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娼館に堕ちた悪役令嬢を、元婚約者の王太子はもう一度愛する  作者: ももにく


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9/22

9

王宮の執務室。


 レオンハルトは、一枚の報告書を何度も読み返していた。


「もう一度聞く」


 低い声が響く。


「マリアンヌを乗せた馬車は、本当に国境へ向かったのか?」


「はい。出発した記録までは確認されています」


「なら、なぜ国境にいない?」


「……分かりません」


 レオンハルトは報告書を机に置いた。


 胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。


 婚約破棄をしたあの日。


 マリアンヌは何度も言っていた。


――私は何もしていません。


――信じてください。


――殿下だけは、私を信じてくださいますよね?


 あの声が、頭から離れない。


「殿下」


 側近が口を開いた。


「追跡隊を出しますか?」


 レオンハルトはすぐに答えられなかった。


「……必要ない」


「しかし――」


「国外追放の命令はすでに出ている」


 自分でそう言いながら、胸が痛んだ。


「国境の向こうにいるなら、それでいい」


 側近は一礼する。


「承知しました」


 扉が閉まる。


 一人になったレオンハルトは、椅子に深く腰を下ろした。


「……これでいいんだ」


 自分に言い聞かせる。


 マリアンヌは罪を犯した。


 証拠もある。


 だから婚約を破棄した。


 王太子として当然の判断だった。


 そう思っているはずなのに。


 なぜか胸の奥がざわついて仕方がない。


 その頃。


 月影館。


 マリアンヌは暗闇の中にいた。


 目を閉じているのか、開いているのか。


 もう分からない。


「マリー」


 ミラの声がする。


「……はい」


「お水、ここに置くね」


「ありがとう」


 マリアンヌは手を伸ばす。


 けれど、コップに触れることができない。


 何度も探す。


「あ……」


 指先が空を切る。


「こっちだよ」


 ミラが手を添えてくれる。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいよ」


「でも……」


「いいの」


 ミラの声は優しかった。


 マリアンヌはコップを握る。


 水を一口飲む。


「……ミラ」


「なに?」


「私、ずっとこのままなのかな」


「……」


「一生、何も見えないの?」


 ミラは答えられなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


「そう……」


 マリアンヌは小さく笑った。


「じゃあ、もういいや」


「え?」


「何も見えなくても、生きていけるでしょう」


「マリー……」


「だって、もう見るものなんてないもの」


 ミラの胸が痛んだ。


「王宮も」


「……」


「家も」


「……」


「殿下も」


 最後の言葉だけ、声が震えた。


「もう、全部なくなったから」


 マリアンヌは笑った。


 けれど、その笑顔はあまりにも悲しかった。


 それから数日。


 マリアンヌはほとんど部屋から出なくなった。


 食事も少ししか取らない。


 話しかけても、返事は短い。


「マリー」


「……はい」


「今日は天気がいいよ」


「そう」


「庭に花が咲いてる」


「……そう」


 以前なら、きっと興味を持った。


 けれど今は違う。


 見えないものに興味を持つ意味がなくなっていた。


 ある夜。


 ミラが部屋へ入ると、マリアンヌは窓辺に座っていた。


「何してるの?」


「……分からない」


「え?」


「何をしているのか、自分でも分からないの」


 マリアンヌは笑った。


「暗いから」


 その言葉に、ミラは何も言えなかった。


「私ね」


 マリアンヌが呟く。


「最近、自分の顔が思い出せないの」


「……」


「鏡を見られなくなったから」


 ミラの目に涙が浮かぶ。


「だから……私がどんな顔をしているのか、もう分からない」


「マリーは……」


「うん?」


「ちゃんと綺麗だよ」


 マリアンヌは少しだけ笑った。


「ありがとう」


 その笑顔を見て、ミラは思った。


 この人は、少しずつ壊れている。


 そして――


 同じ頃。


 王都から離れた街の裏通り。


 一人の男が、酒場の主人に金貨を一枚置いた。


「数日前、この辺りで妙な馬車を見なかったか?」


「妙な馬車?」


「護衛を連れた馬車だ」


 主人はしばらく考える。


「……そういや、森のほうへ向かった馬車ならあったな」


「森?」


「ああ。だが、あそこは街道じゃない」


 男の顔が険しくなる。


「誰が乗っていた?」


「さあな」


「何か覚えていないか?」


 主人は金貨を見つめる。


「……女の声を聞いた気がする」


「女?」


「ああ」


 男は立ち上がった。


「どこへ向かった?」


「西の森だ」


 男は店を出た。


 その背中を、主人が見送る。


「……あんなところに何の用だ?」


 男は答えなかった。


 ただ、歩きながら小さく呟いた。


「もし、あの馬車が襲われたのなら――」


 脳裏に浮かぶのは、一人の令嬢。


「マリアンヌ……」


 そして初めて。


 レオンハルトは、彼女が本当に無事なのか確かめる必要があると感じ始めていた。

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