11
朝。
マリアンヌは、誰かに肩を揺すられて目を覚ました。
「マリー。起きて」
「……ミラ?」
「うん」
聞き慣れた声に、少しだけ安心する。
けれど、目を開けても何も見えない。
それはもう、当たり前になりつつあった。
「今日は私が一緒に行くから」
「どこへ?」
「食堂」
「……分かった」
マリアンヌはベッドから降りた。
立ち上がるだけでも、以前より時間がかかる。
足元が見えないからだ。
「右に一歩」
「……こう?」
「そう。そのまま真っ直ぐ」
ミラに手を引かれながら、廊下を歩く。
最初は悔しかった。
誰かに手を引いてもらわなければ歩けないことが。
けれど、今はもう慣れ始めていた。
「ここだよ」
「ありがとう」
椅子に座る。
目の前に食事が置かれる音がする。
「今日はパンとスープ」
「……スープ?」
「うん」
ミラが手を添えてくれる。
「ここにあるよ」
マリアンヌはゆっくりとスプーンを握った。
少しずつ口に運ぶ。
「……美味しい」
「本当?」
「うん」
久しぶりに、自然な言葉が出た。
ミラが嬉しそうに笑う。
「よかった」
食事を終えたあと。
マリアンヌは女主人に呼ばれた。
「マリー」
「はい」
「今日から簡単な仕事をしてもらうわ」
「……分かりました」
マリアンヌはもう逆らわなかった。
ここで生きていくには、従うしかない。
「あなたには、帳簿の整理をしてもらう」
「帳簿?」
「元公爵令嬢なら、数字くらい扱えるでしょう?」
「……はい」
幸いなことに、それならできる。
マリアンヌは机に座った。
帳簿を開く。
けれど――
「……」
何も見えない。
当然だった。
「……そうだった」
自分が盲目になったことを、改めて思い知らされる。
「数字が読めない」
女主人は少し黙った。
「……そうね」
「申し訳ありません」
「謝る必要はないわ」
女主人は帳簿を閉じた。
「別の仕事を探す」
その声に、わずかな苛立ちが混じっていた。
マリアンヌは俯いた。
自分にできることが、どんどん減っている。
「……何かできることはありませんか?」
女主人は少し考えた。
「客室の花を整える仕事ならできるでしょう」
「やります」
即答した。
少しでも役に立ちたかった。
何もできない人間にはなりたくなかった。
その日の午後。
マリアンヌはミラと一緒に花を扱っていた。
「これは薔薇」
「……薔薇?」
「そう。触ると棘があるから気をつけて」
ミラが手を添える。
マリアンヌは花びらに触れた。
柔らかい。
「綺麗……」
思わず呟く。
「見えなくても?」
「うん」
マリアンヌは小さく笑った。
「花は、触れば少し分かるから」
ミラは何も言わなかった。
ただ、そっと別の花を手渡す。
「これは?」
「……分からない」
「じゃあ、匂いを嗅いでみて」
マリアンヌが花に顔を近づける。
甘い香りがした。
「……百合?」
「正解」
初めて、マリアンヌは声を出して笑った。
「ふふっ」
ミラも笑う。
ほんの一瞬。
それは、以前のマリアンヌに戻ったような時間だった。
けれど――
その夜。
王宮では、一枚の報告書がレオンハルトの机に置かれていた。
「殿下」
「何だ?」
「馬車の捜索についてですが……」
レオンハルトが顔を上げる。
「何か分かったのか?」
「はい」
側近は一枚の地図を広げた。
「馬車は国境へ向かっていませんでした」
「……では、どこへ?」
側近が森の一点を指す。
「西の森です」
レオンハルトの表情が変わった。
「そこから先は?」
「馬車の痕跡が途切れています」
「……」
「護衛の遺体も発見されていません」
嫌な予感が確信へ変わっていく。
「マリアンヌは……」
レオンハルトは立ち上がった。
「国外へ追放されたんじゃない」
拳を握る。
「誰かに連れ去られた可能性がある」
そしてこの日。
レオンハルトは初めて――
婚約破棄の事件そのものを、疑い始めた。




