番外編③:みやびの部屋
引っ越しの日は、十一月の晴れた日曜日だった。
朝から業者が来て、荷物を運び出した。
猫たちはキャリーケースに入れて、蓮の車で先に新しい家に連れていった。
みやびは花のそばにいた。
マンションが空になったとき、花は最後にもう一度、部屋を見回した。
棚の、ラジオがあった場所。
こたつを置いていた場所。
みやびのロフト。
「行きましょう」と花は言った。
「はい」と、みやびは言った。
ドアを閉めた。
鍵を返して、エントランスを出た。
外は、秋の光が満ちていた。
新しい家は、住宅街の少し奥にあった。
門を入ると、玄関まで小さな石畳が続いていた。
庭に木が一本、葉を落とした枝を広げていた。
春になれば、花が咲くらしかった。
玄関を開けると、蓮がいた。
「お疲れ様です」と蓮は言った。
「猫たち、とりあえずリビングに放しました。走り回ってます」
「みやびの部屋、先に整えます」と花は言った。
「もう始めてます」と蓮は言った。
「和室に荷物を入れてあります」
廊下を歩いて、和室に入った。
八畳の和室だった。
畳が新しくて、い草の匂いがした。
押し入れがあって、床の間があって、障子の向こうに縁側が続いていていた。
花と蓮が、和室の荷物を整え始めた。
みやびのために選んでいたものを、一つずつ置いていった。
小さな文机。
ふかふかの座布団。
蓮が見つけてきた古い行灯の形をした照明。
花が選んだ、柔らかい色の薄縁。
押し入れには、みやびのふかふかの布団を畳んで入れた。
最後に、床の間に小さな花を一輪、活けた。
花が振り返った。
みやびが、部屋の入り口に立っていた。
中に入れないでいた。
「入ってください」と花は言った。
みやびが、一歩、畳の上に踏み出した。
足元に、畳のやわらかさを感じているような顔をした。
ゆっくりと部屋の中を見て回った。
文机を見て、座布団を見て、行灯を見て、床の間の花を見た。
それから、障子を開けた。
縁側が現れた。
南向きで、冬の午前中の光が、縁側いっぱいに差し込んでいた。
庭の木の影が、縁側の板の上に落ちていた。
みやびが、縁側に腰を下ろした。
光の中に、みやびが座っていた。
白い光が、みやびの着物の上に落ちていた。庭から、風が少し入ってきた。
みやびが、目を閉じた。
しばらく、そのままでいた。
花と蓮は、和室の入り口から、黙って見ていた。
やがて、みやびが目を開けた。
振り返って、花を見た。
「……ありがとうございます」
声が、少し違った。
いつもの静かな声だったけれど、その奥に何か温かいものが混じっていた。
「約束しましたから」と花は言った。
「約束、覚えていてくれていたんですね」
「覚えていましたよ」と蓮は言った。
「花さんも、俺も」
みやびが、もう一度縁側の光を見た。
「……江戸の頃に死んで、座敷童子になって、三百四十二年経ちました」と、みやびは言った。
「誰かの家にいさせてもらいながら、長い時間を過ごしてきました。でも、自分の部屋というのは、一度もなかったです」
「今日からあります」と花は言った。
「……はい」と、みやびは言った。
うにが、和室に入ってきた。みやびの横に来て、縁側に上がって、日向に丸まった。
みやびが、うにを見て、微笑んだ。
「うにも、ここが気に入ったみたいですね」
「うにはみやびを選んでいますから」と花は言った。
「そうですね」と、みやびは言った。
「私も、この子が好きです」
リビングから、ドタドタと足音が聞こえてきた。
六匹が、廊下を走っていた。
のあが和室に飛び込んできた。畳の上を走って、縁側に上がって、外を見た。ラテが追いかけてきた。モカが入り口で止まって、畳の匂いを嗅いだ。
「おい」と蓮は言った。「ここはみやびの部屋だ。お前たちの場所じゃない」
のあが振り返った。気にしていなかった。
みやびが、笑った。
声を出して笑った。
花は、みやびが声を出して笑うのを初めて聞いた気がした。
「賑やかでいいですね」と、みやびは言った。
「私は、一人でいる時間が長すぎたので。こういうのが、嬉しいです」
その夜、引っ越しの片付けが一段落して、三人でこたつに入った。
新しいこたつは少し大きくて、三人でゆったり入れた。猫たちがこたつの周りに集まった。
「良い家ですね」と花は言った。
「でしょう」と蓮は言った。
「本領発揮しました」
「本当によく見つけてきましたね」
「まあ、縁があった物件だと思います。こういうのは縁ですよ」
みやびが、お茶を淹れてきた。三人分、湯飲みに注いで、こたつの上に置いた。
「みやびさんが淹れてくれたお茶、おいしいんですよね」と蓮は言った。
「そうですか」と、みやびは言った。
「嬉しいです」
三人でお茶を飲んだ。
庭に植わった木が、窓の外で枝を揺らしていた。春になれば花が咲く木が、冬の夜に静かにそこにあった。
「あのお悩み解決、本当に大変でしたね」と蓮は言った。
「五十五件」
「お互い様です」と花は言った。
「最初の頃は、わりとぎこちなかったですよね、俺たち」
「ぎこちなかったですね」と花は言った。
「龍水川で小豆洗いを観察していた蓮さんが双眼鏡を持っていたのは、今思ってもおかしかったですよ」
「あれは趣味です」と蓮は言った。
「双眼鏡、今でも持ってますよ」
「持ってるんですか」
「持ってます。いつ何が出るか分からないので」
みやびが、二人を見て、静かに笑っていた。
「みやびさんから見て、俺たちどう見えてましたか」と蓮は言った。
「最初の頃」
「最初は」と、みやびは言った。
「花さんが、声の出し方が分からない人でした」
「今は」
「今は、声が届く人になりました」と、みやびは言った。
花は、お茶を一口飲んだ。
声が届く人。
最初の頃の自分を思い出した。眠れない夜に、天井のしみを数えていた。頭の中の独り言がうるさくて、「これでいいのかな」という声が降ってきた。
今夜は、頭の中が静かだった。
「良かったです」と花は言った。
「本当に良かったです」と蓮は言った。
みやびが、静かに頷いた。
こたつの中で、そらが丸まっていた。
庭の木が、風に揺れていた。
新しい家の、最初の夜だった。




