終、その先までを
雨季の湿った空気にうねる髪は、何度撫で付けても落ち着かない。
アンナは諦めてそれを纏め上げると、紺の直毛を持つ男を思い出して恨めしく呟く。
「私のよりよっぽど綺麗なのよね、あれ」
彼の一族が代々受け継いで来たという美しい髪を、もう長い間見て居ない。
侯爵邸改めエンディル子爵邸となった屋敷はしかし、この3年間主人不在のまま。
時折慌ただしくやってくる青年は新緑鮮やかな夏に21歳となる。
彼が数年の後に屋敷の主となる人物なのだと紹介された当時、使用人の多くは驚きや不安を隠せずにいた。
「アンナさん、旦那様からお手紙ですよ」
「ありがとうございます。わざわざすいません」
いつかの乗合馬車で出会った少年達の母親が寄ってくる。相変わらず仲の良い親子は思わぬ形でのアンナとの再会を喜んでくれた。
アンナとロイのことを知った彼女等はひっくり返りそうに驚いていたが、ここまで平坦ではなかった3年を這いずりながらもやってこられたのは、彼女をはじめとした者たちの存在が欠かせなかった。
「いいえ、これがお勤めですもの。あの、差し出がましい事を聞きますが、旦那様はもうお戻りに?」
心配そうにこちらを覗きこむ彼女に、悪いと思いつつも我慢できずに笑い出してしまう。
「あぁ、ごめんなさい。旦那様なんて、まだ彼は子爵位を継いでもいないのに、なんだか仰々しいなあと思って。早く慣れないといけないとは思うんですけど」
「まあ」
女性は口元に手を当てて、アンナにつられる様に笑みを見せた。
「もうすぐ、帰ってくるみたいです。また宜しくお願いします」
爵位継承を決めてからというもののロイはまさに東奔西走。
時には国内外を走り回り、時には屋敷に日がな一日籠り、着実に“エンディル子爵”としての彼を形成していった。
その間アンナとはごくたまに顔を合わせる程度、未だに彼女はカルムの性を名乗ったままでついに27歳となった。
これ程離れて過ごすのは2人が出会ってから初めての事だったが、どちらも必死に日々をこなしている内に気づけば長い月日を経て居た――そう言って見せてもそんなものは虚勢だと、アンナは新婚の友人に、ロイは未だ健在の師に、それぞれ鼻で笑われた。
「少し隣にいってきます」
「はい、お気をつけて」
ブライアン家の屋敷を潰して建て替えられたのは、人目を引く邸宅だけではなかった。
その隣に設けられた小さな花園。ひっそりと館の影に隠れるようにして在るそこには、鮮やかな花々に囲まれた石碑が置かれた。
誰の名も、慰めの言葉もそこには無い。ただ、今は絶えた家の紋が刻まれているのみ。
「――」
アンナは長い間瞑目して、思いを馳せる。それは今では遠い夜の事であったり、小さな手を引いて過ごした日々、そしてこれから迎える未だ見ぬ先であったりした。
どれほどそうしていただろうか。背後で土を踏む音がして、彼女は眩しさに目を細めながら振り向く。
「アンナ」
記憶よりも幾らか大人びた男が、彼女を見下ろしていた。
かつて守るべき存在であった彼は、今彼女の少し先をひた走る。その道は大きくうねり、決して平らかなものではない。
「おかえりなさい、ずいぶん早かったわね」
「急ぎの用があったんだ」
どれだけ経っても変わらない2人の応酬が、懐かしいようでくすぐったい。
「ふうん、なにそれ」
アンナが片眉をあげて、挑発的に見上げる。
くすくす笑ったロイは、恭しく彼女の手を持ち上げた。
「知りたいなら、こちらへどうぞ。きっと君も気に入るからね」
紺青の髪がはためく。
手を取り合い、2人はまっすぐと先を見据えた。
(紺青の廻り fin)