本編回収編:女性の霊②
一番奥の部屋の前で、花は立ち止まった。
ドアの向こうから、気配が滲み出している。まるでドア越しに、こちらをじっと睨みつけているような、強烈な視線を感じた。
「ここですね」
花は蓮を振り返った。
蓮は無言で頷いた。その顔が、心なしか青ざめていた。
花はドアノブに手をかけた。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
その瞬間、部屋の中から、凍りつくような冷気が一気に溢れ出した。
部屋の中は、がらんとしていた。
誰も住んでいないはずなのに、空気が異様に重かった。新築特有の清潔な匂いの奥に、何か別のものが混じっている気がした。
花が一歩踏み込んだ瞬間、部屋の奥から気配が動いた。
みやびが、花の腕をそっと掴んだ。
「来ます」
次の瞬間、部屋の温度が一気に下がった。
蓮が短く息を呑む音がした。
部屋の奥、窓際に、それはいた。
中年の女性だった。普段着を身につけた、どこにでもいそうな普通の女性。けれどその目が、尋常ではなかった。こちらを射抜くような、激しい拒絶の眼差しで、三人を真っ直ぐに見つめていた。
『出て行って』
低い、押し殺したような声だった。
『ここには、誰も入れない』
「私たちは、あなたを傷つけにきたわけじゃないです」
花は静かに言った。
「ただ、話を聞かせてもらいたくて来ました」
『話すことなんて何もない。出て行って』
女性の霊の気配が、さらに強くなった。部屋の窓がびりびりと震え、蓮が思わず一歩後退った。
そのとき、みやびが前に出た。
小さな体で、真っ直ぐに女性の霊と向き合う。
「少しだけ、聞いてもらえますか」
みやびの声は、穏やかだった。けれどその声には、神様としての、静かな重みがあった。
女性の霊が、みやびを見た。
一瞬だけ、その目の激しさが揺らいだ。
みやびは女性の霊から視線を外さないまま、静かに続けた。
「あなたがここを守っているのは分かります。大切なものがあるから、誰にも踏み込んでほしくない。そういうことですよね」
女性の霊は答えなかった。
けれど、部屋を満たしていた凍りつくような冷気が、ほんのわずかに和らいだ。
「大切なものが、この建物の下に埋まっているんですね」
女性の霊の目が、かすかに揺れた。
『……なぜ、知っている』
「神だから、分かります」
みやびは穏やかに言った。
「あなたが守ろうとしているもの、ちゃんと見えています。そして、あなたがどれだけ長い間、一人でここを守り続けてきたかも」
女性の霊は、みやびをじっと見つめた。その目に、拒絶とは違う何かが混じり始めた。
『……信じろというのか』
「信じてもらえなくても構いません」
みやびは静かに言った。
「ただ、私たちはあなたの大切なものを奪いにきたわけじゃないです。あなたが守り続けてきたものを、ちゃんと守られるべき場所に届けたいと思って来ました」
長い沈黙が流れた。
部屋の窓の震えが、少しずつ収まっていった。蓮が、息を詰めたまま動かずにいるのが花には分かった。
女性の霊は、ゆっくりと視線を落とした。
やがて、張り詰めていた気配が、潮が引くように少しずつ緩んでいった。
『……掘り出す前日に、死んだ』
女性の霊は、絞り出すように言った。
『突然だった。朝、目が覚めたら、もうここにいた。自分が死んだことに、しばらく気づかなかったくらい、突然だった』
「誰にも、言えなかったんですね」
花が静かに言った。
『言えなかった。あそこに大切なものが埋まっていると、誰にも伝えられないまま、気づいたらマンションになっていた。だから、誰かが来るたびに、追い払うしかなかった。他にどうすればよかったのか、私には分からなかった』
女性の霊の声は、怒りではなかった。
ただ、途方に暮れた人間の声だった。
「何が埋まっているんですか」
花は静かに訊ねた。
女性の霊は花を見た。その目から、拒絶の色が少しずつ消えていった。
『……母の写真と、指輪。純金の、母が大切にしていた指輪だった。強盗が多くて怖くて、切羽詰まっていて、土に埋めていた。落ち着いたら掘り出して、ちゃんとした場所に置いてやろうと思っていた』
「ちゃんとした場所、というのは」
女性の霊は、初めて、柔らかい顔をした。
『ラキと一緒に眠らせてやろうと思っていた。先に逝った、私の大切な犬』
「ラキ、というんですね」
花は優しく繰り返した。
「どんな犬でしたか」
女性の霊は、少し驚いたように花を見た。形見のことではなく、犬のことを訊かれるとは思っていなかったのかもしれなかった。
けれどやがて、その表情がほぐれるように緩んだ。
『……白くて、小さくて、甘えん坊な犬だった。母が逝った後、私の側からずっと離れなかった。朝も夜も、どこへ行っても、ついてきた』
女性の霊の声は、今や怒りの欠片もなかった。
『ラキが逝ったとき、母の形見と一緒に眠らせてやりたいと思った。三人で、ずっと一緒にいられるように』
部屋の冷気が、すっかり消えていた。
花は胸の奥が温かくなるのを感じながら、女性の霊に向かって真っ直ぐに言った。
「必ず、届けます。ラキのところへ」
女性の霊は、花をじっと見つめた。
その目に、長い間そこになかったものが、静かに宿った。
安堵だった。




