8
朝。
マリアンヌは、目を覚ました。
けれど――
何も見えなかった。
「……?」
最初は、まだ夜なのだと思った。
けれど、窓の外から鳥の声が聞こえる。
朝なのだ。
いつもならカーテンの隙間から差し込む光が、部屋を照らしているはずだった。
マリアンヌはゆっくりと手を伸ばす。
「……カーテン」
指先が布に触れる。
勢いよく開けた。
それでも。
何も見えない。
「……え?」
胸が大きく跳ねた。
何度も瞬きをする。
目を擦る。
それでも暗い。
「……嘘」
マリアンヌはベッドから立ち上がった。
壁に手をつく。
「誰か……」
声が震える。
「誰か、いませんか?」
返事がない。
「ミラ……?」
扉へ向かおうとする。
しかし、何も見えない。
一歩。
また一歩。
手探りで歩く。
そして――
ガタンッ!
椅子に足をぶつけた。
「痛っ……」
転びそうになり、壁に手をつく。
「……嫌」
マリアンヌはその場にしゃがみ込んだ。
「見えない……」
その言葉を口にした瞬間。
涙が溢れた。
「私……何も見えない……」
怖い。
今まで感じたことのない恐怖だった。
自分の手すら見えない。
自分がどこにいるのかさえ分からない。
扉が開いた。
「マリー?」
ミラの声。
「ミラ……!」
マリアンヌは声のした方向へ手を伸ばした。
「ここにいるよ!」
ミラが駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「見えない……」
「え?」
「何も……見えないの……」
ミラの顔から血の気が引いた。
「ちょっと待って」
すぐに女主人を呼びに行った。
しばらくして、部屋に数人の足音が響いた。
「本当に見えないの?」
女主人の声。
「……はい」
「いつから?」
「今朝……起きたら」
女主人は黙った。
しばらくして、冷たい声で言った。
「医者を呼ぶ必要があるわね」
マリアンヌはほっとした。
「……治るでしょうか?」
「さあ」
その一言で、再び不安になる。
「でも……治療を受ければ」
「誰が治療費を払うの?」
「……」
「あなたはもう公爵令嬢ではないのよ」
マリアンヌは黙り込んだ。
「それに、目が見えないとなれば……」
女主人は言葉を濁した。
ミラが睨む。
「それでも病気なんですよ!」
「分かっているわ」
女主人は淡々と答えた。
「でも、商売をしている以上、価値があるかどうかは考えないといけない」
マリアンヌはその言葉を聞いてしまった。
胸が締め付けられる。
価値。
自分の存在が、そんなものだけで決められてしまう。
「……私」
マリアンヌは震える声で呟いた。
「私は、もう価値がないんですか?」
女主人は答えなかった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
その日の夜。
マリアンヌはベッドの上で膝を抱えていた。
何も見えない。
音だけが聞こえる。
遠くから聞こえる笑い声。
廊下を歩く足音。
扉の開閉音。
知らない誰かの声。
それらすべてが、以前よりずっと大きく感じられた。
「……お母様」
小さく呟く。
「私、どうしたらいいの?」
当然、返事はない。
「怖いよ……」
涙が頬を伝う。
「もう……何も分からない」
自分がどこにいるのか。
誰を信じればいいのか。
これからどうなるのか。
何も分からない。
ただ一つだけ分かることがあった。
――自分の世界から、光が消えた。
そしてその頃。
遠く離れた王宮では、レオンハルトが一枚の報告書を手にしていた。
「……国境には到着していない?」
側近が頷く。
「はい。マリアンヌ様を乗せた馬車が、国境へ到着した記録がありません」
レオンハルトの眉が動いた。
「どういうことだ」
「……現在、調査中です」
レオンハルトは報告書を握りしめた。
胸の奥に、初めて小さな違和感が生まれていた。
――マリアンヌは、どこへ消えた?




