9
王宮の執務室。
レオンハルトは、一枚の報告書を何度も読み返していた。
「もう一度聞く」
低い声が響く。
「マリアンヌを乗せた馬車は、本当に国境へ向かったのか?」
「はい。出発した記録までは確認されています」
「なら、なぜ国境にいない?」
「……分かりません」
レオンハルトは報告書を机に置いた。
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。
婚約破棄をしたあの日。
マリアンヌは何度も言っていた。
――私は何もしていません。
――信じてください。
――殿下だけは、私を信じてくださいますよね?
あの声が、頭から離れない。
「殿下」
側近が口を開いた。
「追跡隊を出しますか?」
レオンハルトはすぐに答えられなかった。
「……必要ない」
「しかし――」
「国外追放の命令はすでに出ている」
自分でそう言いながら、胸が痛んだ。
「国境の向こうにいるなら、それでいい」
側近は一礼する。
「承知しました」
扉が閉まる。
一人になったレオンハルトは、椅子に深く腰を下ろした。
「……これでいいんだ」
自分に言い聞かせる。
マリアンヌは罪を犯した。
証拠もある。
だから婚約を破棄した。
王太子として当然の判断だった。
そう思っているはずなのに。
なぜか胸の奥がざわついて仕方がない。
その頃。
月影館。
マリアンヌは暗闇の中にいた。
目を閉じているのか、開いているのか。
もう分からない。
「マリー」
ミラの声がする。
「……はい」
「お水、ここに置くね」
「ありがとう」
マリアンヌは手を伸ばす。
けれど、コップに触れることができない。
何度も探す。
「あ……」
指先が空を切る。
「こっちだよ」
ミラが手を添えてくれる。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「いいの」
ミラの声は優しかった。
マリアンヌはコップを握る。
水を一口飲む。
「……ミラ」
「なに?」
「私、ずっとこのままなのかな」
「……」
「一生、何も見えないの?」
ミラは答えられなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「そう……」
マリアンヌは小さく笑った。
「じゃあ、もういいや」
「え?」
「何も見えなくても、生きていけるでしょう」
「マリー……」
「だって、もう見るものなんてないもの」
ミラの胸が痛んだ。
「王宮も」
「……」
「家も」
「……」
「殿下も」
最後の言葉だけ、声が震えた。
「もう、全部なくなったから」
マリアンヌは笑った。
けれど、その笑顔はあまりにも悲しかった。
それから数日。
マリアンヌはほとんど部屋から出なくなった。
食事も少ししか取らない。
話しかけても、返事は短い。
「マリー」
「……はい」
「今日は天気がいいよ」
「そう」
「庭に花が咲いてる」
「……そう」
以前なら、きっと興味を持った。
けれど今は違う。
見えないものに興味を持つ意味がなくなっていた。
ある夜。
ミラが部屋へ入ると、マリアンヌは窓辺に座っていた。
「何してるの?」
「……分からない」
「え?」
「何をしているのか、自分でも分からないの」
マリアンヌは笑った。
「暗いから」
その言葉に、ミラは何も言えなかった。
「私ね」
マリアンヌが呟く。
「最近、自分の顔が思い出せないの」
「……」
「鏡を見られなくなったから」
ミラの目に涙が浮かぶ。
「だから……私がどんな顔をしているのか、もう分からない」
「マリーは……」
「うん?」
「ちゃんと綺麗だよ」
マリアンヌは少しだけ笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見て、ミラは思った。
この人は、少しずつ壊れている。
そして――
同じ頃。
王都から離れた街の裏通り。
一人の男が、酒場の主人に金貨を一枚置いた。
「数日前、この辺りで妙な馬車を見なかったか?」
「妙な馬車?」
「護衛を連れた馬車だ」
主人はしばらく考える。
「……そういや、森のほうへ向かった馬車ならあったな」
「森?」
「ああ。だが、あそこは街道じゃない」
男の顔が険しくなる。
「誰が乗っていた?」
「さあな」
「何か覚えていないか?」
主人は金貨を見つめる。
「……女の声を聞いた気がする」
「女?」
「ああ」
男は立ち上がった。
「どこへ向かった?」
「西の森だ」
男は店を出た。
その背中を、主人が見送る。
「……あんなところに何の用だ?」
男は答えなかった。
ただ、歩きながら小さく呟いた。
「もし、あの馬車が襲われたのなら――」
脳裏に浮かぶのは、一人の令嬢。
「マリアンヌ……」
そして初めて。
レオンハルトは、彼女が本当に無事なのか確かめる必要があると感じ始めていた。




