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それから数日。
マリアンヌは、月影館の中で過ごしていた。
まだ客の前に出ることはなかった。
女主人は、彼女が元公爵令嬢であることを利用して、しばらく価値を高めるつもりらしい。
その間、マリアンヌに与えられた仕事は簡単なものだった。
部屋の掃除。
衣服の整理。
花瓶の水を替えること。
どれも、かつての彼女なら使用人に任せていた仕事だ。
けれど今は違う。
自分でやるしかない。
「……こんなところで、何をしているのかしら」
花瓶に水を注ぎながら、マリアンヌは呟いた。
窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
それだけが、かつての生活と繋がっているように感じられた。
「マリー」
背後からミラの声がする。
「はい」
マリアンヌは振り返った。
「それ、終わった?」
「もう少しです」
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
そう答えた瞬間だった。
手元が滑った。
ガシャン!
花瓶が床に落ちる。
「……!」
水が床に広がった。
マリアンヌは慌ててしゃがみ込む。
「ごめんなさい……」
「大丈夫だよ」
ミラもしゃがみ込む。
「怪我してない?」
「はい……」
マリアンヌは割れた花瓶の欠片を拾おうとした。
そのとき。
「あっ……」
指先に鋭い痛みが走った。
「血が出てる!」
ミラが慌てて手を掴む。
「触らないで!」
マリアンヌが反射的に手を引いた。
ミラが驚く。
「……ごめんなさい」
「ううん」
ミラは優しく笑った。
「怖かったんだよね」
マリアンヌは何も言えなかった。
少しして、ミラが傷の手当てをしてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミラが立ち上がる。
「じゃあ、私が片付けるね」
その姿を見ていると、マリアンヌは少しだけ胸が温かくなった。
ここへ来て初めてだった。
誰かに優しくされたのは。
――けれど。
「……?」
突然、視界が霞んだ。
目の前にいるミラの姿がぼやける。
「ミラ……?」
「ん?」
「ちょっと……」
マリアンヌは目を擦った。
「目が、おかしいみたいです」
「見えないの?」
「いえ……」
少しすると、元に戻った。
「もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ミラは心配そうにマリアンヌを見つめた。
「最近、よく目を擦ってない?」
「……そうですか?」
「うん」
マリアンヌは考える。
確かに最近、何度か視界がおかしくなる。
最初は疲れているだけだと思っていた。
けれど――
「少しだけ、見えにくい気がします」
「女主人に言ったほうがいいよ」
「……病院に連れていってくれるでしょうか」
ミラは黙った。
その沈黙が答えだった。
「……そうですよね」
マリアンヌは苦笑した。
元公爵令嬢だった自分が、こんな場所で医者に診てもらえるはずがない。
その日の夜。
マリアンヌは窓辺に座っていた。
遠くに見える王宮の明かり。
かつてなら、あの場所へ行けばレオンハルトに会えた。
今は――
もう、遠すぎる。
「殿下……」
名前を呼ぶ。
返事があるはずもない。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「私……まだ、ここにいます」
涙が頬を伝う。
「どうして、迎えに来てくれないの……?」
もちろん答えはない。
マリアンヌは涙を拭った。
そのとき。
また視界が霞んだ。
「……また?」
今度は、さっきより長い。
窓の外の明かりが、ぼんやりと滲んでいく。
マリアンヌは目を閉じた。
そして、ゆっくり開く。
少しだけ戻った。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「きっと大丈夫」
けれど。
その翌日から。
視界が霞む回数は、少しずつ増えていった。




