5
朝が来た。
けれど、マリアンヌにとって朝も夜も、もう意味を持たなかった。
窓から差し込む光を見つめながら、ベッドの端に座っている。
昨日までとは違う部屋。
昨日までとは違う服。
昨日までとは違う場所。
そして――
「マリー」
扉の向こうから声がした。
マリアンヌは顔を上げる。
「……誰?」
「あなたのことよ」
「……」
マリアンヌは答えなかった。
「マリー。支度をして」
「私は……マリアンヌです」
思わずそう答えた。
扉の向こうが静かになる。
やがて女の声がした。
「ここではマリーよ」
「……嫌です」
「名前なんて、どうでもいいでしょう」
「嫌……」
マリアンヌは胸元を握りしめた。
「私は……マリアンヌです」
それだけは奪われたくなかった。
自分が自分であるために。
けれど、扉の向こうの女はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、鍵が開く。
入ってきたのは、昨日マリアンヌを出迎えた女だった。
「名前にこだわる気持ちは分かるわ」
女は椅子に座った。
「でも、ここでは過去の身分は何の役にも立たない」
「……私は帰ります」
「どこへ?」
「ローゼリア公爵家へ」
「もうあなたの家じゃないでしょう?」
「……」
「王太子殿下のところは?」
胸が痛んだ。
「……殿下が、私を迎えに来てくださいます」
自分でも、根拠のない言葉だと思った。
けれど、そう信じたかった。
「そう」
女はそれ以上何も言わなかった。
その日の午後。
マリアンヌは窓辺に立っていた。
外を眺める。
王都の街が見える。
ここからなら、遠くに王宮の尖塔も見えた。
「……殿下」
あそこにいるのだろうか。
私がここにいることを知らないだけなのだろうか。
もしかしたら、今頃必死に探してくれているかもしれない。
そう考えると、ほんの少しだけ心が軽くなった。
けれど――
「マリー」
背後から声がした。
振り返る。
そこには一人の少女が立っていた。
マリアンヌより少し年下に見える。
「……誰?」
「ミラ」
少女は笑った。
「ここの人たち、怖いでしょう?」
「……」
「私も最初は怖かった」
ミラはマリアンヌの隣に座った。
「でも、慣れるよ」
「慣れたくない」
マリアンヌは即答した。
ミラは少し驚いた顔をした。
「そうだよね」
そして、悲しそうに笑った。
「私も昔はそう言ってた」
「……」
「でも、ずっと抵抗してると、心が先に疲れちゃうから」
マリアンヌは黙った。
その言葉が妙に胸に残った。
夜。
部屋へ戻ると、ベッドの上に見知らぬ服が置かれていた。
マリアンヌはそれを見た瞬間、顔を強張らせる。
「……嫌」
身体が震えた。
「こんなの、着たくない」
誰も返事をしない。
マリアンヌは服を床に落とした。
「私は……公爵令嬢なの」
自分に言い聞かせるように呟く。
「私はマリアンヌ・フォン・ローゼリア……」
何度も。
何度も。
「私は……」
けれど、言葉を繰り返すほど不安になっていく。
本当にまだ、自分はマリアンヌなのだろうか。
婚約者を失った。
家族を失った。
身分を失った。
住む場所も失った。
そして今――
名前まで奪われようとしている。
「……帰りたい」
涙が一粒落ちた。
その夜、マリアンヌは眠れなかった。
翌朝。
彼女は鏡の前に立った。
そして自分の顔を見つめる。
「……私は、負けない」
小さく呟く。
「いつか必ず、ここから出る」
その瞳には、まだ僅かな光が残っていた。
――このときはまだ。
マリアンヌは、自分の心が壊れてしまう未来など知らなかった。
そして彼女の身体にも、馬車の中で浴びた薬品による異変が、静かに始まっていた。
「……あれ?」
視界の端が、一瞬だけ白く霞んだ。
マリアンヌは目を擦る。
「疲れてるのかな……」
そう思って、もう一度鏡を見る。
そのときは、何も変わらなかった。
けれど――
彼女の視界を蝕む異変は、確実に始まっていた。




