには使えぬ。いっそ今日は退くのが賢明だろう」
だが、小桜はすぐには頷かなかった。
「でも、せっかくここまで来たんだし……少しくらいなら、魔法を試してみてもいいかなって」
その言葉に、グラビティウムがわずかに沈黙する。
「……妙に肩入れするのだな、あの娘に」
「別に、ちょっと気になっちゃうだけ」
小桜はそう言って視線を逸らした。
「なんかさ、見てると放っておけないんだよね」
「……ふむ。おぬしなりに考えがあるなら止めはせぬ」
「うん。大きな魔法は無理でも、小さいのなら何とかなると思う。中を少し探るくらいなら、たぶん」
小桜は迷いなくそう言った。
グラビティウムは低く笑う。
「なるほど。我としても興味が湧いてきた。限られた魔力で、おぬしがどう立ち回るのか見せてもらおう」
小桜がエントランスを見つめながら思案していると、不意に視線の端で小さな影が動いた。
そこには、灰色と黒の毛並みをした一匹の猫が、ぽつんと座っていた。
猫はマンションのガラス扉をじっと見上げている。まるで誰かが開けてくれるのを待っているような、少し所在なさげな姿だった。
その姿に、小桜はふと目を細める。
「……あれ、もしかして」
小桜は声を潜め、スマホへ向かって囁いた。
「グラビティウム、あの猫……智絵里ちゃんの飼い猫かも」
「ほう?」
「前に投稿で見たことあるんだよね。名前は『まろ』。逃げ癖があるって笑ってた」
「ふむ、智絵里の飼い猫、か」
グラビティウムは重々しく呟いた。
「それがどうしたのだ?」
小桜は少し考え込んだ後、悪戯っぽく笑う。
「まろに聞けば、智絵里ちゃんのこと、少しくらい分かるかもしれないでしょ?」
「なるほど。猫を情報源として使うわけか」
「部屋にも出入りしてるだろうしね。案外、人間より詳しいかも」
まろは相変わらずエントランスの前に座ったまま、ガラス越しの建物の奥を見つめていた。
「おいで、まろ」
小桜はしゃがみ込み、優しく手を差し出す。
「少しだけ、智絵里ちゃんのこと教えてくれない?」
まろは一瞬だけ警戒するように小桜を見つめたが、やがて静かに近づいてきた。
灰色と黒が混じる毛並みはどこか気高く、それでいて警戒心も強そうだ。だが小桜には、その雰囲気がどこか智絵里自身と重なって見えた。
「猫の扱いも心得ておるな」
グラビティウムが感心したように言う。
「おぬし、これに魔法を使うつもりか?」
「ちょっとだけね。会話ってほどじゃないけど、気持ちを読むくらいなら」
小桜は小さく頷き、魔導AIを起動した。
本日分の魔力転送が行われ、ほんのわずかな熱が指先へ流れ込む。
それだけでも、小桜には十分だった。
彼女はそっとまろの頭へ触れ、静かに意識を集中させる。
「まろ。智絵里ちゃん、最近どうしてるの? 何か困ってたりしない?」
小桜は目を閉じ、猫の意識へ耳を澄ませた。
だが、まろはただ首を傾げ、小桜をじっと見返してくるだけだった。
しばらくして、グラビティウムが口を開く。
「……で、どうだった?」
小桜は困ったように笑い、肩をすくめた。
「うん。まろ、お腹すいたって」
グラビティウムは呆れたようにため息をつく。
「なるほど。実に優秀なスパイ猫だ」
だが、その声音はどこか楽しげだった。
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