10
それから、さらに数日が過ぎた。
マリアンヌは、ほとんど部屋から出なくなった。
目が見えない。
何をするにも、誰かの助けが必要だった。
それが、何よりも辛かった。
「マリー、お昼だよ」
ミラが食事を運んでくる。
「……ありがとう」
マリアンヌはベッドの上で答えた。
以前なら、自分で食器を持ち、綺麗に並べていた。
今は違う。
ミラに手を取ってもらわなければ、どこに何があるのかさえ分からない。
「少し食べよう?」
「……いらない」
「昨日もほとんど食べてないよ」
「お腹が空かないの」
ミラは心配そうに黙り込んだ。
「ねえ、マリー」
「なに?」
「もう少しだけ、生きようよ」
マリアンヌの指が止まった。
「……どういう意味?」
「そのままの意味」
ミラは静かに言った。
「ここで終わらないで」
マリアンヌは答えなかった。
やがて小さく笑う。
「私ね」
「うん」
「もう、何も期待してないの」
「……」
「殿下が迎えに来ることも」
「……」
「家族が探してくれることも」
「……」
「いつか元の生活に戻れることも」
マリアンヌは膝の上で手を握った。
「全部、諦めたの」
ミラは何も言えなかった。
その夜。
月影館の女主人が部屋へ入ってきた。
「マリー」
「……はい」
「明日から、あなたは正式にここで働いてもらうわ」
マリアンヌの身体が強張った。
「……目が見えないのに?」
「それでもできることはあるでしょう」
「私は……」
言葉が詰まる。
「嫌です」
「もう選べる立場じゃないわ」
女主人は淡々としていた。
「ここにいる限り、ここの決まりに従ってもらう」
扉が閉じる。
マリアンヌはしばらく動かなかった。
やがて両手で顔を覆う。
「……もう、嫌」
涙が指の隙間から落ちていく。
「どうして……」
誰に尋ねるでもなく呟く。
「私は何もしていないのに……」
その言葉だけは、何度絶望しても消えなかった。
自分は無実。
それだけは分かっている。
けれど――
証明する術はない。
味方もいない。
帰る場所もない。
そして今は、光すらない。
その頃。
王都では、一つの噂が広がり始めていた。
「ローゼリア公爵令嬢は、隣国へ逃亡したらしい」
「男と駆け落ちしたという話もあるぞ」
「王太子殿下との婚約が破棄されたのを恥じて逃げたんだろう」
「罪を犯したのだから当然だ」
根も葉もない噂だった。
だが、人々は面白がるようにそれを広めていった。
そして王宮にも、その噂は届いた。
「殿下」
側近が報告する。
「マリアンヌ様について、新たな情報が入りました」
「何だ?」
「どうやら……国外へ逃げたのではないかと」
レオンハルトの眉が動く。
「根拠は?」
「ありません。ただ、国境付近で見つかっていないため――」
「くだらない」
レオンハルトは報告書を机に置いた。
「彼女が男と逃げたなどという話を信じるな」
側近が驚く。
「殿下……?」
レオンハルト自身も驚いていた。
なぜ、そこまで強く否定したのか。
理由は分からない。
ただ――
あのマリアンヌが。
婚約破棄をされたからといって、何も告げずに男と逃げるような人間ではない。
それだけは、なぜか確信できた。
「もう一度調べろ」
「はい」
「馬車がどこへ向かったのか」
「承知しました」
「そして――」
レオンハルトは窓の外を見る。
胸の奥に、嫌な予感があった。
「彼女が本当に無事なのか、確かめろ」
その頃。
月影館。
マリアンヌは一人、暗闇の中に座っていた。
「……マリアンヌ」
久しぶりに、自分の名前を口にする。
誰にも呼ばれない名前。
もう誰にも必要とされない名前。
それでも――
「私は……マリアンヌ」
何度も呟く。
「マリアンヌ・フォン・ローゼリア……」
その名前を忘れたら、本当に自分が消えてしまいそうだった。
けれど。
その日を境に。
月影館で彼女を「マリアンヌ」と呼ぶ者は、一人もいなくなった。
彼女はただの「マリー」として扱われるようになった。
そして王都では――
マリアンヌ・フォン・ローゼリアという令嬢は、いつしか人々の記憶から消えていった。
まるで。
最初から存在しなかったかのように。
――第一章・完。




